回答編 稚気知己塙萬(チキチキバンバン)
1
自分の面倒を見てくれた恩人から回収する気持ちをどう表現すればいいものか。
胃薬をかじって萬治おじさんの元へ向かう。
仕事だから。
彼のご指名だから。
仕方がないと諦める。
ただ、救いがある。
萬治おじさんが元気であること。
それだけでヨシとしよう。
都会の喧騒から離れた郊外にその道場はある。
卍流体術道場の看板がかかっているオンボロ道場。
表にはカフェでよく見かける立て看板。
“やる気のある弟子は怖れず来たれ! バンバン爺の期間限定オリジナル拳法、クモ拳を公開中! 見学も体験入門もお気軽にどうぞ”
という可愛い手書き。
確かに塙萬治は音読みすればバンバンジーになるが、それにしてもクモ拳とは!?
以前だったら道場の中からは子供たちや大人たちの気合いや掛け声が聞こえてきたのに。
静かに道場の扉を開け中に入ると、顔面にヌチャっとした衝撃が走った。
ネバネバがまとわりつくイヤな感じ。
手でぬぐっていたら、
「ウヒャヒャヒャ、見事命中したぞ。どうだ、オイラの考案した新兵器、クモ糸乱舞は。マイッたか? 驚いたか? ウヒャヒャヒャ」
というしゃがれた笑い声が響いた。
笑い声の主は禿頭で顎ひげ口ひげの老人、すなわちバンバン爺こと塙萬治。
小柄な身体を道着に包み、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「ペッペッ、何なんですか、これは(怒)! ひどすぎますよ! やたらネバつくし!」
「ウヒャヒャヒャ、そう怒るな。これはナゲナワグモからヒントを得て試作した武器でもあり防犯グッズでもあるぞ。この手首に巻いた機械のスイッチを押すとネバネバした糸が敵を絡め取るんだな。なあ二尋よ、人間は自然の生き物から学ぶことがまだまだあるのう」
彼の手首を見ると確かに腕時計状の太いリング型の機械というか装置が巻かれている。
「何を悟り済ました顔で言ってるんですか! 冗談じゃないですよ、本当にもう! うへぇ、ひどい目にあった」
顔を洗い終わったので本題に入ろうとするが、そうは問屋が卸さない。
「なあ二尋よ、せっかくここに来たんだ。ちょっと手合わせしようか」
やる気まんまんでわたしの前に立ちはだかる77歳の高齢者。
いつものことなので、わたしも持参した道着に着替えた。
2
――約30分後。
「ハアハア、まだまだ若いもんには負けんて、ハアハア、オエッ」
「フウフウ、クソッ。あとちょっとで絞め落とせたのに、フウフウ」
「さすがに関川流柔術継承者だ。バカにはできんもんだ。そしてやはり寄る年波には勝てん、ハアハア」
「いやいや、歳はとっても卍流体術創始者の力は健在。その歳でそんだけ動けるのは化け物ですよ、フウフウ」
お世辞抜きで萬治おじさんの健闘を称えた。
確かに体力や技は衰えてはいない
問題なのは頭の方……。
人間は死が近づくにつれ、子供に帰っていき稚気がマンマンになるという。
今の萬治おじさんが正しくそれだ。
変なおもちゃを作ってクモ拳なんかで弟子を募集しているし。
ここに来る度いつも同じ質問を繰り返すのは正直、痴呆を疑ってしまう。
だがその日は少し違っていた。
「二尋はそろそろ結婚してもいい頃なんじゃないか。誰かいい人はおらんのか?」
会う度に聞かれるのでうんざりだ。
「ええ、最近こっぴどく振られたばかりでね。女性は当分懲り懲り。これからは仕事に生きます」
いつものやり取りだが、今日はちょっと違っていた。
「ヒャヒャヒャ。まあ男は仕事だな。ところで今度オイラは後添えをもらうことになったから」
「えっ!?」
「再婚するんだよ。後でフィアンセを紹介してやる。カリブ海で式を挙げるつもりだ。式には出席してくれよ。ご祝儀で借金も返せるかな。ヒャヒャ」
一瞬、おめでとうを言うのも忘れてしまうくらいの衝撃!
