残骸逃避行・2
攻防戦の末、結局麻来の方が譲るしかなくて、ラクダの背負った背負子に座って運ばれていた。
「ラクダ」
「何?」
ラクダは車道の路側帯近くを足で走っている。事実上国から見捨てられたような海に沈んだ都会付近の郊外でも、今日日人々は生活を送っていて。自家用車はあまり見当たらないが、小型のバスや運搬用のトラックはちらほらと行き違っていく。
後方から通り抜ける車にはもちろん敵わないけれど、ラクダの走る速度には目を見張るものがあった。学生時代の体育の教科は平均のB、競技には縁遠かった水尾の身体では到底出せないはずの速さでもう数十分は走り続けているのだ。水尾と比較しなくともこの体力は並外れているのではないか。
「どうしたの」
呼吸の乱れもなく、むしろ規則的にコントロールしながら応答するラクダは、麻来を背負った状態でこんなにずっと走っていても疲労したような様子は見られなかった。
「あんたって生きてるの?」
一瞬、彼の呼吸に乱れが生じたように聞こえた。笑ったのだろうか。
「なにそれ」
彼は可笑しそうに聞き返した。やっぱり笑ったのだ、こいつは。
「まあ、あなた達とは少し違うよ。」
「なにそれ……?」
同じことを返す羽目になった麻来はむすっと頬杖をついた。
「死んではいないよ。魂が元の身体を離れた異常事態ではあるけど、死者ではない。麻来や柳水尾と違ってね」
回答がぼんやりしていて掴みづらい。
俺が誰かって話? 彼がなにか言ったのを耳の後ろから拾った。風で聞き取りにくくて聞き返そうと思ったが、多分そう言ったのだろうと時間差で理解した。
「水尾は私をおんぶしてこんなに走れないわ」
「そりゃ、人間ならこんな走り方はしないからね。どうしたの」
「…………。水尾はそんなに猫背じゃなかったし、私のことを『あなた』なんて呼ばないのよ」
少し間があって、苦笑のような吐息を聞いた。
「…………成程。道理で、結構最初から警戒されてるような気がしたよ。俺が訪ねた時からすでに柳水尾ではないということ、薄々気付いていたんだね」
麻来は硬い座席で振り落とされないようにパイプを掴みながら背を丸めた。
「多少は違和感を抱かせた方が、後から納得してもらえるだろうと思って——」
「けど他はみんな水尾だった」
ラクダは変わらず同じ速度で走り続けている。
「どうやって私を騙していたの。水尾のことならなんでも知ってるのに、すぐに気付けなかった。」
麻来は恨みがましく、パイプに掴まる手に力を入れた。君みたいな他人が水尾のフリをしたって私には効かない自身があったのに。
「私が水尾を分からないなんてあり得ないのに……」
ふと、背中にかかる麻来の体重が向きを変えるような動きをする。
麻来の声がいやに静かになって、自分が憑依した水尾のうなじに暗い気配が押し迫ってきたのを肌で感じて。
彼女は腕を回して水尾の首筋に包むように掌を押し当てる。彼は苦しそうな声の一つもあげずに、抵抗もせずに麻来に喉笛を差し出している。
微温い向かい風が首にかけた手に当たる。ラクダは首を掴まれた状態のまま黙ってゆるゆると速度を落とし、路上に停止した。
首というのは頸動脈や気道が通っている、言うまでもなく人体の数ある急所の一箇所だ。人間ならそこに触られるのは本能的に避けるはずである。しかし彼は麻来の両手に掴まれたまま、ただ麻来の気が済んで外されるのを待っている。
抵抗がなさすぎて何だか不気味だ。窒息死しても構わないとでも言い出しかねないような気がしてくる。
いや、生身の身体も持っていない麻来の手は彼の首を圧迫していると錯覚しているだけで、実際はラクダに何の感覚も与えていないのではないだろうか。
こんなにしっかり握っているのを麻来自身は感じているのに、本当は触れることすらできていないのか。
「私って本当に死んでるの?」
「ぶは、……え?」
首を解放されてえずくのと同時に、ラクダは麻来の突拍子もない質問に軽く吹き出す。また突然に何の話が始まったのだ。
「もっと振動を抑えて走ってくれない? 脳が揺さぶられるみたいで気持ち悪いんだけど」
