夕の地、陽炎

夕の地、陽炎・1

「……『殻』だね」

 誰かの、女の人の低い声が耳に届いて、麻来の意識はようやく戻ってきた。

 麻来は麻布のようなベッドに寝かされている。麻来は身動ぎもしていないのに木のベッドがギシッと音を立て、埃のにおいのあるマットレスが少しだけ浮いた。誰か、すぐそばに座っている。

「人口の肉体とでも言おうか。服を纏っているのと同じようなものだ。中身が魂だけの空っぽな状態でも、生きた人間のように活動することができる。ものを食べたり飲んだり、此岸にある器物や人間に触れたり、触れられたり。だからお前もこの子を掴めたし、ここまで運んでこれたんだ。おそらくその肉、いや素材はこの娘のものじゃないだろうが——おっと」

 麻来の視線に気付いたおばあさんが覗き込んできて、やさしい声で言った。

「起きたね」

「…………、」

 麻来は億劫そうに重い瞼の奥で瞳をきょろきょろと動かして、ぼんやりした頭で周囲を観察した。

 床も壁も天井も同じ色の石造りで素っ気ない古い部屋。装飾のない木製の棚に陶器の瓶や書物やドライフラワーのようなものが詰め込まれている。壁には灯されていない錆びた金属のランプがひとつだけ、その他には装飾品もなく、暗い灰色で温かみを感じない部屋であった。 

「……いま、誰かいた?」

「私がいるけど」

 彼女はケラケラと笑った。「あんたさ、初対面の人に対して聞くべきことが違うんじゃないの」

 そう言われて改めてその人を見上げると、明るい赤茶色の瞳が強烈なほど目に焼き付いた。

 歳は七十くらいだろうか。化粧がされていない浅黒い肌に、深いしわが少ないかわりに小じわが多くある。白いチュニックに丈の長い黒の貫頭衣。頭巾で髪が仕舞われている。どれも金糸銀糸の刺繍はされていない素朴なもので、貫頭衣などは普段から着ているせいか少し草臥れたエプロンのよう。服装は西洋発祥の一神教の修道女そのものである。しかし何だろう。あまり信心深そうに見えないせいか、装いと彼女の気質に差異があるような印象を抱いた。

 部屋には彼女の他に誰もいない。誰かと話していると思ったのだけれど。

「冗談はさておき。そうね、あんたを連れてきた片方がさっきまでそこの窓際にいたよ。あんたが起きたら行ってしまったけど」

 おばあさんが示したのは簡素な木枠が嵌められた半円形の窓の外。掛かっているのはガラスではなく植物柄のタペストリー。隙間からは薄い光が差し込んでいる。立ち上がれば腰の位置くらいの高さだったが、ベッドもさらに低いため横になったままじゃ外の様子を見ることは出来そうになかった。

「……片方って?」

「二人いたろう? その子供の方だよ」

 子供?

「子供なんて覚えがないし、連れは一人だけなんだけど」

 おばあさんはそれを聞いて片眉を上げ、一時、思案を巡らせた。

「ああ。なんだ、あいつの事を言ってたのか。そりゃそうか」

 そうして頭を搔いて立ち上がると、そのまま部屋を出ていった。

 思考がまとまって状況を処理し始める前にひとりにされてしまった。なんだったのだろう、あのひと。

 ところで本当にここがどこだか分からない。一番新しい記憶は、ようやく帰ってきた水尾が水尾ではなくて、そいつはラクダと名乗って、わたしは既に死んでいて、それから……高いところから落ちていたのだ。何人もの【カゲロウ】たちに掴まれて、下も見えない奈落の底へ道連れにされる。断片的に思い返すと夢のような話だ。

 それも最高級の悪夢。

 これを見せてくる神様みたいな奴がいるのなら、わたしの触れられると痛い所を徹底的に熟知している。高いところが怖いのも、水尾を誰にも取られたくなかったのも。

 ラクダのことだって許せないと、腹の中では恨んでいる。出会ってから何度も助けられたのに、彼に水尾が奪われたような気になって。

「麻来?」

 おばあさんが出ていった扉のない出口から入って来たのは、「……ラクダ」

 顔を見せた彼は前とは違って白いワイシャツを着ていた。家に来たときは水尾の私服そのままだったのでラフなものだったがこういうパキッとした服も…………やめた。麻来はうっかり水尾の顔に見惚れる自分をビンタして止める。

