アシの魔女・1

 ニヌガルの作り出す結界は朝露に隠されている。昼なら舞い上がる砂埃に、夜なら闇の中に。生きた人間の目には、微かな霞にも感じられないだろう。

「やっぱりまだ衰えてないな」

「冗談。あんたがいない間に随分と変わったよ。少し前には弟子をとったし、それを破門もした」

 階段を上がって踊り場の柱に、ニヌガルは腕を組んで立っていた。後ろをついてきていたのがわかっていたラクダは、特段反応を見せずに窓の外を眺めたまま少し微笑んだ。

「おまえが弟子をね。珍しいこともあるもんだ。それともそれが時間の流れというものだろうか」

「しつこかったのよ、あのガキ。素質もないのにもう帰るところもないからってここに居座られたら置いておくほかないでしょう……数年もしたら勝手に出て行ったから破門したけれど」

「はは」

 元々の人柄で情は厚くとも世を隠居したこの魔女は、そっちの方がらしいよなと笑みが溢れた。

「変わったのはあなたでしょ。人間の身体に入ればそいつの人格と記憶に飲まれて、そりゃ一時的に変容するけど。侵入者かと思って追い返すところだったわ」

「仕方がないだろ、破片を保護するためにはこうする他なかったんだから」

「破片って、あれのことだろう。あんなものが本当に壊れたの?」

 本当だ、なんてあえて語るまでもない。唇を結んで黙するラクダに、ニヌガルは乾いた舌打ちをする。

「……どうしようもないね。通りであんたみたいなのが引っ張り出されたわけだ」

「ニヌガル、そういうことは麻来の前では」

「わかってるって」ひらりと手を振り、その指を廊下の奥へと指す。その先には扉を開けた【カゲロウ】、……今は風丸と名付けられたその子がこちらを見ていた。

「いい。……あの子はもう気付いているようだから」

「あっそう。それじゃ、私はお嬢さんの様子でも見に行くかね。」

 ニヌガルは柱から背を持ち上げ、階段を下りて行った。入れ替わるように風丸はこちらに歩いてきて深く礼をした。

「父は刺客を一時退却させたようです。おそらく膠着状態を解くための策ですから、すぐに出発するのは危険ですが」

「わかった」先程まで一緒にいたのに何も言って来なかった魔女にこみ上げる溜め息を飲み込んだ。「だけどいつまでもここに留まっているのも同じ事だ。そろそろ突破口を見つけないと」

「はい、母さま。」

 堰き止めたはずの溜め息をつい吐き出して、風丸にそっと手を伸ばしてゴーグルを外し、首元に下ろす。猫のように円い瞳がじっとこちらを見つめていた。

「その呼び方はやめてくれよ。というか、本当は麻来の前で言う前にやめて欲しかった」

「あなたは私に再び生命を下さった。つまりは母ということだ。何か不都合が?」

 いまいち伝わらない会話。【カゲロウ】は指示には従順なはずだし、主人を失ったこの個体であってもそれはそう変わらないだろう。だというのにどうしてこの願いだけはこの子に届かないのだろうか。よくわかっていないのか顎に手をやって思案するように俯く風丸を見て、ラクダもどうしたものかと眉間を押さえた。

「私にはなぜ貴方のようなお方があの男の姿をしているのか分からないのですが。貴方は——」

 言いかけた唇に人差し指が触れ、風丸は言葉を飲み込んだ。

「しっ。麻来に聞かれてしまう。」

「……彼女に知られるといけないのですか」

 ラクダの意図を汲んで声量を心持ち落としながら、しかし率直に尋ねた。その瞳はあの飛空城の上空で見た時と同じ魔力を湛え、相手を引き込む。とてもあの男が製造した人工物とは思えない光があった。やはりこの子たちは、消費されるべき存在ではない。

「隠す必要があるのならするべきではなかったのではないですか。相手がマキとはいえ、人間の前であのような奇跡を、見せるべきではなかった。隠し通したいのなら、死にゆく一機の【カゲロウ】など看過しなければならなかった」

「……それをきみがいうのか。命を拾って、自由を得たきみが」

 風丸はやはり、わからないというように首を傾げた。



 部屋を出て短い廊下を少し行くと、古い木の扉をくぐって天井の高い講堂に辿り着いた。真ん中に通路ができるように長椅子が縦列に並べられ、太い柱が左右同数に立っている。アーチ型の窓枠に嵌っている硝子が朝日を歪めて、反対の壁に差し込んだ光を揺らしている。

 扉近くに祭壇があって、壁の古いタペストリーには大宗教を表す大きなシンボルマークが織られていた。ここは講堂ではなく、ちいさな街のささやかな礼拝堂だったらしい。ニヌガルがシャーマンだとかいいながらシスターの格好をしていたのはそういう宗教施設に住み着いているからなのだろうが、麻来には何もわからない。

 見渡すと埃が舞っているし椅子は色褪せて、全体的に廃れて見えるけれどまだ機能しているのだろうか。

 祭壇に近付いてうっすらと積もった白い塵を見下ろす。やっぱり使われていないようだ。ニヌガルは掃除をさぼっているみたいだ。

 と、礼拝堂の出入り口の先で何か硬いものが当たるような音がして。

「誰か……いる?」

 それはゆっくり規則的なテンポで数回続いたので麻来は好奇心に駆られてそう声をあげた。すると音はピタリと途絶える。

 足音のようだったので声をかけてみたが、建物を出ないようにと約束させられたのでこれ以上行くのは良くないだろうと逡巡する。……声なんてかけないほうが良かったのかもしれない。

