夕の地、陽炎・2
「なにがなんだかわからないでしょう」
着古したネグリジェを床に落とした麻来に別の服を手渡しながら、ニヌガルは同情を含めたような、しかしからりとした声で言った。
「きっとびっくりしたんじゃないかな? 恋人の中身が全く変わってしまっているんだから」
麻来に着替えをさせるからと言ってラクダと【カゲロウ】を追い出した部屋。麻来はもらった服に頭を突っ込んで、無造作に着替えると服の寄れを引っ張って直しながら言う。
「別に。……水尾に会えたらわたしはそれでいい」
「ふうん」
話しかけておいて間延びした声でニヌガルは相槌を打って、麻来が拾わないので脱ぎ捨てられた服を拾う。
「そのヤナギミオとかいう男は本当に信用できる人物なの?」
一瞬、息が詰まって。
「え?」
着たばかりの麻の服はザラザラとして、巻き込んだ髪と擦れてバチバチと音を鳴らす。それは麻来の動揺した心を逆撫でするように。
「なによそれ。……わたしは二年もあの人と暮らしてたの。信じられないわけない」
「あんたはそりゃそう言うだろうけどね。私はそいつとは会ったことがないし、あいつは警戒すらしているようだ」
「あいつ?」
「ああ、今はラクダとか名乗ってるんだったか。センスを疑うよね」くつくつと喉の中で笑い声をもらし、まあそんなことはどうでもいいか、ところりと表情を戻した。
「じゃあ私もラクダと呼ばせていただくけど、ラクダはヤナギミオと面識があるようね。あれは喋っているとぼんくらだけど、人を見る力は強いのよ。あんたの見えないところまで、あいつは見た可能性がある。ヤナギって奴はあいつと契約を結んだとか聞いたし、そんな奴はね、薄暗い何かを隠してるものだよ」
「そんなわけない」
麻来は食いつくように彼女の言葉を一蹴した。どういうつもりで言っているのか、よく理解もせずに。
「だって水尾はわたしを助けてくれた人なの。どうしてそんなことを言うの?」
「……あんたは優しくしてもらってたのかもしれない。だけど私はそいつと会ったことがないし、身元もわからないあんたたちよりもラクダの方を信用しているの。付き合いも長いしね。いやになるほど」
嫌な汗が流れそうだった。この身体になってから、汗なんて出たことはないけど。柔らかいところを針で突かれているような気分だ。
「でも、でもわたしは、水尾が……」
ただ淡々と、純粋に確認をするように彼女は詰めてくる。
「マキ」
麻来の焦燥に震えた肩を誰かがトンと叩いた。振り向くと【カゲロウ】がそこに立っており、麻来をじっと見つめていた。ゴーグルはどこかに置いてきたのか、ガラスのような瞳を麻来は初めて見た。
「母さまから伝言です。そこの占い女に何か変な事を言われた時はすぐに俺に言うように、との事です」
「占い女ってもしかしなくても私のこと? 大きなお世話だし、そういうのは本人のいない所で言っておいてくれないかな」
口を挟んできたニヌガルをじっと見て、【カゲロウ】は更に言った。
「必ずニヌガルさまの聞こえるところで言伝を渡すように、との事です」
「あからさまな牽制って事ね? 上等。ちょっとあいつと話してくるわ。あんたたちはここでゆっくりしてなさい」
麻来が着た服の寄れている箇所をささっと直すと、「麻来。いじめるつもりはなかったんだよ。悪かった」とだけ弁解を口にして、ラクダを探しに部屋を出ていった。
「…………今のほんと?」
「何がでしょうか」
麻来に話しかけられて、【カゲロウ】は自分も出ていこうと踏み出した足を止めた。
「ラクダからの伝言だったの?」
「そうですが、何故?」
「タイミングが良かったから、あの人をどっか行かせるためのハッタリかと思った」
【カゲロウ】は麻来が言っていることがわからないのか、首を傾げる。どうもそういうわけではないらしい。
