勇気の一歩

放課後。


梅は、明日香に駅で待ち合わせしようと言われた。


てっきりそのまま行くと思っていたのだが、確かに学校帰りだと重い荷物を抱えたまま移動しなければならない。


となり町にいるらしい夏のもとを訪れるには、一度帰ってから行くという明日香の提案は理に適っていた。


家に帰り着いた梅は、重い荷物を下ろしながら長いため息を着いた。


今、明日香はいないのだから、梅には駅に行かないという選択肢があった。


正直、夏に会いに行くのは非常に気が重かった。


当然恨まれているだろう夏に、どんな顔をして会えばいいのか、想像もつかなかった。


でも、それでも。

ずっと、逃げ続けるわけにはいかない。


あの時から、梅の頭の片隅には、ずっと後悔があった。


あの時ああしてれば、こうしてれば。


そんなことばかり浮かんできて、でももう一度やり直せたとしてもそんな勇気は出せないだろうな、と自己嫌悪に陥る。


それを繰り返しながら今まで過ごしてきた。

きっと、ここで逃げれば二度と勇気なんか出せないだろう。


明日香に背中を押してもらえている今が、最大のチャンスだ。


「―――よし」


手早く動きやすい服に着替え、仕事で留守の親に置き手紙を残して家を飛び出る。


必死に、走った。


迷っている間に、待ち合わせの時間はすぐそこに迫っていた。


それに、一度足を止めれば、かき集めた勇気が抜けていってしまうような気がして、ひたすら前に前に進み続けた。


ようやく待ち合わせ場所にたどり着いた時には、息は切れ切れ、汗だくで見るに堪えない姿だった。


しかし、明日香はそんな梅の姿を見て、とても嬉しそうに笑いかけてくれた。


「さ、行こっか」


明日香が貸してくれたタオルで汗を拭きながら、電車に向かう。


電車に揺られながら、その風景がだんだんと見知らぬものになっていくのにつれて、振りきったはずの弱気がひたひたと迫ってくるのを感じた。


今にも逃げ出してしまいたくて、でもその度に、すぐそばにいる明日香が梅に勇気を与え続けてくれた。


   ×   ×   ×   ×   ×


そしていよいよ、夏の家の前に着いた。


不安は尽きず、弱気は消せない。


それでも、ここまで来れた事実が、何より明日香の存在が、梅に逃げることを選ばせなかった。


ゆっくりと大きく深呼吸をして、少しだけ心を落ち着かせる。


そして―


「ピーンポーン」


震えを押さえ込んだ指で、呼び鈴を鳴らす。

パタパタと足音が聞こえてきて、その身に緊張が走る。


長くも短くも感じる数秒の後、ゆっくりと扉が開かれ――


「‥‥梅ちゃん?」


懐かしい、懐かしい声が、聞こえた。


    ×   ×   ×   ×   ×


小学五年生の春。


いじめは、唐突に始まった。


何か、切っ掛けがあったわけではない。


むしろ、なにもなかったからこそ、いじめが始まったともいえる。


「なんか退屈じゃない?」


そんな、理由ともいえない理由から、クラスの中でも地味で浮いていた梅は、いじめのターゲットに選ばれた。


案外、いじめなんてものは軽々しい理由から始まるものだ。


同調圧力から始まった無視やいたずらは日に日にエスカレートしていき、教科書をとられたり、上履きを隠されたりすることも多くなった。


ある日の朝、梅の机いっぱいに悪口が書かれたことがあった。


鉛筆で書かれたそれを消しゴムで消しなから、じわりと涙が溢れてくる。


嗚咽をもらしても、心配してくれる人なんて一人もいない。


そんな状況に、ずっと張りつめ耐え続けていたものがぷつんと切れかけた時だった。


「‥‥?」


不意に、頬を伝う涙を優しく拭われた。

戸惑いながら見上げると――


「ごめんね」


開口一番、見知らぬ彼女は謝罪を口にした。


なぜ急に謝られるのか、なぜ涙を拭ってくれたのか。

疑問は尽きず混乱は深まる一方。


梅はなんの反応もできず、固まってしまう。


「びっくりしたよ。ちょっと怪我で入院してる間に、楽しかったクラスがこんなことになってるなんて」


彼女――夏はおどけた口調で、しかし強い怒りをにじませて言った。


夏は自分の消しゴムを取りだし、落書きをさっさと消していく。