「!? なにやってんの」

 水尾の姿を借りた彼にラクダと呼びかけるのにも慣れてきた。……決していいことじゃないけれど。

「……具合はどう?」

 気を遣っているのか彼はそう言って、穏やかに笑いかけてくる。それは、いつだって薄笑いを浮かべていたかつての水尾の表情ではなくて、麻来は一瞬、言葉に詰まった。

「……いい気分じゃないよ」

「そう」

 変調なしと判定したのか麻来の不機嫌に付き合う気がないのか、ラクダはほっとしたように息を吐いた。

「そう言う君は? 生きてるのよね?」

「まあ、変わりないよ」

 今度は麻来が息を吐いた。また躱されたような気がして腹が立ったのだ。こいつと違って、安心したからではない。

「目が覚めたら見たことない部屋にベッドにシスターっぽくないシスター。本当にどこかに落っこちて、あの世か何処かまで流れ着いたのかと思ったわよ」

 麻来の不機嫌を感じ取って、ラクダはこちらをまっすぐに見る。そしてもう一度、はぐらかさずに答えなおした。

「俺はちゃんと生きてるよ。あなたもまだ連れて行かれていない……」

 そんなの分かってる。

 麻来は不機嫌に目を落とし、ふと先ほどの疑問を思い出してまた連れを見上げた。

「もうひとりは? なんか、いるんでしょ、さっきの女の人が言ってた」

「…………ああ、」

 ラクダは苦そうに笑いを浮かべた。

「それは【カゲロウ】だよ。あなたが助けた、あの子だ」

 というと、倉庫に置いていかれていた死にかけのあの【カゲロウ】だろうか。

 あの子、と言う彼の伏せた目に何故だか翳りが差したのを見た。けれどあのとき命をたすけたのは君であって。

「べつにわたしが何かしたわけじゃないし」

「いいや、」

 気付けば彼は傍らに膝をついて、麻来の左手を握り込んでいた。

「してくれたよ。本来、あの【カゲロウ】はあそこで死ぬ予定だった。翅は折れ、心臓を抜き取られて、何の疑問もなく、ただ忠誠であるが故に。……そんなことは許されないのに」

 なのに俺に出来ることは何もない。

 知ってか知らずか、ラクダは小さく弱音のようなものをこぼす。

「あなたが言ってくれなければ、俺はあの子をあのまま置いていっていただろう。俺だけではそうするしかなかったんだ。あなたがあの子をあの墓場から連れ出したんだよ」

 ラクダは家臣が王女様にするように膝を折って、手を握ったまま、優しく笑う。心臓が大鐘のように鳴り、麻来はあやうく赤面するところであった。……ちょっと、手遅れだったかもしれない。ラクダの手から自分の手を引き抜いて、布団の下に押し込む。

 何もないことないのに。わたしはただ見てただけ。あの場所で、あの暗いトンネルの下で、たおれた【カゲロウ】を助けたいと願ったのは君だけだった。

「……それがどうして一緒に来てるの。あそこを出たら置いてくって言ってたじゃない?」

「…………」

 ラクダは返答に窮し、そろりと視線を逸らした。「…………あなたがどこまで覚えているのかわからないけど、俺たちは結局、元々乗る予定だった飛空機に乗れていない」

 それどころかあそこにあった空を飛ぶ乗り物は全部壊したのだから当然の帰着だ。その上あの建物は結局爆破され、今頃地下まで瓦礫に埋め尽くされている。その壮観を後年の人が見れば、それは正しくこの荒廃した没国の一画を象徴するものとなるだろう。

 ラクダとしては一般人を巻き込むのもあの国に損害を出すことも良しとは出来ないので、あの飛空城が誰も寄り付かない廃空港だったことには胸を撫で下ろすばかりである。……ただ、作戦を遂行するために諸共落ちた【カゲロウ 】たちと人間以外の生き物たちへの被害は計り知れないのだけれど。

「で?」

「あなたはさっき、どこかへ落ちたのかと言っていたけど、実際は無事に済んでいるでしょう。俺たちがあの高所から落ちずに、尚且つ此処、旧帝国の一端まで辿り着けたのはひとえにあの【カゲロウ 】が助けてくれたお蔭なんだよ。」

 麻来の頭の中はしばしの間、情報処理に追われて相槌すらままならなかった。ここがどこだって?