いつのまに!?
「お、おめでとうございます。後でフィアンセさんを紹介してください」
どんな物好きがこの爺様を気に入ったのかは興味がある。
「しかし疲れたな。歳も歳だしそろそろ隠居しようと思ってる。このオンボロ道場も閉める。だけどただ閉めるのはもったいない。どうだ二尋、この道場を継ぐ、いや買う気はないか? 多少オンボロだがキチンと修繕すれば優良な居抜き物件になる。オイラの借金もこれで返せるってなもんだい、ウヒャヒャ」
「いやわたしはそっちの才能がないので。関川流柔術も滅びる運命なのでしょう、きっと」
「なんともったいない! 父の一尋も草葉の陰で泣いていることであろう。何度も聞くが一尋の敵討ちをしようとは思わないのか?」
「ええ、その問いは耳ダコですがわたしにはその気はないです。返り討ちに遭うのがオチに決まっています」
これも毎度のやり取り。
わたしが幼かった時。
父の一尋は関川流柔術の第十九代目宗家として道場を切り盛りしていた。
ある日、槍を持った道場破りと手合わせをして父は病院送りに。
半年ほど入院して父はあっけなく他界。
お互い合意の上での試合の事故という扱いで道場破りには執行猶予がついた。
行き場のない怒りと悲しみなんて感情は不思議と湧き上がらなかった。
母は幼いわたしを必死に育ててくれた。
そんな母を泣かせるような事はしたくない。
お金にもならない。
怪我や死のリスク。
やるわけがない。
「ならばオイラが一尋の仇を討っても問題はないな」
「えっ!? それってどういう……」
「簡潔に話してやろう。そもそもオイラが借金していたのは仇を探すために探偵を雇っていたからなのさ。最近になって奴の居所がわかった、と探偵から報告があった。だから果たし状を送った。昨日、奴から返事が来た。結果として正々堂々と試合をすることになった。日時は次の土曜、朝10時。場所はこの道場。なあ二尋よ、この勝負を見届けてくれ。お願いだ」
なんだって!?
萬治おじさんのこの言葉には魂消た!
意外や意外、予想外!
「わたしは反対です。これから隠居して新婚生活が待っているのに。冗談抜きで死ぬかもしれないんですよ。仮に敵討ちに成功したとしても、父は喜ばないはず!」
「そうだな、オイラもそう思う。だがな、これを放っておいてもオイラは心にトゲが刺さったまんま。隠居生活も新婚生活も楽しめない。一尋は無二の親友だったんだ。オイラの最後のわがまま、黙って見逃してくれや。万一の時は生命保険と香典で借金は返すから安心しろい。ヒャハハ」
そう言われると返す言葉はない。
というか、彼の「何度も聞くが一尋の敵討ちをしようとは思わないのか?」という言葉の意味をもっと考えるべきだったのだ。
ああ、どうか無事に試合が終わりますように。
3
試合の当日。
萬治おじさんから今回の立会人を紹介された。
「初めまして、この試合を裁くことになりました荒熊剛武です。多少の怪我はしょうがないにしてもなるべく死なせないように努力します」
そう言った荒熊さんは強面で相撲取りのような体格の偉丈夫。
「この荒熊は元機動隊で、今は警察で柔道の教官なんかをしているツワモノだ。そしてオイラの元弟子でもあるぞ、エッヘン」
「はあ、それは安心ですね……」
対戦相手が卑怯な手を使ってきても荒熊さんなら公正に処分出来るだろう。
「そしてオイラのハニーはもうすぐ来るから……ってオオ~イ! 遅かったじゃないか。事件や事故に巻き込まれたんじゃないかってハートがドキドキしっぱなしだったぞ、も~う」
