残骸逃避行

残骸逃避行・1

 足占麻来の身の上話からはじめよう。

 彼女が両親の間から生まれ落ちた時にはすでに兄と姉が一人ずつ生まれていて、麻来はつまり三人兄妹の末っ子で次女としてこの地に足をつけたことになる。

 麻来の兄としてともに暮らすはずだった長男は生まれて三年と経たないうちに流行り病にかかって死んでしまっていたので、麻来にとってのきょうだいは五歳年上の姉だけだった。

 さて前時代には発展の最盛期を迎えていたこの国も六十年ほど前から上昇しだした海面に飲み込まれ始めて、今では【没国】と呼ばれるまでに荒廃した。最初に沈んでいくのは当然海抜の低い渚であって、そのようなところは大昔から人が集まってくるため、つまりは国で最も栄えたいくつかの都市が率先して滅びてしまったのである。

 そんな沈みかけの都市の外れに居を構えていた麻来の両親は、もとは大変裕福な家柄のはとこ同士であった。裕福だと言ってもその頃の古い言葉で言う財閥や貴族などは国を出るか標高の高い山岳地帯へと引っ込むかして海面上昇から逃れていたので、ほとんどが勢力を保てずに国と共に衰退していった。麻来の家も例に漏れず、麻来や兄姉が生まれる何年も前に既に没落していた。

 それから夫婦二人で郊外に残り子供を養ってきたが、姉が独り立ちすることになった頃に麻来に転機が訪れる。


 事故のせいで両足の親指の切断を余儀なくされ、病院の中庭でうずくまる麻来に声をかけた、難しい顔をした青年。

 柳水尾との出会いである。


     ○


 雷鳴のような轟音を響かせながら頭上を走っていく高架電車。表面にひびをこさえたぼろぼろの橋桁の足元に寄りかかって座る麻来は、右足を上げて自分の爪先をぼんやり見つめていた。水尾は「少し待って」と言ってどこかへ言ってしまっていて、ひとけのない車道にポツンと待たされる退屈さを持て余して呟く。

「まだ走ってたんだ、この電車」

「そのようだね」

 独り言のつもりだったのに返事が降ってきて、麻来は両膝に顎をうずめて息を吐いた。

「ここ三年ほどでこの国も経済産業の衰退は足を早めたけど、人の動きや流通はまだ機能しているみたいだ。ぎりぎりのところをよく維持しているよね、ここだってもうしばらくダムも半分以上満たされることもなくなってしまった涸れかけなのに」

「ちょっと何を言ってるかわかんない」

 鬱陶しそうに顔の前で手を振る仕草をする麻来の目の前に、水の入ったボトル缶を差し出してくる。

「……なに」

「足りなかったかなと思って」

 底に手を添えると、彼が手を離すのでずっしりとスチール缶の重みが手のひらに落ちてきた。

「……お茶が良かった。緑茶。濃いやつ」

「自販機にお茶なんて売ってるかよ。今は茶葉なんて高級品だよ。わがまま言わないの」

 麻来は大人しく蓋を握り込み、ひねる。固くて開かなかったので雑な動作で地面に置いた。

「茶葉の話とかどうでもいいの」

「…………説明を待っている顔だね」

 当然でしょうと言いたげに麻来はスチール缶を爪で弾いた。その手で自分の座っている地面の横を指して、上目遣いで指示した。

「ここに座って」

 彼女の不機嫌を宥めるように、言われた通り傍らに膝をついて視線を合わせてくる。

 と、彼は想定外にバランスを崩して「わ、」と声をあげた。麻来が自分に近付いた水尾の首筋に両手を回して引き寄せたせいで、倒れ込みそうになったのである。

「麻来、危ない……」

 聞こえないのか彼の苦情も無視をして、水尾の首を抱え込んだまま麻来は至近距離で彼を凝視した。

 一呼吸ぶん経っただろうか。それよりもっと長かっただろうか。脳天を二本の高架電車が行き違うタイミングで通り過ぎていった。

 沈黙する街の底で、絶望している麻来より先に、水尾は口角をかすかに上げて囁いた。

「…………どうしてかは分からないけど」水尾は――いや、麻来の目の前にいるこの誰かは、ゆったりと瞬きをして、麻来の額に自分の額を寄せた。「あなたは気付いていると思ったよ」

「…………君、は、」

 声が震える。手も震える。彼は引き寄せられた体勢のままで、麻来が告げるのを待っているようだった。

「水尾、じゃない……のね?」

 水尾の少し伸びた前髪が瞼を撫でて、間近に見た水尾の目は頼りなげに細められた。それを見ていたら、鼻頭がつんと香辛料を嗅いだように痛んで。

 涙の落ちた頬を水尾の指がなぞった。その手は温かくて、体温が確かに通っている。けれどいつかはひんやり冷たかった彼の手では、もうないのだと気付いてしまった。

 柳水尾は死んだ。

 それは本当は、既に分かっていた事だった。二年前、外国の航空機の事故に巻き込まれて死んだのだと、テレビのニュースで聞かされた。こうして帰ってきた水尾の姿に、幻想だとしても希望を抱きたかった、縋りたかっただけなのだ。