「私たち【カゲロウ】は自らの意思での思考・発言・行動に制限がかかっています。嘘をついたり、誤魔化したりというような細かい会話を得意とするものではないのです」
つまり今のは本当のことだということ。別に疑っているわけではないので納得することにして、ふと思った。
「それで君、なんて名前なの」
「名前はありません。識別番号はありますが、これはただの記号ですからあなたの言う名前というものではないかと」
それって不便じゃない? 簡単な名前じゃないとわたしも覚えられない。
「ちなみにそれ、番号ってなんて言うの」
「E001です」
「…………」
「本来はそれも機密事項なのですが、私は既に破棄され父の手を離れた身ですからきっともう無効でしょう。」
言いにくい。これから会話するのにこれだと不便すぎる。
「じゃあ…………風丸」
「え?」
不意に上がった戸惑いの声は別の方向から聞こえてきたもので、振り向くとニヌガルが戻ってきていた。
「何なのそれ、カゼマル? 妙な響き……じゃない?」
「いつまでもカゲロウって呼ぶのも変でしょ。アニマルシリーズはラクダで十分。どう?」
「いいと思うよ」
ニヌガルの後ろからラクダもついてきた。二人の話し合いとやらは決着がついたのだろうか。
「本気? これで決定でいいの?」
麻来の名付けにニヌガルだけは食い下がる。
「構いません。母さまがいいとおっしゃるなら」
「そうなの。いいけど……安易に名を決めるなんて……全くもう…………」
眉間を押さえてふらつきながら部屋の壁にすがりつく。
「……この人、どうしたの」
「彼女のいた集落では、産まれた子の命名は一種の儀式だったんだ。今みたいに流れで決まるなんて考えられないんだと思う」
せっかくいい名前だと思って付けたのに、こんな反応されるとは。ちょっと失礼なんじゃないだろうか。
「まあ、もしきみが不満ならまた考え直せば良いしね」と、ラクダまで言い出すのでそれは足を踏んでおいた。
「私はこれで構いません。」それでも風丸はそう言って胸に手をやり、また何かに耳を澄ますように目を閉じた。
「マキ。ありがとうございます」
素直に感謝を述べると、麻来の正面まで歩いてくる。見た目は子供だと思ったけれど、背はそんなに低くない。麻来と同じくらい、いや、少し高いように見える。あるいは麻来の身長が低めなだけかもしれないが。とか考えていると、風丸は麻来の背中に手を回して軽く抱きしめた。
「……!?」
「おや」
後から聞くと、人は感謝の印にハグをする習慣があるのだとどこかで聞いたことがあったのだと言う。どこで得た知識なのかわからないが、風丸なりに自分たちに歩み寄ろうと努力しているのだろう。ラクダは子供の先行きに些か心配を覚えつつも、そう納得することにしたのであった。
彼はここを動けない。とある箱の中。何も見えない、白の空間。そのため、不本意ながら自分を管理しているこの研究者が部屋をうろつく音や気まぐれに流す音楽をただ聞いているしかできない、退屈な空間。聴覚が残っているのが不思議なくらいだが、そこはこの容れ物を彼に与えた製作者が勝手に箱に搭載した機能なのだろう。エーテル体の保管のためとはいえそれがないと流石に精神が発狂していたかもしれないのでそこは感謝を込めて手を合わせておこう。こいつにではない。偶然と神様の気まぐれに、だ。
箱はいつも研究室に置きっぱなしで、突然の来客にも所有者は動じず、特に隠したりすることもない。
『それで、目標は見つかったのですか』
「座標はわかってる。俺の仕事に口を出すなって言ったつもりだったんだが?」
女の声。話し方や会話の内容から、大方いつもの監視役が連絡を寄越したのだろう。確か、東支部の管理を任されている幹部だったか。そんな身分の人間が様子を見るため直接通話をしてくるのだから、この研究室にいるそいつがどれだけ警戒されているかがよく分かる。実際、要注意人物であることに間違いない。だから自分の霊体は預けても、一番大事なものは別のところへと隠していたのだ。
