侵攻の報

 ミーシャちゃんが転入してきてから1週間、キツい授業は多かったものの、ミーシャちゃんは嬉々とした様子で難なくこなしていた。人間よりも基礎体力の豊富な吸血鬼の血を引くのが要因の一つかもしれないが、昂然とハードな授業をこなすのは凄いと思う。

 ずっと箱庭に籠っていた少女が、ようやく外の世界に踏み出し、学校という新鮮な空気に触れて、子供のように目を光らせているのだ。傍目から見て嬉しく思わないはずがない。

 しかしここ数日の晴れやかな心情とは裏腹に、朝の空には研磨しても到底白には至らない程鼠色に染まった、重々しく分厚い雲が鎮座していた。

 不穏な空模様に悪い予感を覚え、思わず跼蹐してしまう。ため息を吐きながら制服に袖を通していると、廊下を慌ただしく駆ける足音が寝起きの脳をつんざいた。

「シノブ! 大変ですわ!」

「え、ミーシャちゃん? どうしたの」

「呑気に目を擦ってる場合ではないですわ、ってどうして下を穿いてないんですの!?」

「そりゃ突然来たから」

 手で顔を覆い隠すが、ミーシャちゃんの到来は予測していなかったので、着替え中なのは容赦してもらいたい。ただ、ミーシャちゃんの焦りようを見て目は覚めた。

「私が来ることを予想してほしいものですわ」

「それは無茶振りってもんだ」

「そんなことはどうでもいいですわ。今朝方未明、クラムデリアの北西郊外から東方連邦軍が侵入しましたわ」

「なんだって!?」

 東方連邦軍、ということは人間の連合軍が攻め入ってきたことになる。ミーシャちゃんが焦るのも当然であった。

「それで、戦況は?」

「まだ両者は睨み合ったままですわ。ただクラムデリアは二百、東方連邦軍は3万ですわ」

「さんまッ!?」

 あまりに規模の違う対峙に、思わず咳き込んだ。人間は人口や戦い方の工夫で吸血鬼に優位を突きつけてきた歴史があるが、これほどの差があれば確かに有利なのは人間だろう。

 クラムデリアは早朝で兵の招集も満足には行えなかったとはいえ、人間の侵攻に備えて常備兵が常に待機しているため、城に一定以上の兵を残すとなるとこれでほぼ全力なのだという。

 改めて戦力差を痛感する。開戦したらいったいどうなるのだろうと思った。

「ですがいつ始まってもおかしくはないでしょう。あるいはもう始まってしまっているかもしれないですわ。東方連邦軍も後詰めがやってくる前にクラムデリア軍を打倒したいはず」

 王宮は今頃大慌てだろう。それでもすぐに王都からクラムデリア近郊まで兵を向かわせるには、少なくとも丸3日はかかる。

「こんな時どうすれば……」

「私たちにできることはありませんわ。ただ信じて待つだけ、クラムデリアの将兵も命を懸けて祖国の土地を守ろうと意気込んでいるはずですわ」

 声ではそう言いつつも不安が拭えないのか、ソワソワしているのは隠し切れていなかった。

 結局この日の学校は休校となり、俺はミーシャちゃんと共にクラムデリア城へと戻ることにした。

 しかし道中は多くの吸血鬼が激しく往来し、その多くが余裕を欠いた表情であることからも、原因が人間の侵攻なのは明らかだった。

 長期戦に備えた水や食料の買い溜めや、最悪の場合に備えた逃げる準備などをおこなっているのだろうか。

 クラムデリア城は渓谷を抜けた広大な平地に位置しているが、そこに至る経路は渓谷を抜ける以外存在しない。

他にも手段がないことはないが、険しい山越えは大軍ではまず不可能だし、山道を進むにも危険な生物が生息する森の通過が必要であり、遭難の危険もあるために選択し難かった。

 そのため、王都へと兵を進めるためには渓谷に三つ設けられた堅固な城壁を突破しなければいけない。抜けるための鈍重な扉も不燃性で内側からしか開かず、万全な防御体制になっていた。

 これは世界大戦での反省を活かし、吸血鬼がクラムデリアの陥落を防ぐための方策を練ってきたからだ。

 そんな代物が聳え立っていながらも慢心というのが感じられないのは、住民の多くが過去の大戦を経験しているからだろう。人間とは違い、クラムデリアがなす術もなく陥落した事実を鮮明に記憶しているのだ。

 もしクラムデリアが陥落したら俺はどうすればいいのだろうか。声に出したら滅多なことを言うもんじゃないと怒鳴られそうだ。王都へと退避する、というのはまず無理だろう。俺がルメニアにやってきた日のような目に遭うのがオチだ。戦時下の国民感情も相まって磔にされるかもしれない。

 そうならないためには、クラムデリア軍には何としても勝ってもらわないといけない。

 そんな風に考えていたその日の夕刻、俺は急遽マーガレット先生に呼び出された。俺だけではなく、人間の学生が緊急で集められている。嫌な予感を払拭するために大きく深呼吸をするものの、嫌な汗が背中を伝った。

 今日一日一緒にいたミーシャちゃんと共に教室に入ると、既に生徒は全員が着席していた。ブラウやルージュもこちらに目を向ける余裕すらないのか、緊張の面持ちで教卓に目を向けていた。

「全員集まったな」

 しかし沈黙ののちにもマーガレット先生の口から二の句が紡がれることはなく、ただ逡巡して視線を彷徨わせるばかりだった。

 どこからどう見ても、普通ではなかった。ホームルームを適当に流す姿は一切見えず、逆に狂戦士モードからもかけ離れた姿。肝っ玉の太い性格であることを知っているからこそ、その取り乱しぶりは光っていた。

「何かあったんですか、先生?」

 恐る恐る、ブラウが尋ねる。

「クラムデリア軍が先程大敗を喫した」

 普段の間延びした声色は欠片も窺えず、教室には尋常でない緊張が帯びた。クラスの面々は動揺を飛び越え、顔を見合わせることすらもしない。

「それは、本当ですか?」

「嘘であれば良かったのだがな」

 クラムデリア軍は戦を指揮したゼーラス将軍が討死し、壊滅の憂き目を見たという。将兵が善戦を繰り広げたことで、東方連邦軍はクラムデリア近郊で留まったままらしいが、こちらに辿り着くのも時間の問題であるという。

「ここからはお前らの運命を左右する話だ。心して聞いてもらいたい」

 クラス全員が一様に固唾を飲み、その音は耳に届くほどだった。

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