 麻来自身だって死んでいるはずなのに苦しくて仕方がなくて、しゃくり上げたら止まらなくなって。水尾の形をした誰かの首に縋りつくようにして、高架上を走る電車の音もかき消すような声を上げて泣いた。

 『誰か』は水尾に代わって麻来を抱きとめる。

「ごめんね。あなたの大事なひとは死んだんだ」

 そう言って、麻来の肩を掌で優しく叩いて、しばらくじっとぼろぼろのアスファルトに座っていた。


 未開封の水缶を手探りで拾いながら水尾……ではない彼はバランスの悪い体勢のせいで身体が痛くて麻来の腕の中で控えめに身動ぎした。

「……で、あんた誰」

「とうとうきたか……」

 彼はしがみついたまま耳元で問うてくる麻来の肩に嘆息した。

「何」

「あ……文句があるわけじゃないよ。ただ——」いくら知り合いの姿をしているといっても身元も分からない者に身体を預けるなんて軽率だなあと思って。それに麻来は気性の荒い——いや、怒りっぽい人だから、柳水尾本人ではないと聞いたら怒って手がつけられなくなるのではないかと思っていた。

 なんて言えば今度こそ気を悪くさせるだろうか。判断がつかなかったのでやめておいた。この身体に残った柳水尾の記憶データによれば、彼女はいつ機嫌を損ねるか分からないのだ。

「……ところで、麻来、いつまでそうしているつもりなのかな」

 麻来は瞬きして、鼻がぶつかりそうになるほど近くから凝視してくる。

 数秒ほど無感動に見つめ合った後、彼は白旗を上げる代わりに目を伏せて「わかったよ」と溜め息まじりに降参した。

「順を追って話そう。長くなるから、移動しながらにしようね。少し待って」

「いや、ちょっと」離れようとした彼をまた両腕で抱え込んで引き寄せ、問い詰める

「ちょっと待って。君が誰かって話は?」

「それは追追、ね。とりあえず……ラクダ、とでも呼んでくれ」

「ラクダ?」都合よく言いくるめられたような気がしながら、文脈も分からないまま唐突に出てきた単語に麻来はいささかたじろいだ。「ラクダってなに? 砂漠のラクダ?」

「そう。砂漠のラクダ」

 知識の足りないコメントに、大真面目な顔で【ラクダ】は頷いた。

「……じゃ、ラクダって呼ぶわよ」

「うん。」

 本当にいいのかよと半ば呆れながらも、「本題に入ろう」と言いながら今度こそ立ち上がる自称ラクダを目で追いかける。

「先程のことで多少分かっているかもしれないけれど、あなたは【旧帝国】のある組織に狙われているんだ」

「旧帝国……?」

 旧帝国、なんて既に廃れたと公言しているも同然の不名誉極まりない呼び名を自ら名乗る国なんて一つしかない(没国といい勝負ではあるが)。島国である没国と海を挟んだ西の隣国。広大な領土を誇る大陸国だ。

「旧帝国というのは知っての通り、約千年前まではここ没国と戦争を続けていた大国だ。没国が敗戦し、旧帝国の支配下に置かれてからは両国が建国されて以来続いた数百年の争いにピリオドが打たれ、それなりに平和的な国交が行われてきた」

 もちろん義務教育の段階で旧帝国について教わる必要があるので、遥か昔この母国と敵対していたことは確かに知っている。旧帝国……古くは夕帝国の時代、多くの国民の犠牲を払って敗れた没国は勝利を収めた帝国の属国にくだった。それ故今日まで没国は帝国の管理下にある。

 けれど千年も前では過ぎ去ったお話に過ぎないし、旧帝国の下にいるという実感もない。今となっては昔のような勢いもない旧帝国と没国の関係はぽっかりと穴が開いたようになって、お互いに外交もままならないほどに力が弱まり、冷めきってしまっていた。帝国が栄えた時代を思い出せる世代はとうになく、旧帝国の属国である利益も不便さも特に感じないのは麻来だけでは決してないだろう。

