舟に乗る

端庫菜わか

突然崩れる砂の城

「なんだか物足りないな。塩でも足そうか」

「別にいらない。十分」

 手元から顔を上げることもせず素っ気なくした返事に、正面の席から「そう」とだけ返ってくる。麻来がつまらなさそうにスプーンを持ち上げる姿にも慣れきった素振りで、「美味しい?」なんて聞こうとする様子もなく、自分もまたお手製スープを掬ったスプーンをもそっと咥えた。

「なにこれ。野菜ばっかり」ず、とすすって、スプーンをカンと陶器の器に置く。

「ミネストローネ」

 彼は自分でミネストローネと紹介したトマト色の野菜スープを飲みくだしたあとで、自信がなくなったのかなんなのか「……もどき」と付け加える。

「…………ミオ」

「なに? 麻来」

 麻来、と呼ぶ声は記憶にある彼の声そのもので、高くも低くもないのに胸に響いてくる男性的な響きが懐かしくて、何度も呼ばせたくなる。

 三年経っただけで人は変わらない。涙味のスープが滲んだ麻来の目尻をそっと拭う細い指も、口角を上げると幼く見えるえくぼも、麻来を見る光を湛えた瞳も。麻来が願った通りにちゃんと戻ってきたその足も。最後に見送った、その時のままだ。

「……やっぱりいい。喉渇いた」

「スープを飲んでるのに?」

「スープってかこれ、水分より野菜のほうが多いじゃない。お茶淹れて」

「はいはい」

 麻来のわがままに嘆息しつつキッチンへ足を運ぶ。冷蔵庫を開けると、数秒おいてジャスミン茶の注がれたグラスを手に戻ってくる。

「ちょ、コップでか……」

「どうぞ、お嬢さん」

 平然と差し出してくるので両手で受け取ると、焼酎用のタンブラーグラスを渇いた唇に乗せて一気に呷った。そんなに飲めるかよと戸惑っていたのに、気付けば貪るように喉へ流し込んでいて、グラスの中はみるみる空になっていった。

「…………随分と長い間、渇いていたんだな」

 彼がこう呟いたのは聞こえていたが意味がわからなかったし、まだ忙しく喉仏を上下させていたので何のことか聞き返している暇もなかった。

「ぶはあっ」と、溺れていたような声を上げてグラスを離すと、中身はすっかり空っぽになっていた。夢中で飲んでいたせいで口の横に零れたジャスミン茶を腕で拭いながら、無言で水尾に飲み干したタンブラーを突きつけた。

「はいはい」

 水尾は首を振りながら苦笑いでそれを受け取ると、シンクへ下げに行く。

「まだ飲む」

「分かったよ」

 まったく呆れた、といった調子でダイニングキッチンから返事が聞こえてくる。

 そういえば水尾はスムーズにお茶を淹れてきたが、自分はポットにお茶を作っておいていただろうか。茶葉は確かに戸棚に残っていたけれど、前にポットを使っていた時の記憶があまりない。……まあ、習慣化した家事なんかは特別記憶に残ることもないだろうから、きっと水尾が帰ってくる前日にでも作っていたんだろう。

 同じタンブラーにまたジャスミン茶を注いでいる水尾の視線を頬に感じつつ、またスプーンに手を伸ばす。なにを難しい顔をしているのだろうか、折角ようやっと帰ってきて自分の顔を見て、さぞや安心していると思ったのだけれど。

 首を傾げながらスプーンを口に突っ込み、カウンターの向こうのシンクへ顔を向けて彼を覗き見た。と、キッチンに立ったままの水尾はまだ麻来を見つめていたらしく、しっかり目が合ってしまった。

「食欲ないみたいだから残してもいいけど、今日は早く食べて」

 意図せず交差した視線に麻来はどきっとしたのに、一方の彼はなんてことないというように話しかけてきた。

「なんで」

「顔が土色だし、あまり進んでいないようだから。」

 進んでいないだなんて。今までご飯を食べる速さについて水尾だけはなにも言わなかったのに。麻来は彼が意図せず発したその言葉に大いに気分を害して、食べようと口に運んでいたスプーンを器に打ち付けた。麻来はひと口食べるごとにスプーンや箸を置く癖があって、彼女の食事が遅いのはそのせいだ。両親から叱られても教師に苦い顔で注意されても、幼い頃からずっと直らない。彼だけはそれを受け入れてくれていると思っていた。