ころころと変わる質問にこちらが酔いそうなのだが、と嘆息まじりに苦笑いする。こんな状況になってしまって、彼女はたくさんのことを考えているのだろう。疑問に思ったことを口にするので、答えを待たずにどんどんと質問が飛んでくる。ラクダは背中でもぞもぞと動く彼女の天気屋ぶりに精神を食われていく感覚を味わって、早くも疲れが出てきていた。
しかし麻来にとっては切実に指摘しなければならないことであった。走りながら淀みなく麻来の質問に答えるラクダの異常なまでの持久力はもはやどうでもよくなっていた。
彼の背中は非常に揺れるのだ。よく考えれば人間が走るのに揺れないわけがなかったが、それでも文句を言わないと気が済まない。
ラクダが首筋に手をやりながら背を逸らせ、髪越しに細めた目を覗かせる。無抵抗ではあれ、さすがに麻来の同情のない行動に耐えかねたと見えた。
「なあ、走ってる人の首を絞めた後で最初に言うことは本当にそれで合ってる? もっとなんか、」
「身体が死んでるんなら苦しくないと思って」
「首絞められたら苦しいに決まってるでしょ。曖昧な演算はやめてくれ」
言い返しながら彼は棒立ちの姿勢をキープしたまま靴と足首を確認している。やめてくれと言いつつあまりうんざりしているようには見えないので、やはり本当は幽霊に首を絞められても平気だったんじゃないかと麻来は疑った。
気を取り直すように「さて、」と息をはくと、ラクダはまた走り始めた。上下の揺れが加わって落ちそうになったので、麻来はわたわたとパイプに掴まった。体勢を変えるタイミングを逃してしまって、しばらくの間、進行方向を向いたままラクダの肩に掴まっていることになった。
「私って幽霊なのよね?」
「んー? まあ」
走るのに集中しているせいか、また返答が曖昧になる。幾分か癇に触った麻来にまた首を絞められる前に言葉を継いだ。
「最初に言ったように霊体だよ、麻来は。何をそんなに引っかかって…………。あ、感触があるから疑ってるのか」
ちがう? とかすかにこちらへ首を回して窺ってくる。麻来は神妙な顔で頷いてみせたが、背中に張り付いているのだからこちらの動作が見えないのは当たり前だと気付いて声をあげた。
「私はこの身体になってからお茶を飲んだでしょ。それにこの剣も掴んだ。しっかり掴んで持ち上げて、運んだ。どういうこと? 幽霊ってみんな物をさわれるの?」
みんなと言ったが自分以外に幽霊を見たわけじゃないし、そんなにいるものなのかもよくわからないのだが。そういえば生前にテレビで聞いたことがあったが、ポルターガイストとかいう種類のお化けがいるらしい。夜に椅子を動かしたりロッカーを開けたり、そういう悪戯をすると言って誰もいないのに家具が倒れる映像が流れていたりした。もしかして自分はそういう類の幽霊なのだろうか。
「あなたは他の霊とは少しちがうのかもしれないよ。他のやつらがそうやって物体に触れられているところは見たことがないし」
「ポルターガイストってやつ?」
「ポルターガイスト? さあ……俺も専門家じゃないから、あなたがどういう存在なのかまではわからない」
ラクダは相変わらず速度を保ったまま首を傾げた。
「なにそれ…………」
「でもさっきのペットボトルやグラスはともかく、その剣はちょっと特殊なんだ。カゲロウ、さっきの追手が言っていただろう? 対スピリット型電流エペと。通称電気剣といって、エペは剣、主にそういったフェンシングのような形状の武器を指すのだけど、その武器の役目は【スピリット】——つまり魂や精霊、実体のないものを【破壊】するための道具だ。あなたを狙ったようにね」
魂、精霊、実体のないもの。
「幽霊も?」
「とりあえず、魂と幽霊は言い換えだと思ってくれて良いよ。……電気剣は霊魂に干渉できるように作られているから、実体のない霊たちからでも多少は触れられるようになっているんだと思う。ちなみにこの背負子もそういう設計で作られた物だよ。実体のないものを運べるようにね」
なんだか答えが質問からずれているような気がする。つまり、よくわからないけど否定するまでもなく麻来はすでに死んでいて、幽霊であるということは変わらないのか。
「なんだ、ポルターガイストじゃないのか」
「いやわかんないんだって。何でちょっとがっかりしてるの?」
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