また夜

昨日と同じように浮かんでいる夜の月を何処か不思議な心地で眺めていた。明日にはあの月が示す刻がいつになるのかも忘れてしまうのかもしれない。もしかすると月そのものさえも。


少年は山奥の小屋の木戸に背中を預けていた。中からは物音や2人の忍びのくぐもった声がひっきりなしに聞こえる。まるで想像もつかない手順が忙しなく用意されているようで、時折億劫さを嘆くような溜息や苛立ったような声が聞こえる。2人とも物言いが輪をかけて刺々しくなっており、半ば口論になりながら準備に取り組んでいる様子だった。

用意ができるまでは邪魔になるから外にいるようにと言われた為に従っていたが、この忙しさの傍らで何もせずただ待つのは居た堪れなかった。

真っ黒な木々の枝葉に邪魔されない場所で月を眺めたくなり、少し離れた崖先へ歩いた。

どこかの叢に潜んでいる虫がギチギチと音を立てている。月は変わらず空にぽっかりと浮かんだままだが、その光が少し前から翳り始めていた。

薄い雲がかかってきたようで、土と青草の匂いも少し濃くなり始めたように感じる。明日の朝には雨が降り出すかもしれない。


「なんだ、逃げたのかと思ったよ」


予期せず突然背中から声を掛けられ、体が意図せずして大きく跳ねた。少し疲れたような顔をした浜万が歩き寄っている。


「逃げるなんて、とんでもないです、ここまでしてもらってるのに……あの、準備終わったんでしょうか」

「別に大したことじゃないけど。あと残りの準備はオタクくんがやるし」


こき使われた事に対する愚痴をいくつか呟きながら、浜万は少年の隣に腰を下ろした。

結果的に見逃してもらえるとはいえ、昼間のやり取りの中で見た浜万の冷たい目を思い出すとまだ少し恐怖が勝る。無意識に力が入り、手のひらの中にある御守りがキュッと絞り込まれる。


「禁術の準備があんなに用意する物たくさんあって手順もゴチャゴチャしてたの知らなかったわ。あんなの忍術じゃないよもう、呪いだ」

「そうなんですね……すみません。僕なんかのためにそこまでお手間をとらせて」

「別にいいよ。他にやることも無いし。オタクくんがやるって言うならやるだけだし」

「………すみません」


不必要に謝罪を繰り返しているおかしさは自分でも分かっていたが、自分の立場上他に何を言えばいいのか分からない。

浜万が口を閉ざせば会話は止み、再び虫の声が耳に届く。

もう少しすればこの2人に出会った事を全て忘れてしまうというのに、少年の胸の内に実感は湧かなかった。敵わない相手に対して特に意味もなく突っ込まされた討伐隊の先輩方にとってはこの出会いは間違いなく受難であり、しかしこれを機に自分1人では到底出来ず決断も出来なかったであろう里抜けができるのは幸いとも呼べる。禍福は糾える縄の如しというがその縄目の番が来る前に命を落とす者にとってはたまった物では無い。

この世の不条理さを知っていたつもりではあったが、命が絡むこの一連の出来事は少年の若い身にもっとも深い影響を及ぼした。

こんなにも強烈な体験を綺麗さっぱりと忘れてしまえるものなのか疑問にも思うが、かつて封じられた忍びの術には人の身体そのものを作り変えたり、命すら復活させるものもあるらしいと風の噂で耳にした事はあった。そんな御伽話のような事が叶うのならば、当然頭の中にある記憶だって消してしまえるだろうと納得する他ない。


「あの、でも、……本当は」


次の言葉を言うか言わまいか一瞬の逡巡を経て、喉を鳴らした後に少年は続ける。


「あの方がせっかく申し出てくださったのにほんと申し訳ないんですけど、絶対死ぬよりはそっちの方がいいんですけど、やっぱり本当は……記憶をなくすことも、ちょっと怖くて」

「まあそれが普通だと思う」

「僕、ただでさえ何も出来ないから、もし全部忘れちゃったとしたら、それこそなにして生きていったらいいのか分かんなくなりそうで。なにかそういうのを一から思いつくほど頭も良くないし」

「そんなの大丈夫だよ、世間じゃどこも働き手は足りてないし。君は慎重な性分みたいだからみすみす危険に近づく事もなさそうだし、そもそも忍びらしくない点が1番いいよ」

「そうでしょうか……」

「忍びなんか仕事以外に何の取り柄もない連中の集まりだからね。まだ殺しもした事ないんだろ?だったら堅気に馴染んで娑婆でやってけるんじゃない。まあ、他の連中に見つからなきゃの話だけど」

「……忍びに向いてなくて良かったって思ったの、初めてです」


安堵と共に、日頃は意図的に押さえ込んできた好奇心が頭をもたげ始めた。

どれだけ2人のやり取りを目にしても、最後まで浜万と巨漢の忍びとの関係が少年にはよく読めなかった。

忍びの里で育った子供なら幼い頃からの顔見知りであるはずで、年頃もおよそ同じくらいには見えるし歯に衣着せぬ言い方にはなるほどその様子も伺える。名前を持つ浜万と持たぬ者では里から認められた実力の差がある筈だが、巨漢の忍びの働きはなぜ無銘なのかわからないほど他を圧倒しており、誰も知らないし知っていても使えるのかどうか疑わしい禁術を物にしている事から、力で勝るだけでなく繊細な忍術の扱いも得意としている事が伺える。