「麻来」

 ニヌガルが麻来の腕に触れて、そっと引っ張った。足音もしなかったのに、いつの間に近付いていたのだろうか。彼女は麻来の口元に人差し指をあてて、なにか言おうと口を開きかけていた言葉を柔らかく封じた。

「ああいうのは話しかけたり、招いたりしてはいけないよ。迂闊にやると、あまりいい結末を迎えないのが定番ってやつだ」

「…………?」

「いくつかのお話。正体のわからないものには関わるな、道を踏み外すなよっていう昔話だよ」

 ニヌガルはちらりと扉の方を見遣るが、何も言わずに腕を組んで麻来に向き直った。

「ところであんた、このさきどうするの?」

「え?」

「本当にヤナギミオに会いに行っていいのかって聞いてるの。そいつ、【呼水】の関係者なんじゃないの?」

「ちがう。だって何も聞いてないもの。」

 水尾は【呼水】のことなんて話をしたことはなかった。それにラクダだって、水尾とあの組織のことなんて……

「…………、」

「何も聞いていないの? ラクダがなんのためにあんたを訪ねたのか。【カゲロウ】からあんたを守って、没国から連れ出したのか? ……どうしてヤナギミオと知り合っているのかも?」

「…………」

 確かに、はぐらかされてばかりだ。

 柳水尾という人はたしかに不思議な人だった。自分の話が好きだったしお喋りな人ではあった。口うるさいしこだわりが強くて細かいことに口を出してくる。近い目線で会話できるような平凡な人だ。けれど思えば、麻来と会う前の事を聞いたことがない。

 三年前、彼が何のために大陸へと渡ったのか、それすら知らないままだ。

 それでもいい。

「……水尾に会えたらそれでいいの。その後に何が起こったって、そんなことは知らないの」

 私はもう何も持っていない。ラクダに連れ出されてから、全てはあそこに置いてきた。それにもう死んでいるのだから、これ以上怖いことは起こらない……と思う。

 ニヌガルはそんなことを嘯く麻来を斜視して、溜め息をついた。

「……言っておくけどいじめてないよ。確認をしただけだ」

「何も言ってないぞ。元々、おまえのことは疑ってないよ」

 昨日は風丸だったが、今日はラクダが麻来の肩に手を置いていた。ラクダはそのまま麻来を自分より奥側に移動させる。

「何…………」

「少し待って」

 見るとラクダとニヌガルの視線が鋭く扉の方へ向いており、何かに警戒している。

「麻来、一人のとき、誰かに声をかけられたりしたかい」

 麻来は首を振る。「足音はしたような気がしたけど」

 ラクダは眉を潜めた。

「…………よくないな」

「結界に潜り込んだってことは仕組みを知ってるやつってことだ。厄介なことにならないといいけど」

「残念だけど手遅れだよ。事態は既に非常に絡み合っている。アシの魔女ニヌガルを巻き込むしかないほどに」

「それ、あなたがいうんですか。……まあ、【ラクダ】、あんたとの付き合いは長いけど、こんなことは初めてじゃないからね」

 皮肉めいた笑いを浮かべながらも、もう抵抗する気はないらしい。ニヌガルは何かを準備するように目を瞑った。

「風丸を呼んできな」

「大丈夫、もういるよ」

 見るとラクダの傍らにいた風丸と目が合った。

 と、ニヌガルが石造りの床に膝をつき、片手を置いた。するとその周囲に光の陣が現れる。

「これは一時的なもの。これをすることで痕跡が残って見つかる危険性もある。だけどいまここで押し入られるよりはましだからね」

 円はこの場にいる四人を囲むように広がる。

 陣の中で草が萌え、葦が伸び出した。それは石の床でもお構いなしに麻来たちの足元で急速に成長し、腰の高さまで覆っても止まることがなかった。

「なにこれ!?」

「落ち着いて。手を離さないで」

 ラクダは狼狽する麻来の手をしっかり掴み直し、風丸にも差し伸べる。

「ニヌガルの魔法で少し隠れるんだよ。眩しいなら目を瞑ったほうがいい。慣れていない人間には負担かもしれない」

 彼がそう言うと、風丸は素直に片手で目を覆った。麻来も目を隠そうとしたところ、礼拝堂の入り口で扉が押し開けられる音がして、見慣れない女性が飛び込んできた。

「…………って、まって」

「ニヌガル!」

「うっさい」

 急かすラクダを大雑把にいなして、ニヌガルは何かの術を続ける。女性は慌ててこちらに走ってくる。

「待ってください! 私も連れて——」

 伸び続ける葦で視界がかすみ始め、女性の声が途切れる。しかし駆け寄ってくるその顔を見て、ニヌガルは咄嗟に手を伸ばした。

 彼女の手がニヌガルに届いた瞬間、陣の内と外の空間が完全に隔って、四人は術の中に潜り込む。ニヌガルが引っ張り込んだ、彼女と共に。

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