彼女が消えた

@baratabe

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 彼女が消えた。


 彼女の誕生日の前日。繁忙期の仕事を調整して連休を取って、日付の変わる瞬間を一緒に過ごすはずだった。

 彼氏関係で誕生日にいい思い出がなくて、と悲しげに笑う彼女を元気づけたくて、必ず予定を空けるから一緒にいようと約束した。全ての段取りが崩れたのは前日の夜だ。先方の手違いで、うちの部署全員が二日徹夜しても解消しきれないほどのミスが発覚したのだという。

 まあ社会人のプライベートの約束なんてそんなもんだよなとか、ああこうして俺もよくない思い出の一つとして数えられるのかとか、そんなことを思いながら煙草休憩をしに抜け出して、彼女へ謝罪の電話を入れる。

「本当ごめん。絶対埋め合わせするから」

『大丈夫だよー。てか、千尋くんこそ大丈夫なの?無理しちゃダメだよ』

 声色から怒っている様子は感じなかったことに、安堵した。夜空の暗闇に解けていく煙を、ぼんやりと眺めていた。


 ようやく帰路につけたのは、その日の終電間際の時間だ。俺の様子を見かねた上司から、流石に顔色が悪いから帰れとのお達しだった。

 早足で駅に向かいながら、メッセージを打つ。

『やっと解放された。まだ起きてる?』

 最寄駅に着いて電車を降りても、返信はない。起こしてしまったら申し訳ないなと思いつつ電話をかけるも、応答はなかった。携帯のデジタル時計は、0時半過ぎを示していた。

『誕生日おめでとう。起きたら連絡して』

 いつもより返信が来なくなる時間が早いことに違和感を覚えつつも、翌日の早出に備えて眠りについたが、目が覚めても、その次の日になっても、メッセージに既読がつくことはなかった。



 ***



 彼女と音信不通になって、一週間が経った。

 ようやく仕事がひと段落して振替休日をもらえたので、俺たちが付き合う、というか知り合うきっかけとなった友人の雅也に相談を持ちかけると、仕事終わりに居酒屋で落ち合うことになった。

『助けてくれ。女心がマジでわからん』『笑』笑、じゃないだろ。


「おーおー。ついに愛想尽かされたかよ」

「な……ば、」

 馬鹿なこと言うなよ!と声を荒げそうになって思いとどまり、ウーロンハイを飲み干す。他人事のようにケタケタと笑うこいつが憎らしい。

「女々しいっつーかキモいこと言ってんのわかってるって。でも不貞腐れて連絡シカトする子じゃないし、そんな歳でもないだろ」

「いや〜、わからんよ。女の地雷がどこにあるかなんて」塵も積もればなんとやらで、前からの不満の積み重ねだったかもしれないだろ。

 言い返せない。思い返せば彼女に怒られたことがなかった。気づかないうちに無理を強いたり、我慢をさせたりしていた心当たりがないといえば嘘になるが、その度に彼女はへらへらと笑って俺を許した。俺を怒らない彼女に甘えていたのは事実だ。大切なものはなくなって初めて気付く、とはよく言ったものだ。

 彼女はいつも穏やかで、周りに聞いた話でも俺が見た印象でも、俗に言うメンヘラの気質は感じられなかったのだが、なんとなく、何かのきっかけで急にいなくなってしまいそうな、あるいは儚く消えてしまいそうな、そんな危うさがあった。連絡を取り合うようになったきっかけは平たく言うと俺の一目惚れだが、あえてその一目惚れに口実を作るのであれば、俺が彼女に惹かれた理由はその危うさだったのかもしれない。しかしここは紛れもない現実世界で、ある日突然恋人が急に消えてしまうなんて非現実的なことは起きるわけがない。考えれば考えるほど、これはいわゆる自然消滅というやつで、俺はきっと振られたのだろうという現実に打ちひしがれるしかなかった。


 電車があるうちに解散するか、と話していると、雅也の携帯に着信が入った。

「……ん、春香からだ。ちょっと出てくる」

 春香というのは俺と彼女のもうひとりの共通の友人である。春香は彼女の長い友人で、雅也が春香にアプローチをかけるためのダシに使われて知り合ったはずが、先にくっついてしまったのが俺たちだったというわけだ。

 5分ほどして、電話を終えた雅也が席に戻ってきた。

「10分後くらいに合流するってさ。時間大丈夫か?」

 いつも勝ち気な雅也の表情は先ほどまでとは打って変わってひどく曇っていて、嫌な胸騒ぎがした。

「……ああ」



 ***



「もう一週間もあの子と連絡つかないんだけど。何か知らない?」

 あの子が何考えてんのかわかんないのは今に始まったことじゃないんだけどさ。でもほら、あの子変なとこマメじゃん。テキトーだけどバイト飛んだみたいな話聞いたことなかったし、意外にしっかりしてんだよね。だからこんな長く付き合い続いてんだけどさ。意味なく何日も未読のまま連絡シカトする子じゃないから、ちょっと心配なんだよね。ほら、見て。こっからなんも音沙汰なくて。