「フフ、ごめんなさい。おにぎりを握っていたら遅くなってしまって。ああ、皆さんの分もちゃんとありますからね。そして初めまして。挨拶が遅れました。私は萬治の妻になる予定の早苗です。どうぞよろしくお願いします」
和服姿の落ち着いた女性がペコリとお辞儀をした。
こりゃ萬治おじさんの大金星だ。
「で、対戦相手はどんな奴なんですか?」
わたしは父の仇のことをよく知らない。
あの時は幼かったし、周りの大人も教えてくれなかった。
「名前はジョージ天羽。日系人。現在は
荒熊が答えた。
「まさかあの悪名高い団体のボスだったとはな。まあ、探偵は高い金を払ってくれただけあってちゃんと突き止めてくれたからヨシとせねば。おおっと、敵さんのお出ましだ、ウヒャヒャ」
なるほど、萬治おじさんが言った通り道場の入り口から長槍や青龍刀を持った面々が現れた。
中でも一人だけオーラが違うのがいる。
黒いスーツに黒いネクタイ。長身でオールバック、片目に眼帯をしている。
彼がボスのジョージ天羽に違いない。
その彼がまっすぐ迷わず私に近づいてきた。
自然な動きに構えることすら出来ない。
「君が二尋君かな?」
「ええ、そうです」
「あれは正々堂々の勝負だった。君のお父さんは強かった。私も片目を失明してね。別に許しを請うつもりはないが一言挨拶をしたまで。では失礼」
そう言うとジョージ天羽は仲間のところへ戻っていった。
わたしは彼の予想外の言葉に気を抜かれてしまった。
もっと憎々しいやつかと思っていたのに。
「フン、騙されるなよ。挨拶ならもっと早くにすべきだったのに。今からオイラが吠え面かかせてやるから待ってろい」
萬治おじさんは静かに燃えていた。
「両者中央へ」
荒熊の大声が道場に響く。
今日の主役2人が向かい合って立っている。
一人はもちろん萬治おじさん。
両手両足にクモの糸が出る例の妙ちきりんな装置を巻いている・
もう一方はジョージ天羽。
こちらは黒いスーツのまま着替えていない。
余裕なのだろうか。
「君、着替えなくて大丈夫なのかね?」
「実戦ではイチイチ着替える暇はない。心配ご無用」
荒熊の問いにジョージ天羽は答えた。
「それではルール説明をする。武器の使用を原則認める。ただし拳銃や爆発物の使用は認めず。どちらかが失神したらストップ。もしくは私が危険だと判断した場合はすぐに止める。後はお互い念書にサインした通り。では始めィッ!!」
いよいよ試合が始まった。
ジョージ天羽は槍で突いてきた。
ひらりひらりとかわす萬治おじさん。
「オイオイ、逃げてばかりかよ、だっせえ」
「まったくだぜ。自分からケンカを売っといて情けねえ」
「コラッ、ジジイ! さっさと潔くやられろ」
毘朱血党の連中が野次を飛ばした。
「もともと過去のことだし済んだこと。それでも試合に応じたのはあなたの思いに応えるため。やる気がないのなら帰るが文句はないね」
ジョージ天羽が静かに言った。
「ウヒャヒャ、悔しかったらオイラにそのご自慢の槍を当てればいいのに。ほれ、能書き言ってる暇があったらもっと攻めてこい、ほらほら、ウヒャヒャ」
「クッ、口の減らないジジイめ」
萬治おじさんの挑発に天羽が乗った。
「これで終わらせる。
「卍流クモ糸乱舞」
天羽は槍を左右に回転しまっすぐ突いてきた。
同時に萬治おじさんは右手首の装置のスイッチを押す。
ネバネバした網が飛び出て放射状に広がるが天羽に躱されてしまった。
「フン、なんだこんな小細工」
「さらに卍流クモ糸乱舞」