「旧帝国」

「そうだよ。ここは没国と海峡を挟んだ大陸の東の地。かつては都と港町を繋ぐ要路として栄えていたのが今は廃れて、最近まで土地を追われた少数民族が潜むように暮らしていた。」

「ちょっと。さっきまで没国にいたじゃない。ほんとにここ、旧帝国なの?」

「さっきまで、というのは少し認識が違う。正確に言うとあの飛空城からここに至り、あなたがこうして目覚めるまでの、およそ一日半だ」

「歩いて一日とちょっとで海を越えるなんてありえるの…………?」

 にわかには信じがたいことである。没国と旧帝国の間の海域を船で渡れば片道半日くらいで上陸することは可能だろう。けれど国外へ出航する旅客船はもうほとんど運行していないというし、いくらラクダといえども個人で大陸へ渡る船を一艘調達するのに一日もかからないのは麻来の知識の中ではありえない。

「まあ、空港に置いたままのジェット機を買い取るのと沈んだ港から船を拝借するのとでは前者の方が簡単だったんだけどね。あの飛空城で待ち伏せされていることを予測出来なかった此方のミスかな……実際、どちらも使わずに来れてしまったのだから結果は悪くないけど」

「何が結果オーライだ。」誰か口を挟んで来たと思えば先程出て行ったおばあさんが戻ってきていて、ラクダの肩をがっちり掴んだ。「私の町に突然墜落してきてよく言うね」

「ここは完全に住人が去った廃墟だよ」ラクダは彼女の登場を歓迎しないというかのような深い息を吐いて言い返した。「おまえが勝手に住み着いているだけでしょう」

「止むを得ない事情があったんだよ。だいたい、ここまで逃げ込んできてこの私の世話になってるあんたたちが言うことではないわね」

 彼女はぞんざいに払われた手の手首を押さえてぐりぐりと動かしながら嫌味を言う。

「この子、あんたのことを探していたんだよ。目覚めた時に私しかいなかったものだから。そばにいてあげなきゃ駄目って言ったろう」

「……あのねニヌガル、」何か誤解していそうな口振りで彼女が目配せするので、ラクダは眉間をさすりながら溜め息混じりに言いかける。しかし不平と訂正を飲み込んで、麻来を振り返る。

「彼女はニヌガル。こんななりをしてるけど、シャーマンだよ」

「こんな、とは。あんたには嫌なにおいだろうけどね。”これ”だってれっきとした古い信仰の連なりだよ。蔑むべきではない」

 ニヌガル、と呼ばれた彼女が自分の着ている修道服をぞんざいに引っ張って離すので、黒いスカートの裾がふわりと浮かんだ。

「……別にあれを否定するつもりはないよ、一方的に敵視して追い立ててきたのは向こうだし。どちらにせよ今の俺には関係のない話だ……そもそもおまえのそれはカモフラージュだろ、好きにしてくれ」

「『今の俺』、ね。まあどちらでも私は構いませんけど?」

 麻来はふたりの会話に飽きたタイミングで口を挟んだ。

「なに? 宗教の話? 分かんないんだけど」

 するとニヌガルは大きな眼をこちらに向けて、それから凝視するように細めた。

「あんたはシャーマンって聞いたことある?」

「いやニヌガル、今はそんな話をしている場合じゃないんだ……」

 ラクダが焦燥した様子でニヌガルの質問を遮ろうとするが、麻来に詰め寄る彼女には一切効果がないようだ。

 麻来は正直に首を横に振った。水尾に勉強をみてもらっていたとはいえ、学校にもまともに通っていなかったのだ。そういう専門的なにおいのする言葉を習っているはずも無い。助け舟を求めてラクダの方を見ると、彼は困ったような逸るような表情をして、簡潔に説明をした。