「……そうじゃなくて、」荒っぽくなりそうな言葉を抑える。「どうして急かすの。こんなこと今まで一度だってなかった」

「一時間後にはすでに出発していないといけないからだよ」

 麻来が気を悪くしてスープを無意味にかき混ぜている間にテーブルに戻った水尾は器の中身を全て掻き込んでいて(これはいつも通り。水尾は麻来の完食を待たない)、聞き返した時には食器を洗いに椅子を引いていた。

「一時間後?」

「正確には一時間後より前に」

 麻来の大雑把な鸚鵡返しに誤差が生まれそうだと感じ取って、水尾は詳細に言い直した。

「ほんとうは今すぐにでもここを出たいところだけど、あなたは急き立てられたって急いでくれる人じゃないし。準備もあるだろうから」

「準備って……」女の子のお出かけの準備がどれだけ時間がかかるのか知らないわけがないだろうに。実際、麻来は予め指定されていた時間に靴を履けた試しがない。小言を言われてそう言い返した麻来に「麻来はただ時間にルーズなだけだろう」と彼が苦笑したのはいつだったか。

「そもそもどこへ行くっていうんだよ。こちとら君が帰ってこない三年ものあいだ、ずっとここに篭りきりだったっていうのにさ」

「今日は化粧も荷物もいらない、身ひとつだけ……でいい。食べたら出よう。」

 さてはこいつ、人の話を聞いていないな。三年間と強調して罪悪感を煽情する計算は外れたらしい。

 水尾がすぐに帰ってくると言い残して海外へ旅立ってから今日でちょうど三年。三年も戻ってこなかったくせに、いきなり姿を見せたと思ったら勝手にミネストローネを作って、食べたらすぐ出発するぞとか何もかもありえない。配慮が足りない。気に食わない。

「イヤだ。どこにも行かない」

「え?」

 反抗したら怒るだろうか。きっと怒るんだろう。真面目な話をしている最中に適当に横槍を入れると、デコピンをされたものだった。額をあからさまに両手でガードしながら、「行かない」と念を押すように繰り返した。

「…………、」

 むん、と唇を結んで睨み付ける。水尾がつかつかと歩み寄って「あのねえ、」と説教が始まる……そう思った。

 けれど予測は大幅に外れて、水尾は困ったように眉を寄せると狭いキッチンの床へ視線を落とした。カウンターの向こうなので麻来の視界には入らない。なにを見ているのだろう。それとも視線を泳がせただけか?

 なにを見てるのだろうか、麻来が喋っているのに。どうして怒らないの?

「ちょっと、余所見すんな。行かないって言ったの。聞こえなかった?」

 水尾は伏し目がちに足元を見下ろしたまま、呟くように唇を動かす。

「……余所見なんてしていない。途方に暮れただけ。ついでに予定の変更を検討していたところだ」

「はあ……?」

「つまりね、麻来。あなたを抱えて今すぐここから逃げるということだよ」

 なにを言い出したのかわからない。元からよくわからない奴ではあったけれど、今日帰って来てから輪をかけて様子が変だ。

「意味がわからないよ、水尾」

「説明なんてなくても、どうせ後には自ずとわかるよ。これ以上ここにはいられないこと……まあ、けど見せる義務はあるか」

 水尾は「おいで」と手を伸ばす。キッチンまで来いということか。麻来は唇を膨らませて不機嫌をあらわにする。のろのろとテーブルに膝を乗っけてよじ登り、カウンターを越えてまさかそんな軌道で来るとは予想外だと言うように面食らった表情で見上げている水尾の掌にぼすっと手を載せる。