 見せられた携帯の画面には、一週間前の未読のメッセージと、何度かの発信履歴があった。


「家には行った?合鍵とか持ってないの?」

 いつもらったのか、思い出せない。もらった記憶がないのに、なぜか合鍵を持っているということを

「……持ってる」



 ***



 3人でタクシーに乗って彼女の家へ向かった。念のためエントランスのインターホンを押したが、応答はない。合鍵でエントランスの自動ドアを開けて、エレベーターに乗り込む。彼女の部屋に近づいていくにつれて、動悸が激しくなるのがわかった。共用部は空気が冷たく、深夜帯であることを差し置いてもやけに静かで、俺の心音だけがうるさく響く。

 部屋の前について、インターホンを押したが、やはり応答はない。震える手で鍵を開け、深呼吸して恐る恐るドアを開く。玄関の照明をつけた瞬間、その場にいた全員が息を呑んだ。


「なに、これ……」

 部屋へと続く廊下には、真っ白な百合の花が敷き詰められている。扉の前には、百合の花束を抱えた彼女が、糸の切れた操り人形のように座り込んでいた。彼女が座り込んでいるというよりは、彼女を模した置物のようだった。動悸が激しく、息がしづらい。

 二人の静止を振り切って彼女に駆け寄る。青白い頬に触れると、ゾッとするほど冷たかった。脈動もない。部屋が、やけに寒い。

「藍里、」

 生唾を飲み込んでやっとの思いで彼女の名前を口に出す。瞬間、視界が暗転する。雅也と春香が俺を呼ぶ声が遠く聞こえて、そのまま意識が途絶えた。



 ***



 目覚ましではなく、インターホンの音で飛び起きた。ソファーで寝ていたらしく、体が痛い。寝ぼけ眼のまま玄関のドアを開けると、コンビニの袋を下げた雅也と春香が立っていた。

「お前過労でぶっ倒れたってマジかあ?食いもん買ってきたけど食える?」

 を見たあとだとは思えない、彼らの声音の明るさに違和感を覚えた。俺に気を遣わせないように、明るく振る舞ってるだけなのか?早く彼女のことを聞いて、確かめなくては。

「……なあ。悪い、俺、気失って……。あの後、どうなった?」

「あの後ぉ?」


 何言ってんだよ。お前、完徹続きで会社でぶっ倒れて休まされたって自分で連絡してきたろ。だからほら、見舞いに来たんじゃんか。

 心底憐れむような目で、雅也は俺の肩を叩いた。

「お前、マジで疲れてんだって。俺ら帰るから、ちゃんと寝ろよ」

 ……いや、いやいやいやいや。

 寝起きの頭をフル回転させて考える。彼女の自宅を訪ねたはずの俺がどうして自宅にいるのか。今日は何月何日なのか。咄嗟に携帯を確認すると、確かに雅也に言われた通りのやり取りの履歴があった。デジタルの表示はあの光景を見た一週間前の、彼女の誕生日の日付を示している。あの光景はなんだったんだろうか。夢だというならどこからだ。あまりにも長すぎるし、感覚がリアルすぎる。


「……なあ、」

「ん?」


「藍里は一緒じゃないのか?」


 が夢だったと仮定して、今日は土曜日だ。誕生日を一緒に過ごすつもりで予定を合わせていたはずの彼女が、俺が倒れたことを聞いて見舞いに来ないのは少し不自然だと思う。

 キョトンとする雅也の肩を掴んで捲し立てる。

「来てないのか?ちょっと変な夢見たから心配でさ、思い過ごしなら……いいんだけど。一緒に来てないって何か」

「待て待て待て!何言ってんのかわかんねえよ。大丈夫か?」


 2人は怪訝な表情で顔を見合わせた。真冬だというのに、気持ちの悪い汗が額を伝う。


「アイリって、誰?」

 そんな名前の共通の知り合いなんていないし、俺の知る限りじゃお前もう何年も彼女どころか女っ気すらないだろ。疲れすぎて変な夢でも見たのか?



 ***



 二人を見送ったあと、慌てて携帯の中身を確認する。ロック解除のパスワードから、メッセージの履歴、画像フォルダ、入っているゲームアプリまで、俺の携帯で間違いない。ただそこから、彼女の存在した形跡だけが綺麗さっぱり消えていた。


 血の気が引いていくのを感じた。

 長年連れ添った恋人がある日突然存在ごと消えてしまうなんて、映画やドラマの中でしか起こり得ないはずなのだ。俺は本当に、過労で頭がおかしくなったのか、それとも長い夢でも見ていたのか?思考を巡らせれば巡らせるほど、彼女の名前すらわからなくなっていた。ヒトは、誰かの思い出を忘れるのは声からだという。記憶の中での彼女が俺を呼ぶ声に、ノイズがかかってうまく思い出せない。


「■■■、」

 震える声で、俺の彼女のものだったはずの名前を呟いた。呼び慣れていたはずのその名が、ただの固有名詞としての文字の、音の羅列に聞こえた。思い返してみると、友人、地元の同級生、大学の同期、職場の人間。どこの知り合いにも、そんな名前の女はいないのだ。俺は一体、誰のことを考えていたんだ?


 差し入れを冷蔵庫にしまって、ソファーに座り込む。深く深呼吸をして目を閉じると、静かな部屋にメッセージの通知音が響いた。画面に目をやると、送り主不明のメッセージが届いていた。


『unknown:私を』


 今日は、俺にとって、誰かにとって、忘れちゃいけない、大切な日だった気がする。


『unknown:みつけだして』

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