戸惑うばかりの梅はその様子をしばらく眺め、


「な、なんで助けてくれるの?」


と、ようやくひとつの問いを口にした。


あっという間に落書きを消した夏は、梅を見つめ、ニカッと笑って、言った。


「困ってる人を迷わず助けられる人が、一番素敵な人だ、って‥そうは思わない?」


そう、言ったのだ。


    ×   ×   ×   ×   ×


「‥‥梅ちゃん?」


「―――ぁ」


懐かしい声にさまざまな出来事が思い出され、気づけば梅は両目から大粒の涙をこぼしていた。


「な、夏、ちゃん‥‥夏‥ちゃ、‥‥‥」


まるで自分の物でなくなったかのように、喉が言うことを聞かない。


謝りたくて、必死に声を絞り出そうとすればするほど上手く話せなくなる。


あぁ、やっぱり無理だ。


必死にかき集めた勇気が霧散し、弱気が梅を蝕む。


もう、ここから逃げ出してしまえば―

そんな思いが梅を支配しかけた瞬間。


「がんばれ」


決して、大きな声ではなかった。


それでも、その言葉はするりと梅の耳に飛び込んできた。


そして、それは梅に霧散しかけた勇気を再び与えてくれる、唯一にして最高の言葉だった。


俯いていた顔をゆっくりと上げる。


ぼやける視界の中、夏がこちらに歩いてくるのが見えた。


その表情は見えないが、きっと怒っているだろう。

どんなに罵倒も受け止め、しっかり謝ろう。許してもらえなくたっていい。

許しを得るために謝るのではなく、謝りたいから謝るのだから。


そんな覚悟を決めるのと、夏が目の前までやってくるのはほとんど同時だった。


「‥‥‥‥」


夏は沈黙したままだ。相変わらず、梅の涙も止まらない。


それでも、覚悟は定まった。


ひきつる喉に力を込めて、せめてこれだけはちゃんとした言葉で、と涙越しに夏を見つめる。


「‥‥夏、ちゃん。‥あの時は、ほんとうに、ごめんなさい‥‥っ」


言い切った直後、力が抜けて思わず座り込んでしまった。


溢れ出る涙と嗚咽に身を委ねて泣きわめいていると――


そっと、何かが頬に優しく触れた。


否、何か、ではない。目の前にいる夏が、スカートの裾で涙を拭ってくれたのだ。


驚きに身を固くし、夏を見つめる。


涙が拭われクリアになった視界に、ようやくきちんと夏をとらえた。


果たして、夏は――初めて出会ったとき、涙を拭ってくれたときと同じように、ニカッと笑って、言った。


「梅ちゃん。 ‥‥元気でいてくれて、ほんとに、良かった!」


そう、言ったのだった。


    ×   ×   ×   ×   ×


翌日。


明日香が教室に入ると、既に梅は自分の席に座って本を読んでいた。


パッと見、普段と変わらない光景。


しかし、今日は普段とは決定的に違っていた。


「おはよう」


明日香が自分の席に向かうと、梅が先に挨拶をしてきた。


ちょっとしたその出来事に、明日香の胸が熱くなる。


「おはよう。梅ちゃん、髪切ったんだね」


そう。

梅は、長く伸ばしていた前髪をバッサリと切り、見づらかった顔がよく見えるようになっていた。


「うん。明日香ちゃんと夏ちゃんのおかげで、決心がついたよ。ありがとう」


梅が明るく微笑んで、言う。


またもや胸を熱くしながら、昨日のことを振り返る。


「昨日、私は玄関までで帰っちゃったけど、ちゃんとお話はできた?」


梅の様子を見れば聞くまでもないことだったが、それでも明日香はあえて梅に問う。


「うん。夏ちゃん、もちろん私を恨んだときもあったって言ってたけど‥‥ずっと、心配してたって言ってくれて。明日香ちゃんが大好きになるのも分かるなぁ」


大好きな従姉を褒められ、明日香は我が事のように嬉しくなる。


「明日香ちゃんのおかげで、小学校の時のこと、ようやくきちんと謝れたよ。いろいろ、おしゃべりもできた。またいじめられてるってことには呆れられたけど」


そこで言葉を切り、立ち上がった梅は明日香に深々と頭を下げた。


「全部、明日香ちゃんのおかげ。夏ちゃんのところに連れていってくれて、あの場で私を応援してくれて。明日香ちゃんがいなかったら、夏ちゃんに会いに行くことも、謝ることもできなかったよ。‥‥本当に、本当にありがとう」


