暗い朝

明けていく意識の中で少年は初めに雨の音を耳にした。随分と長く深く眠り込んでしまっていたような心地で少し頭が痛んだ。

開けていく視界が見知らぬ廃屋の像を結んでいく。身を起こすと、自分が横たわっていた畳の上に無数の文字がびっしりと記されていることに気がついた。その意味を理解する事はできなかったがあまりにも不気味な状況に息を呑む。なにやら生臭いにおいまで漂っている。

ここが何処だかは分からないが、直感で長くいてはいけない場所だと感じた。傍に畳まれた上着を掴み、急いで羽織る。

ぽとり、と何かが転がった。土間の上のそれを拾いあげる。若草色の端切で出来た丸っこい布包み。幼子が遊ぶ御手玉によく似ているが、まるで見覚えがない。元々この小屋にあったものかもしれないと思い、少年は手の中のそれを埃の積もった床の間の上にそっと置いた。布の中の草の薫りが手に移ったのか、独特の甘ったるい香気が広がる。少し苦手なにおいだと感じた。

ぎゃあ、と嗄れた悲鳴のような声が突如響き、反射的に身体が跳ねた。小屋の戸口の向こうから一羽の鴉がこちらを覗き込んでいる。濡羽色とはよく言ったもので雨露に晒された体は艶々とした輝きを放っている。

ぎゃあぎゃあと再び鴉は声を上げ、両脚を揃えて跳ねるように戸の外を彷徨く。まるで早く来いと促しているように感じた。導かれるように足が動き、今にも崩れそうな小屋を抜け出した。

足元はぬかるんで柔らかい。濡れた土の匂いが鼻腔を満たす。なにか懐かしい場所に戻ったような気分になれた。天気は悪いが気温はそれほど低くなく、寒さはそれほど感じない。崩れかかった藁屋根の端からは大粒の雨垂れがいくつも降り注いでくる。頭のてっぺんから降りかかる冷たさが不思議と疎ましくない。

歩くたびにぱちゃぱちゃと音が上がり、泥が跳ねるのが楽しい。鴉は地面すれすれを飛んでは少し先でこちらが辿り着くまで待つ事を繰り返している。自分を待ってもらえることが、とても嬉しい。

















「やはりすべて忘れてしまった様子ですな。自分自身のことまで」


山小屋を見下ろす大木に少年の行き先を見送る忍びが2人ぶら下がり、木の葉から降り注ぐ雨垂れを意にも介さず身に受けている。冷えた唇から漏れる息が一瞬白くなって消えていく。


「それが良いよ。どうせ忍びとしてはあの調子じゃやっていけないだろうし」


それにちょうど喋りすぎてしまったし、とは言葉にはしなかった。


「しかし、結局のところ何が違うのか拙者にはよく分かりませんでした。死ぬ事と自分自身すら分からなくなる事、そんなに差があるでござるか?」

「ほっとけよ。どうせあの子ともう会うこともないだろうし、俺やオタクくんにはあの子の気持ちはわからないだろ。俺たちは厄介払いが出来ればそれでいいんだ」


少年の姿はちっぽけになって遠ざかり続け、やがて山の木々に紛れはっきりと見えなくなった。

2人が小屋に戻ると、床の間にちょこんと乗せられた布包みが真っ先に目についた。鮮やかな色に染まったそれは、ボロボロの柱や床に囲まれて周りの景色に馴染まず浮いている。


「おお、この御守り懐かしいでござるな。子供の頃にみんな渡されましたねえ」

「そうだった?俺は記憶にないけど」


手遊びに宙に投げ、再び手のひらに落として受け止めるとたちまちに清涼感のある香りが辺りに撒き散らかされた。


「クッサ。何これ」

「この包みに詰められているのは里が育てている草を乾燥させたものでございましてな。個人差は多少ありますが、この草を年単位で長期間嗅ぎ込む事によってゆっくりと影響が出るそうでござる。感情の起伏をなだらかにし、思考を単調にさせて依存性を与え、里から逃れるような事を考える子供を少しでも減らすことを狙っているのですよ」

「ふーん。じゃあこの草のせいで俺たちはこうなるよう仕向けられたって事?ウザいね」

「いや、あくまで個人差がある程度の効き目ですし、性格が高飛車になったり根性が捻じ曲がる効能はなかったはずでござるから、浜万どのには関係なかったんでしょうな」

「はっ倒すぞ」


浜万に放り捨てられた布包はぽてりと土間に落ちた。

哀れ、もう誰も拾い上げてくれる者はいない。

小屋の外で降りしきる長雨の音は向こうの山よりもっと遠くの方から響き続けている。

一昨日の夜は夜通し山を歩き、昨夜は術の準備に付き合わされ、結果二晩をほとんど寝ずに過ごしていたため、耳に届く雨音に少し眠気を感じ始めた。


「確かにウザいでござるよね」


微睡かけた浜万は顔を上げ、眠い目を半分開いて巨漢の忍びの顔を見た。

薄暗い小屋の中ではより一段と不気味な、にやついた笑顔がそこにあった。

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