「まったく、猫のようだな。変わらないね——ってところかな」

 水尾はまた呆れ顔で笑うと、麻来がペールグリーンのキッチンマットに降り立つのを支える。

「それで、見せるっていうのはなに?」

 水尾は黙ってキッチンの奥を示す。

「…………、」

 途端に、鼻に刺すような刺激臭を感じた。鼻を刺す、というにはどこか……遠くのことに感じるけれど。

「…………想定したより落ち着いてるものだね。予告もなくこんなもの見せられて」

 隣に立つ水尾の眠りに誘うような低い声が降ってくる。

「こんなの……って、人の身体よ」

 まだ視覚情報を処理しきれていないぼんやりした頭で言い返す。こんな時でもくだらないおしゃべりは無くならないのかと、こんな時なのに呑気に自分の減らず口に少し呆れた。

「…………で、これはなに?」

 仕切り直して出た質問が幼い子供が母親にするそれだ。無条件に求めているみたいで不本意だが、それ以上どう質問しろというのか。だって目の前にあるのは自分の死体だ。

「なにっていうか、見た通りだ。あなたの身体だよ」

 あなたの身体だよ。

「意味わかんない……」

「やっぱり自覚はなかったか。あなたは今、霊体……魂だけの状態でいるんだ」

「は…………? だってわたしは」

 けれどキッチンの床に横たわるのは確かに自分だ。

 先程から鼻につく異臭は明らかにこの身体から発せられているもので、よく気付かずにスープなんか食べていたなと自分に呆れかえった。ふてぶてしい態度のわりに少女思考なのか白いネグリジェを着ているが、ずっと着ていたせいかそのパジャマも汚れて痛んでしまっている。それから顔は……肌はすっかり土のような色で、もう血が通っていないことは明らかだった。

「あなたはそこの肉体から抜け出た、意識そのもの。幽霊とか、お化けみたいなものだと思ってくれて良い。あなたは今、魂だけになっているんだ」

 眩暈がしそう、それ以上に嘔吐しそうな光景だが、まったくその兆候も見られない。それは血が通っていないからなのだろうか。彼の言ったとおり、目の前の自分の身体から魂が抜けた、幽霊だということなのだろうか。

「…………信じられない。わたし、幽霊とか信じないたちなの。もう子供じゃないんだから、騙されないわよ。出鱈目言わないで」

「なら、ここにあるあなたそっくりの死後変化の始まった肉体は誰のものだろう。」これ以上見ていられなくてそっぽを向く麻来の顎を両手で挟むように正面へ向かせ、目を背けるなというように固定された。「あなたの部屋に、あなたのキッチンに、あなたの寝巻きを着て、あなたのピアスを着けて、あなたと同じところが欠けた……麻来じゃないのなら、その女性は何者だと?」

 畳み掛けるように、逃げ場を徐々に無くしていくように淡々と耳元にささやく声。水尾の声なのに冷たくて怖くなって、悪寒が背筋を走る。

「…………っ、ちょっと、離して……」

 弱い力でみじろぎし、離してと抵抗すると、案外あっさりと解放された。

 いや、解放されたのではなかった。

 麻来の顔から離されたと思った水尾の手は次の瞬間には彼女の肩を戸棚に押し付けて、麻来の細い霊体に自分が覆い被さっていた。

 同時に家中を地響きと強い衝撃が走り、先程まで座っていたカウンターの向こうのダイニングは土煙でなにも見えなくなった。屋内だというのに突風が麻来の壁となった水尾の背中へ吹き付ける。

「…………!?」

 水尾の肩が邪魔で何が起こっているのかよく見えない。けれど土煙の中を白い日光の筋が直線に遮ってすでにデコボコに割れた床を照らし、バラバラと木片が舞い散る音が聞こえてくる。この惨状を目の当たりにすれば家が破壊されたということを悟らざるを得なかった。

「なっ、何事?」

「喋らないで」

 突然のことに驚きでぽかんと開いた口を水尾の手に塞がれる。慎重に硬くなった声が額のそばで日光に光る埃を舞い散らせた。

「消えたくなかったら、大人しくしてなさい」

 麻来から離れることなくくるりと身体の向きを反転させ、水尾は土煙の一点を凝視した。

「——マキ・アウラのエーテル体および意識反応を捕捉。ならびに身体の死亡を確認しました」

 水尾が睨む先で、知らない人物の声が聞こえてきた。低すぎない、縦笛のような声。

 こんな事態に相応しくないほどに抑揚のない機械的な調子で、こちらに語りかけるでもなさそうな無機質な言葉を呟く。姿はよく見えないのが緊張感を増長させる。

 水尾の背中と未だ部屋を舞っている粉塵が邪魔で何とか目を凝らすと、もうもうと漂う埃の間から、かすかに人影が、徐々に顔が視認できる程度まで見えてきた。フードと暗い色のレンズが嵌められた無骨なゴーグルを装着しているせいで、顔の半分も分からなかったが。

「……麻来。いいかい」麻来を隠すように戸棚にくっつけた背中が、天井に風穴を空けた犯人に対して身構えてぐっと硬くなる。「あなたは丁度数時間前に衰弱死した。だから俺は迎えにきたんだ。その肉体から魂だけを取り出して、あなたを保護するために」