浜万はちょくちょくサボっているように見えるし巨漢の忍びもそれに対して特になにも言っていない。けれど基本的な行動の主導権は巨漢の忍び側にあり、浜万はそれを受容している。経験の少ない少年にとってはこの2人の力関係の流れがさっぱり分からないのであった。

そもそもを言えば抜けた扱いの忍びに死んだ事になっている忍びが従いている背景も分からない。浜万も里を抜ける事に同意したという事なのだろうか?元より死んだという話はそのための偽装であったのか?

2人に関する情報の漏洩を防ぐためにこれから記憶を消されるというのに、肝心なことはなに一つ理解できていない事に少年は気がついた。


「ぼちぼち準備出来たかな。あいつ1人にした方が手が早いんだよね」

「あっ。……あの、本当に色々とありがとうございました。里にいた頃は浜万さんとお話しできるなんて思わなかったので、嬉しかったです」

「……そんな事はなんだっていいんだけどさ。どうせ最後だし、せっかくだから素直な君に聞きたいことがあるんだけど」


そんな事を言われたのはここ数日で初めてのことだった。当然断る理由もない。


「なんでしょうか」

「………側から見て、俺とオタクくんってどういう感じに見えてる?」


ちょうどさっきそれを考えて結局分からないという結論が出たばかりであったため、少年は狼狽えた。何と言い表せばいいのかわからなかったしそのままそう答えたかったが、わざわざ自分に尋ねてきた浜万にそんな答えを返したくはなかった。

少年なりに角の立たない答えをいくつか頭の中で考え、慎重にひとつに絞り込んだ。


「……な、仲の良い、お友達?」

「違うんだよなあ」


浜万がガリガリと頭を掻きむしる。こんな粗野な素振りを見せたのは出会ってから初めてだった。

発言の選択を間違ったと思い、少年の背は一瞬で縮こまった。


「君が里で聞いた話は本当だよ。俺は死んだんだよ、他でもないあいつに殺されて。それで今ここにいるのもあいつのせい。あいつのせいで俺は今死忍なんて物になってるの。ホント理不尽だよな」


浜万はおもむろに上衣の前を緩めた。月の光の下でもはっきりと見える白い肌が唐突に剥き出され、少年は目のやり場に困った。

余分な肉が削ぎ落とされ必要なものまで失っているかの如き薄い躯幹には袈裟懸けの傷が一本大きく走っている。肩口から始まったそれは心臓のある場所を通り過ぎ、腹の正中線を超えた先まで長く続く。傷は薄膜で繋がっているが激しく動けば開いてしまうのではないかと思えるほど真新しかった。


「これはオタクくんが、あいつが俺を斬った時の傷だよ。今じゃ首が離れても繋がる身体なのにどうしてかこればかりはそのままなんだ」


なんと返していいか分からず、少年は曖昧に頷く。死忍の術という聞きなれない言葉には信憑性がなく、死んだ人間を動かす事ができる技があり、目の前に立つ者がそうであるとはにわかに信じがたかったが、これほどの深い傷をしかと見せられれば頭で理解する前に話を呑み込むしかない。

真上の月を背後に立つ浜万の顔は影がかかりどんな表情をしているのかよく見えない。影となった男は言葉を続けるが、それは本当に自分に対して投げかけられているものなのかわからなかった。


「なあ、心臓ごとぶった斬られたら普通に死ぬよな。それを無かったことにするのは不条理でしかないだろう。正確には斬られたこと自体は無くなってないけど、実際にそれでも俺は動くしものを考えてる。体にはもう自分の血は流れてないし、もしかしたら頭の中にだって脳すら残っちゃいないかもしれないのに。実感だってないんだ、自分が生きてるのか死んでるのか。そんな事も分からずこの世に留まれるって事は、俺は幽霊かさもなきゃ化物って事だ。ホント困るよ。物心ついた時からうまく殺してうまく死ぬ事を延々と教えられてそれに応えてきたつもりだったのに、こんなふざけた術があったんじゃあ、そのうち世間でも死んだ人間が蘇る事が珍しくもないようになるのかもな。困るんだよホント、殺しに意味がなくなったら得意な仕事も無くなるし、何よりあの野郎をどうしたらいいのか分からなくなる。どいつもこいつもふざけた事ばかり考えやがって。相討ちになるのは別に構わない、でも今の俺じゃ捨て身になったところであいつを斃す事はできないし、もし何とかなってそれが叶ったとしても、またあいつが帳消しにして俺の覚悟を台無しにしそうな気がする。もう一度引きずり戻されてしまったら今度こそどんな顔を晒せばいいのかわからないじゃないか。ああそうだな一番ふざけてるのはやっぱりあいつだ、ただ話し相手が欲しくて俺をわざわざ死忍にする訳ないんだ、あいつは俺に自分を処分させようとしてる」

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