 ラクダは話しながらどこから出してきたのか折り畳みのパイプ椅子のようなものを広げ始めていた。

「没国同様、旧帝国ももはや改善不可能な環境問題のせいで勢力を失ってきている。……大陸では主に旱魃がひどくて、平野まで水が流れなくなっているんだ。」

「何それ」

 話の腰を折って彼の手元を指さすと、

「背負子だよ。あなたを背負って運ぶ」

 と、ラクダは話を中断して大真面目に言った。

「そんなのに座らなきゃいけないの? 嫌なんだけど」

「なら自分で走る?」

 麻来は伸ばしていた膝を抱えて、座り込みの体勢をとった。どうしてそんなもので運ばれなければならないのか。座り心地は悪そうだし揺れそうだし、だいいち私は荷物じゃないんですけど。

「信じられない。私、こんな足だから走れないし」

「……もちろん知ってるよ。生前のあなたは……」

 彼に背負われた無骨な乗り物をむっつりと睨んでいると、ラクダが麻来の正面に対峙して膝をつく。

「あのね、麻来。狙われていると言っただろ。霊の……あなたの足では何もできずに追いつかれて処分されてしまうよ。その親指が欠けているせいじゃない。あなたはもう幽霊で、肉体を持っていないから、息切れしてくれる肺や心臓も、走れば傷付く肌も無いんだ。今のあなたは時が経てば溶けて全てが消える。ミズクラゲのような曖昧なものなんだよ。今、あなたに消えてもらっては困る」

 彼は麻来の掌を自分の掌にのせて、確かめるように声を低くして言った。

「それに——柳水尾ともう一度、会いたいとは思わない?」

 麻来はその言葉に目を見開いて、顔をあげる。水尾の目と——ラクダと視線が真っ直ぐにかち合った。

「み…………」

「二年三ヶ月と五日前、旧帝国領内で、柳水尾は確かに死亡が確認された。けれどあなたがそうして魂のみで居るように、柳水尾の魂も肉体と分離して現世にとどまっている。俺の目的は彼の肉体とあなたの魂を保護して、柳水尾の霊魂の前まで運び届けることなんだよ」

 引く血の気も流れていないのに、彼の言葉にまたくらくらしてきた。

「つまり……水尾はまだ帝国にいるってこと?」

 大掴みに言えばね、とラクダは首を傾げて複雑そうな表情をする。言いづらい何かを隠しているような。

「私はまた水尾に会えるってこと?」

「可能性は、あるってこと。俺に麻来を託したのは彼だから、会う気はあるのかもしれないね。…………会いたい?」

「会いたいに決まってる」

 麻来は迷いなく即答した。

 しかしそう言うと、ラクダの顔が微妙に曇った。

「…………亡霊でも?」

「私と同じじゃない」

「亡霊は生前の姿から変質する。変わるのは姿だったり、性格だったり、倫理観だったりする。柳水尾の場合は何がどのように変わるのか……俺にはわからない。あなたの知っている彼じゃなくなっているかもしれない。それでも会いたいかい?」

「それでも水尾は水尾でしょう」

 ラクダはやはり複雑な表情で押し黙る。

 麻来を水尾の元まで連れて行くことが自分の目的だと言っておいて、どうして道に迷ったような顔でこちらを見るのだろう。けれどややあって、ラクダは瞬きの間に表情を変えて目の前の彼女を見据えた。

「そうだね、決めるのはあなただ。……彼に会おうと言うなら、どうかここに座ってくれないか」

 と、自分の肩をとんとんと叩いて見せた。

 麻来は一本取られたような悔しさを感じてその肩口を蹴り倒そうと足をくりだした。

「っと。何してんの」

「チッ」

 残念ながらかかとを受け止められてあからさまに舌打ちする。しかしラクダは蹴られそうになったことについて気にする様子はなく、麻来の足元に視線を落として言った。

「その剣、預かるから寄越してくれる」

 水尾に取れと言われて拾った剣はあのゴーグルを付けた刺客から逃げてくる際もずっと握り締めていて、今は三角に曲げた麻来の足の下にねかせて置いてある。その柄を手に取って、目の前に掲げてみた。

「気を付けて。電源が入っていれば剣先に触れただけで壁も軽く吹き飛ぶ」

「え、……はあっ?」

 単調に脅され、麻来はあわてて剣を地面へ叩きつけた。

「わっ!」

 ラクダは麻来の予想外の行動に咄嗟に対処出来ず、条件反射で飛び退いた。しかし電源は切れていたのか先程のような爆破は起こらずに、カラカラカラと切ない音を立てて地面を転がっただけだった。

「……麻来!」

「なによぉぉ」

 何を言っても蹴ろうとしても怒らなかったくせに、まさか叱られるとは思わなくて身をすくめ、おでこをガードした。

「聞いてなかったのか! 電源が入っていたらアスファルトなんて粉々だぞ」

「拾う前に教えなさいよ! こんなもの持たせるそっちが悪い!」

 そっちがと言いながら指をラクダの鼻先に突きつける。ラクダは諫めるのに疲れた顔で溜め息を吐いた。

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