「………シャーマンは端的に言うと神と人の仲介をする占術者のことだよ」

「神?」

 聞き返しながら麻来は、部屋の入り口の廊下にちらっと服の長い裾が揺らめいたのを見た。

 ニヌガルはラクダのやきもきした様子に構わず補足をする。

「神と言っても十字の紋を刻まれた男の父、羊どもの主ではないよ。私たちの言う神とは大地だ。すべての命の源、水源を守るもの。大いなる自然。それに人の祈りを届け、伝えるのが私の役目なのさ」

「水源……」

「あんたの住んでた赤の鱗には山に風が吹くし川も多く流れてるから、水に対しての信仰意識もここより薄いのかもしれないけど。こんな広大な平野に住んでいればその調達をするのに苦労している意味がわかるだろう。……奴らが無尽蔵の水を渇望する理由もね」

「…………こ、」 

 こんなところに住む予定はないのだけど、と言おうとしたのだが、彼女の話はまだ続く。

「水源が潤い続けることはその土地に住むものたちの命が続くことだ。あんたのいた山だらけの国だって、山から滲み出た水が川になって流れているからこそそうやって呑気に水を飲んでいられたんだからね」

「…………ニヌガル」

「ん?」窘めるようなラクダの言葉にようやく反応して、ニヌガルは肩を竦めた。「わかっておりますよ。この子は何も知らないただの娘だ、なんにも期待なんかしてないわ。なんの話だったかしら」

「ニヌガル、悪いけどそれはまた今度にしてくれ。とにかくすぐに行かないと。あまり長居するとまた追いつかれてしまう」

 ラクダは部屋の隅に立て掛けてあった背負子を持ち上げる。

「え、もう?」

「そうだよ。動ける?」

 さっきから状況が急に変わるから思考がついていけない。大体、どういう原理かもわからないのに気を失ってから今、ちょうど目覚めたばかりなのにまたすぐ出かけなきゃならないの?

「まだ疲れてるんだけど」

「それは霊体に異常を感じるということ?」

「……何言ってるかよくわかんないけど違うわよ。とにかくまだ休みたいの!」

 ラクダは顔を近付けてきて、反射的におでこを押さえる麻来の手首をまとめて掴み、そっと布団に下ろす。聞き分けのない小さい子にするみたいに。

「……柳水尾の魂が今も無事とは限らない。それでものんびり構えているつもり?」

 麻来の喉からうぐ、と音が漏れる。二の句を継げない様子だ。それでももごもごと何か反論しているのでもう一歩詰め寄って言う。

「厳しいことを言うけど……俺はあなたの好きだった柳水尾じゃない。身体を借りているだけの別人だ。いつまでも甘やかしてもらえるとは思わないで」

 その途端、麻来の顔は紅潮し、歯を食いしばって泣き叫びそうになるのを堪える子供のようになる。

(…………あ、)

 不味い、と直感した。過ぎたことを言ったのだろう。そう思ってもとうに遅いのである。彼女の顔を歪ませた苦言は引き返しようもない。後ろからはニヌガルがただ溜め息混じりに「あ〜あ」と小さくこぼしたのだけが聞こえてくる。

 麻来との至近距離で後悔した一瞬、彼は麻来の行動を……最悪、目潰しすらも覚悟した。

「…………いいえ」

 ——しかし麻来がラクダに言い返してくることも、まして攻撃をしてくることもなかった。しようとしたかどうかは判別がつかないが、それに至らなかったのは思わぬ人物の声がふたりの流れを遮ったからである。

「いいえ。今すぐ発つのは危険です」

「——【カゲロウ】?」

 見ればあの【カゲロウ】がいつの間にか戻ってきていて、腕を組んだニヌガルもちょっと驚いたように目を見開いて一歩後ろの四人目を振り返っていた。

 連れ出した時には外されていたゴーグルやマスクやフードを今はまた完全防備とばかりにしっかり装着されており、屋内なのに裾の長いカーキの外套も着込んでいる。記憶の中ではぐったりと背負われていたのに今はこうしてしっかり立って歩いているところを見ると結構元気になったようだ。表情が見えないせいで、どのような意図で口を挟んできたのか麻来からは計り知れない。