萬治おじさんは今度は左手首の装置のスイッチを押すが再び躱される。
どうも攻撃パターンが読まれているようだ。
「あきれたな。せめて男らしく……」
「マ、卍流クモ糸乱舞」
今度は尻餅をついてから右足首の装置のスイッチを押すがやはりクモの糸は当たらない。
「これから起こるのはあくまでも試合の上での事故だ。さあ念仏を唱えるがいい」
「ハアハア、マ、卍流クモ糸乱舞」
健闘むなしく、クモの糸は宙を舞う。
結局ただの一度もクモの糸は天羽に当たらなかったのだ。
「いくら試合の上だとはいえ二度目の殺人は私にとっても都合が悪い。なあ、負けを認めればこのまま帰ってもいいのだがどうする?」
天羽は哀れみの目で萬治おじさんを見下ろしている。
既に勝負はついた。
と、誰もが思った瞬間に萬治おじさんは飛燕のように立ち上がったかと思うと相手の懐に飛び込み身を沈めて水面蹴りを炸裂させた。
「えっ!?」
天羽はたまらずダウン。
「クソッ、こんなヘナチョコ蹴りなんか……ってなんだ!?」
天羽が倒れた所にはちょうどさっき躱したクモの糸が落ちていたのだからたまらない。
ジタバタして起きようとするがまさしくクモの巣にかかった獲物のよう。
「勝者、塙萬治!」
荒熊は萬治おじさんの手を挙げた。
わたしも早苗さんも思わず歓声を上げた。
「汚えぞっ!」
「こんなの卑怯だろうがよ」
「構うもんか、全員でやっちまえ」
納得の行かない毘朱血党の連中が興奮して襲いかかってきた。
そこからはもう無茶苦茶の大乱戦。
殴ったり殴られたり。
投げたり投げられたり。
結局は荒熊さんが柔道殺法で全員を投げ飛ばし、事を収めた。
4
あれから半年は過ぎただろうか。
カリブ海でのアツアツ新婚旅行の写真がうんざりするほどスマホに送られてきた。
そしてあの一戦以来、萬治おじさんの例のクモの糸が出る装置は評判になった。
この勢いに乗って防犯グッズと警備の会社を立ち上げた萬治おじさん。
さらには卍流体術の道場も修繕し、道場経営も軌道に乗せた。
人間上手く行くときは何をやっても上手く行く。
萬治おじさんはわたしの父の仇を取ってくれたけど回収に手心を加えるわけにはいかない。
今日の回収で最後の回収になる。
都会の喧騒から離れた郊外にその道場はある。
卍流体術道場の看板がかかっているオンボロ道場。
いや、オンボロ道場の面影は全く無く、近代的で親しみやすい道場になっていた。
表にはカフェでよく見かける立て看板。
“やる気のある弟子は怖れず来たれ! バンバン爺の期間限定オリジナル拳法、コウモリ拳を公開中! 見学も体験入門もお気軽にどうぞ”
という可愛い手書き。
ソォ~っと中を覗いてみた。
「いいかな。コウモリといえば超音波。この装置のスイッチを押せば特殊な超音波が出て敵を倒せる。無論、自分は超音波が効かないよう特殊な耳栓をせにゃならぬ。さあ、今ならセットで5万のところを3万にするぞい。弟子限定でな、ウヒャヒャ」
なんて怪しげな……。
今、のこのこ道場に入ったら超音波の実験台にされるのは目に見えている。
少し駅前のファミレスで時間をつぶして出直そうと踵を返した。
今日はもう胃薬を飲まなくても大丈夫そうだ。
元気な萬治おじさんを見たらこちらまで元気になってくる。
ふと、コウモリ拳を習ってみるのも良いんじゃないか、なんて思ったが首を振って駅前のファミレスに迷わず向かった。
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