そう言ってもらえて、明日香は胸がいっぱいになる。


うっかり、これで大団円と言いそうになるが――


「ううん。まだ、あと一つ残ってる」


明日香の言葉を聞き、梅は表情を引き締める。


「うん。分かってる」


梅が明日香から視線をはずし、その奥を見る。

視線の先には、ちょうど登校してきたグループ――詩歌たちがいた。


梅の顔に、緊張がにじむ。

でも、その目に宿した強い光は失われぬままで。



朝の会が終わり、各々授業の準備をしたり友達と話したりしている。


早めに準備を終わらせて読書をしながら時間を潰していると、詩歌が友達の輪からスッと離れ、梅のもとにやってきた。


「梅、相変わらずセンスないよね~。今日も私たちの本返して新しく借りてきて。てかそろそろ面白い本選べるようになってくんないw」


詩歌はその目に愉悦の色を交え、梅を見下しているのを隠そうともせずに言った。


詩歌の指差す先には、明らかに読んでいないだろうと思われる状態で、昨日梅が持ってきたそのまま本が積まれてあった。


梅は一度ぎゅっと目をつぶり、両手を握りしめる。


その手が細かく震えているのに気づいて心配になったが、目を開けた梅は怯えを見せず、真っ直ぐに詩歌を見つめた。


「本は、自分で返して。選ぶのも自分でやって。‥‥もう、私はあなたたちの言いなりにはならない!」


はっきりと告げたその言葉は力んだからなのか、思いの外大きく教室中に響き渡った。


ガヤガヤとしていた教室に、しーんとした静寂が訪れる。


ガタッと音を立てて立ち上がった梅は、詩歌とその後ろに隠れている友人たちをキッと睨み付け、堂々と宣言する。


「私はずっと嫌だった。でもあなたたちが怖くて断れなかった。‥だけど、もう私はあなたたちなんかに負けないから!」


詩歌は、梅が反抗してくるなど思っても見なかったように驚き、固まっていた。


周りでは、クラスメートたちがざわめき始める。


いじめを知りながら傍観していたことをごまかすように「ずっと悪いと思ってた」「梅ちゃんかわいそう」などと口々に言い始め、詩歌を擁護する声は聞こえなかった。


我に返った詩歌は、唇をわなわなと震わせ、小走りに教室から出ていった。


慌てて追いかけていく詩歌の友人たちが完全に見えなくなるまで見届けた梅は、ぺたりと椅子に座り込む。


軽く目をつむり長く息を吐いた梅は、明日香を見て明るい笑顔と共にグーサインを出した。


明日香はたまらず、梅をぎゅっと抱きしめた。


「すごい!かっこいいよ、梅ちゃん!」


真正面から称賛を浴びた梅は、はにかみながら言う。


「明日香ちゃん、ありがとう」


と、そこへ、近くで見ていた数人のクラスメートが近づいてきた。


何を言うのかと体をこわばらせながら待っていると―


「‥‥ごめんなさい!」


開口一番、彼女らは深く頭を下げ、謝罪を口にした。


「ずっと、梅ちゃんがいじめられてるってことには気づいてたの。でも、怖くて助けられなかった。本当にごめんね‥‥」


それを皮切りに、あちこちから謝罪の声が飛ぶ。


その言葉を受け、梅はにこりと笑って言う。


「謝ってくれてありがとう。じゃあ、ひとつだけわがまま言ってもいいかな?」


最初に謝った女子生徒が頷く。


「もちろん!なんでも言って」


「じゃあ、お願い。ひとつだけ約束して。‥‥これから、私とも、詩歌さんたちとも、普通に接してほしい。腫れ物扱いとか、後ろめたいとか、そんな思いは今忘れ去って。それだけが、私の願いだから」


それを聞き、周りのクラスメートがどよめく。


「な、なんで詩歌ちゃんたちを‥‥?」


「私は、明日香ちゃんに救ってもらった。だったら、詩歌さんたちにも、救いの手が必要でしょ?これから同じことをしないためにも、されないためにも」


はっきりとした声で言う梅の言葉に、どよめきが収まっていく。そして―


「わかった。約束するよ」


クラスメート全員がそう思ってくれているのが伝わってくる。


その様子に、明日香は今までにないほど胸が温かくなるのを感じた。


そんな感慨と共に梅を見ると、ちょうどこちらを見た梅と目が合う。


梅の瞳をまっすぐに見つめ、満面の笑みを浮かべて、言う。


「梅ちゃん、ほんっとう――かっこいいよ!」


それを聞いた梅の顔に心からの笑みが浮かぶのを見て、梅が心から笑えることが本当に喜ばしいと思う明日香であった。

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