「……自ら話せたのか。きみは、いいや、きみたちはあの男に許可されない限り発言の自由すら与えられていないはずだけど」

 そこにラクダがなぜか諫めるような口調で言った。見上げるとまた険しい顔をしていて、細められた眼は空を刺すようだった。

 けれど【カゲロウ】は線を引かれ、自分を突き放すその言葉に対して何か思うでもなく、唇を結んだまま彼をじっと見つめている。

 ラクダは相手の返事を待っていたわけではなかったのか、己の発言の重さに耐えきれずにぎゅっと眼を閉じて自ら重い沈黙を破った。

「……ごめんなさい。良くないことを言った。きみの言葉は誰に抑圧されるものではないっていうのにね……」

 ラクダが続きを促すので、【カゲロウ】は一時停止されていた音楽プレイヤーよろしく再び意見を述べ始めた。

「——物理法則上、私と貴女がたはあの飛空城から真っ直ぐにこの地まで飛びました。当然、それはその場に居合わせた多くの【我々】に観測されています。それは我が父に見られていることを意味します」

 我々、と言ったのは【カゲロウ】の仲間のことであろう。では、【父】とは……? 他の二人は口も挟まずに静かに聞いているので、麻来に伝わっていないだけらしい。誰かもわからない人物が登場して集中できない麻来をおいて話は続く。

「父なら、飛空城からの飛距離と方角を計算すればこの地を割り出すことなどいとも容易いことでしょう。すでに追手の足がここまで及んでいても不自然ではない頃です。それでも未だここに辿り着くことがないというのは……この街に覆われた結界の類が【私たち】の探知をも拒んでいるからだと推測できます」

 【カゲロウ】が視線を上げて、「貴女の張った結界でしょう」と特定するようにニヌガルを見る。

「少なくとも【我々】がこの周辺を探索している間は、貴女がたはここを動かない方が良い」

「その通り。あんたがこのまま行こうとしていたら私もそう言ってたよ」

 ニヌガルは結界云々の控えめな指摘には否定せず肩を竦めただけで、【カゲロウ】の意見を支持して援護射撃を送る。

 黙ってはいたものの遮るのを耐えるような苦い顔で聞いていたラクダは、ニヌガルの合いの手にようやく目を覚まされたように身動ぎして反論した。

「多少の危険があっても急がないといけない。たったひとつの掛け違いで麻来の願いも……俺の目的も叶わなくなる」

「……それはここで逃げて囲まれるのも同じ事。」

「一応言っておくけど、この子の言ってることに嘘はないよ。町の外にこの子と同じ気配が二十、三十程度感知できる」

「…………」

 ラクダは顎に手を当てて考え込んだ。その悩ましい横顔にニヌガルが駄目押しをする。

「それに、あんたが慌てると麻来が戸惑うだろう」

「…………分かったよ。」ラクダは険しいままの眼を閉じて自分の意見を折った。「きみを信用して、今はここで待機しよう。」

 そしてこちらを窺うようにちらりと見てきたので、話の輪に一切入れなかった麻来は、ほらわたしの意見を聞かないからよと舌を出した。

 ラクダは気まずそうにニヌガルのほうへ視線を戻し、話を続ける。

「ではニヌガルの葦が読み取る人影が薄れるのを見計らって出発しよう」

「私が?」

 ニヌガルは些か不服そうな声を上げて聞き返す。「どうして私がこれ以上あんたたちのいざこざに巻き込まれないといけないの。事情もろくに知らないまま協力させられるのはごめんだよ」

「今の話を聞くとおまえの力の届く範囲はまだ狭まっていないようだ。おまえの根を踏んだ者が麻来の敵かどうか、判断するくらい簡単だろ?」

 ラクダは彼女に対して、協力するのは至極当然のことであるかのように言った。するとニヌガルは返す言葉を探すように口をぱくぱくと動かしていたが、やがて大仰な仕草で溜め息を吐く。