『しかし任務完遂には至っていないのですね? 居場所は把握しているのにどうして突入指示すら出さないのです?』
「突入させられないからに決まってるだろ。状況も分かってない癖にいちゃもんつけやがって」
不機嫌そうな研究者の声。彼女が連絡用コンピュータの画面に現れる直前まで、鼻歌交じりに書物を弄っていたというのに。研究の邪魔をするから嫌いなんだそうだ。
『ただの結界でしょう。あなたの発明品で何とか出来ないのですか』
「人の作品を便利道具みたいに言うな!」
部屋に響いた金切り声の余韻が唸るように残って。研究者は幹部を睨み据え、と思うと無言で近くの椅子を蹴り飛ばした。それで少し落ち着いたのか彼女から視線を逸らした。
幹部は怒鳴られても身動ぎせずに癇癪を起こした研究者を眺めていたが、やがてかすかに肩を竦める。
「……お気になさらず。私があなたを頼りにしていた、というだけですよ」
と、飄々と弁解をして、通話の終了を告げる。
「噓を吐け」研究者はどこまでも敵意を向けて相手より早くコンピュータの電源を落とした。
こっちは割って入って仲裁することは出来ないので相手の気を損ねたりして余計に怪しまれたり指摘されたりしないで良かったと、彼は箱の中で胸をなでおろした。ただでさえいつ見つかるかとひやひやしながら過ごしているのに、こんなところで暴れられたら何かの拍子に勘づかれるかもしれない。
〈あんまり刺激すんな、あの女。俺の存在がばれたらお前だって無事じゃ済まないぞ〉
そう釘を刺すのも何度目か。幹部の声が消えてからしばらく待って、彼は小声で同じことを繰り返し言う。それだけこいつが軽薄だということだ。
「声が小さくて聞こえないなあ」
耳を扇ぐ仕草をする研究者。見えなくても、そいつがどう振る舞っているのかくらいはわかるようになっているらしい。
〈聞けよツィヨウ。契約外の行動を取った場合、お前にも損失があるはずだろ〉
「契約違反すれすれのことをやりやがったのはお前の方じゃないのか?」ツィヨウと呼ばれた研究者は蹴飛ばした椅子を拾ってコンピュータの前に置き直し、どかっと座る。
「まったく余計なことをしてくれたなあ、ヤナギ。破片を盗んで俺からも隠した挙句命を落とし、身体まで紛失してくるとは。あわや計画は破綻かと思ったぜ?」
〈ちっ、うるさい〉嫌味を振り払って舌打ちする。〈余計なことしやがったのはお前だろ。麻来には手出しするなって伝えたはずだぞ〉
この結果は自分の落ち度ばかりではない。正直、この男も信用ならないから契約を掻い潜って色々と仕込む羽目になったのだ。
「何言ってる。命令には従うポーズを取った方がいいってお前が言ったんじゃないか? それに俺はお前たち亡霊の恋路を応援してるんだぜ。保護してやろうと思っただけだ」
〈はあ…………〉
刺客まで送り込んでおいて、この男はまだしらばっくれるつもりか。……いいや、あまり誤魔化す気もないのだろう。彼女の霊体が無事なうちは違反とはならないからだ。やっぱり保険をかけておいて正解だった。
それに、今の彼はこの研究者に報いる力など持っていない。この男が作った箱の中で霊体を保つことしかできないのだから。
〈……どうしてお前に命を握られる羽目になっちまったんだ〉
「命はとっくに一度なくしたろ。お前のそれは既に砕けた残骸を、無理矢理つなぎとめているだけだ」
ツィヨウは端末用のペンをくるりと回して言った。ペンは彼の指で一回転だけ踊ったあと、勢い余って縦回転しながらあっけなく床へ落下した。ペン回しが出来ないのにどうして回したんだ。
「…………けどあの女、やっぱり嫌だな。俺の邪魔するつもりなら」
研究者は呟いた。こちらの忠告など馬耳東風、何か企んでいる様子だった。
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