「は…………?」

「あそこにいるのはあなたの魂を破壊しようとしている連中の手先だ。あれに捕まってしまったらもう二度と、柳水尾には会えないだろう」

 切迫した口調で矢継ぎ早に説明されて、麻来は余計に混乱した。

「何言ってるか……」

「しっ、あとでもう一度説明するから辛抱してくれ。柳水尾と再会したいのなら」

 柳水尾と再会する? 君はすでにここに帰って来てるんじゃないの? 麻来には彼の言っていることが微塵も理解できないでいたのだが、水尾はこの場はこんな説明が精一杯だと小声で付け足して、間髪入れずに麻来の頭を後ろ手に低く下げた。

「い……っ!?」

「伏せろ」

 水尾が言うのと、天窓の空いたダイニングに立つ人物が宣言するのが、ほぼ同時だった。

「これより回収・破棄作業に移ります」

 直後、そいつがどう動いたのかも見えないままキッチンのカウンターが吹っ飛んだ。

 頭上から瓦礫とお玉やらタッパーやら調理道具諸々が降って来て、真後ろにある食器棚は中の陶器が激しくぶつかり合って甲高い音が耳元を揺さぶる。

 そいつが粉塵の中から突進してくるのを、水尾は無言で麻来を突き飛ばしながら屈んでかわし、空いている手で突き出される武器の柄を弾き上げた。

 武器は敵の手から離れてキッチンの奥へからんと落ちる。

「…………うわっ」

 自分の身体が倒れている方によろけた麻来の鼻先に細長いものが落ちて来て、思わず飛び退いた。その頭上から空を切る音が聞こえて、慌てて見上げたときには、水尾の足が武器を取り返そうと麻来の上から伸ばされた腕を横へ蹴飛ばしたところだった。

「麻来、剣を」

 拾え、と鋭く指示されて、歯向かう余裕もなく目の前に転がる武器に手を伸ばした。その剣は刀身が異様に細くて、その割に持ち上げてみるとずっしりと重かった。

 敵は腕を蹴られた勢いで横に体を回し、自分が破壊したキッチンの瓦礫の上に猫のように身を低く着地した。暗い色のゴーグルの奥で、目の前の水尾から瞳だけをすいと動かし、麻来の手に自分の剣が握られているのを確認する。

 そこでようやく麻来は敵と正面に対峙した。音もなく立ち上がったのは、麻来より目測背の低い子供だった。土埃を防ぐゴーグルの中の目が、よく見えないが麻来を真っ直ぐ見下ろしているのだけは感じた。

「対スピリット型電流エペがベータ・カムにより奪取されました。回収対象の登録の変更を要請します」

 電話口の案内のような口調で、少年は何かに話しかけている。連絡機でも持っているのだろうか。それらしいものは持っていないように見えるのだが。しかし何拍か開けて、その語りかけに応じるように硬そうな耳当てから青色の模様が浮かび上がり、点滅した。

「申請が受理されました。これより対スピリット型電流エペの奪還を最優先とし、完了次第作業に戻ります」

 そう言うと耳当ての青い光は点滅をやめ、少年は瓦礫を蹴って麻来の手元へ一直線に突進してくる。

「ひゃ……っ」

「させないよ」

 危険を感じて竦ませた身体ががっしりと両腕に掴まれた、……と分かった瞬間、ぐわんと視界を揺らして一瞬のうちに床が遠のいていく。水尾が床を蹴って吹き抜けにされた天井まで飛び上がったのだ。

「わっ、わあああ!」

 水尾は麻来を抱えたまま天井を突破する。急上昇する感覚に叫ばずにはいられなくて麻来は必死で声をあげた。

 ボロボロになった我が家を見下ろすと、棒立ちで二人を見送る少年の、日光を反射したゴーグルがこちらを見上げているのが見えた。


「————……。」麻来が完全に屋根の向こうへ消えてしまうと、無言に結んでいた唇をまた開いた。「……ベータ・カムとミオ・ヤナギの肉体が逃亡。意識反応が消失しました。テレポーテーションを使用したものと想定されます」

 そう報告してから沈黙して、ここを訪れてから回線の調子がよくないためにザーザーと乾いた雨音のような妨害電波の中で返事を待った。やがて耳当ての模様が青く発光しながら、金属パイプを叩くようなアシスタントの声が話し始める。

『エーテル体のデータを元に座標を照合し、追跡します。データを転送して下さい』

「スキャンしたマキ・アウラのエーテル体データを転送します」

『……受信しました。転移地点の特定まで五分ほどお待ち下さい。』

 そう言って、アシスタントはまた沈黙した。彼女が五分と言うなら五分なのだろう。それまで自分は待つほかない。

 カゲロウは休息のために瓦礫の上に腰を下ろし、レンズ越しの濃緑の天井を見上げながら目を閉じた。

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