「…………はあ。まったく、ご先祖さまを恨むよ私は」

 了承というより諦めの色を滲ませて、しかしこうなることを予測していたのかすぐに答えた。

「勿論今はまだ無理だ。そこの子供と殆ど同じ反応の足音がおおよそ二十人分」

「正確には?」

「二十三だ。付近に野営はないから、じきに引き上げるわ」

 ラクダは顎に手を当てて思案する。

「とにかく休んでたら? もう一晩くらいは野宿させないであげるわよ」

「……そうしよう。おまえが言うなら」

 ラクダは今度は今度は素直に頷いた。

「さっきまで聞く耳持たなかったのはどいつだってんだ……」

 ニヌガルが小さくぼやくのを、ラクダは気にも留めずに【カゲロウ】に視線を移す。

「きみはどうする? きみはもう【カゲロウ】として復帰できないだろう。きみを治療した時に念の為に連絡手段も俺が焼き切ってしまったし、一度処分したものをあの男が再び迎え入れることもない」

「…………私は、あなたの手助けをします。我が母よ」

「我が母?」

 【カゲロウ】はしっかりラクダを見上げて意思を示した。けれど聞き逃し難い言葉が耳に入って、麻来とニヌガルは同時に言った。

「母って何?」

「あんたどうしてそんな呼ばれ方してるの」

 当の【カゲロウ】は真っ直ぐに質問したラクダを見ているし、ラクダのほうは「やっぱり駄目か」と呟いて肩を落とす。

「前も言っただろ。その呼び方はやめてくれよ……」

「あなたは生命維持の機能を外された私に再び生命を下さった。つまりは母ということだ」

 ラクダがさらにげんなりするのと眼をぱちくりさせるニヌガル、変わらず佇む【カゲロウ】を順番に見ていく麻来は我慢しきれずにラクダの服の裾を引っ張って、もう一度訊ねた。

「ねえ母って?」

「この子……、いや、【カゲロウ】には父親と呼ぶ製作者がいるんだよ。それは彼らにとって絶対的な存在で、崇拝と言ってもいい。きっと彼に代わって命を吹き込み直した俺は、それに対応する対の存在として認識したんだろう。だから父親の対照である、母親だというわけだ」

 いつものようにラクダが丁寧に答えてくれても全然分からない。と言ってもいつも彼が言うことの半分は分かってないのは麻来なのだが。途方に暮れてニヌガルの方へ目を向けてみると、彼女もどうにもならんと言いたげに手のひらを上へ向けて首を振っている。

「とはいえ、勿論俺はこの子の母親じゃない。そんな理由で危険な道をついてこられるのも困るんだけど」

「私を処分させたのは父です。それはあの方に私はもう必要がないということを意味します。最早あの方からの命令が私に届くことは無いでしょう」眉間を押さえるラクダをじっと見つめて【カゲロウ】が言う。「ならば、私に残された——本来あり得ないことですが、新しくあてがわれた道は、母の助けとなることです。たとえそれが、あの方の目的を阻む結果になろうとも」

「…………きみは自由なんだ。もう危ないことに関わる必要なんてない。俺だってきみの望むように出来ればどんなにいいか……」

「…………もういいわよ」

「麻来?」

「ついてきたいっていうんだったら、一緒に行けばいいでしょ。揉めることじゃないわよ」

 これ以上難しいことを考え込んでたらこのひと、いつか頭が破裂するんじゃないだろうか。

「許可を下さるのですか?」

 【カゲロウ】はようやくこちらを見て、予想外というようにゴーグルの奥でぱちくりと瞬きした。

「けれど私はあなたを破壊しようとした者です。人とは、そう簡単に相手を信用しないものだと……」

「どうでもいい」ずばりと言い捨てると、怠いけれどベッドから足を下ろす。そしてラクダに詰め寄る。「面倒くさいからもういい、それ。いつまでも同じようなことでぐちぐち言って。じゃあこの子、外に放り出すの?」

「え、」

「一回助けたなら最後まで責任持たないと甲斐性無しだけど、君、それでいいわけ!?」

「ブッ……おっと」

 ニヌガルが吹き出すのを目を細めて見逃しつつ、ラクダはまた深く息を吐いた。

「落ち着いて、麻来。……大丈夫、決めたよ。あなたとこの子が望むなら、ふたりとも守るよ」

 なにを格好つけてるんだか、と茶化すように呟いたニヌガル。それを視線で黙らせると、ラクダは【カゲロウ】に手を差し出した。

「いいよ。一緒に行こう」

「…………はい。母さま」

 【カゲロウ】は素直に彼の手を掴んで、そっと目を瞑る。その様子を見て、どうしてだか涙が出そうになった。

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