第5話 私でもお役に立てますわ
パレンツァン公爵邸へ向かう馬車の中で、私は力尽きたように眠ってしまっていたらしい。
暗い海の底でうずくまっているような感覚の後、海面に引き上げられるように、徐々に意識が覚醒していった。
「私……いつの間にか、眠っていたのね……」
頬と目元に、涙が乾いた感触があった。パレンツァン邸に着く前にお化粧を直さないと、私のせいでアリスティア家の看板に傷が付いてしまう。私は屋敷の庭でひっそりと育てていた畑の植物から作った、自作の化粧品をポーチから取り出す。
お父様もお母様も、ガーデニングには興味が無かった。小さい頃に亡くなったお婆様が遺した庭の手入れは、屋敷に居るたった一人の侍女カミラに代わって、私が担当していた。
財政が厳しくなってクビになった侍女達が分担していた仕事は、十六歳のカミラだけで回していかなければならなかったからだ。
私が庭の世話をすると申し出た時、彼女は「申し訳ございません、ロミアお嬢様……」と頭を下げていた。
カミラはお父様からの言い付けで、私に関する世話は全て禁じられている。心優しい彼女の事だから、ただでさえそれすらも心苦しかったというのに、庭仕事を押し付けてしまうのが辛かったのだと思う。
……私は昔、お父様の機嫌を損ねて食事を抜かれ、丸一日部屋に閉じ込められた事があった。その時、カミラはこっそりとパンと果物を持って来てくれた。
不自然に食糧が減っていたらお父様達にバレてしまうからと、彼女は自身の食事を分けてくれたのだ。
それから私とカミラは、年齢が近い事もあって以前より仲良くなった。今日だって、彼女にとって最初で最後の仕事になる、私の身支度を手伝ってくれた。
「カミラ……。私が最後にお裾分けした化粧品、使ってくれるかしら……?」
手に取った小瓶を見詰めていたら、また涙が出て来てしまいそうになる。
私が居なくなるせいで、カミラの仕事がまた増えてしまう事になるけれど……もうすぐ公爵家から資金援助が来る。その時にはきっと他の侍女も雇ってもらえるだろうから、あの子の負担も減るはずだ。
彼女を心配させない為にも、私がパレンツァン家の妻としてしっかりして、デリス様との間に元気な男の子を産まないと……。
……出来るの? 人前で、それもあんなに大声で私の格好を侮辱したような男性と?
同じ貴族の男性でも、寒空の下へ放り出された私を気遣って下さったジュリ様とは、まるで大違いだったのに……?
──その時、馬が激しく
「きゃあっ!?」
いきなりの出来事に、私は思わず情け無い悲鳴を上げてしまった。
それから、馬車の外で男の人が怒鳴る声が聞こえて来る。多分、今日の為にお父様が雇った御者の男性のものだろう。
しばらくすると、その声も聞こえなくなった。
急に静けさを取り戻し、何が何だか分からずに困惑していると、見知らぬ女性が箱馬車の扉を開けたではないか。
その女性は、二十代前半ぐらいか。ホワイトブリムを頭に着け、長いスカートの侍女服に身を包んだ人物だ。
「突然の無礼をお許し下さい。わたくしの名はフェル。……これより先は、わたくしもロミア様にご同行させて頂きます」
女性にしては、少しハスキーな声だった。
けれどもフェルと名乗ったその女性は、顔立ちがキリリとしてして背も高く、腰まで伸びた黒髪も美しかった。男性的な格好良さと、大人の女性の余裕を感じさせる不思議な魅力がある。
ダリアお姉様も高身長な方だけれど、彼女の方がより騎士のように見える凛々しさがあった。
「あの、フェルさん……?」
「わたくしの事はどうか、フェルとお呼び下さい」
「……フェル。貴女はその……お父様が臨時で雇われた侍女の方なのですか? それとも、パレンツァン公が……?」
「目的地に到着すれば、その答えがお分かりになりますよ」
そう言って、フェルは何か含みのある笑みを浮かべるだけで、明確な答えを口にはしてくれなかった。
「それよりも、です。馬車を走らせる前に、ロミア様のお化粧を直しましょう」
フェルは、彼女が持ち込んだ鞄の中から箱を取り出し、蓋を開ける。すると、中には見るからに高級そうな化粧道具の数々が詰め込まれているではないか!
凄いわ……。これだけ色々揃っているのなら、彼女はきっとパレンツァン家の侍女なのでしょうね。うちじゃあこんな高級品、欲しくてもなかなか手を出せないはずだもの。
すると、箱のから色々と吟味していたフェルが、ふと私の手元に視線を落とした。
「……その小瓶は、ロミア様の化粧品ですか?」
「は、はい! そちらの立派な既製品とは全然違って、本を見ながら作ったしょうもないお手製の物ですけれど……」
「化粧品を、ご自分の手で……?」
「ええ……まあ、趣味と実益を兼ねたものでしかありませんわ。フェルが持って来たものより、遥かに劣るまがい物ですし……こちらは片付けてしまいますね」
「お待ち下さい、ロミア様!」
私が化粧品の瓶をポーチに片付けようとすると、フェルが止めてきた。
驚いて顔を上げると、彼女は真剣な面持ちでこちらを見詰めている。
「……ロミア様は、普段からお手製の化粧品をお使いになっているのですか?」
「え、ええ。お姉様がお化粧を始めるようになった頃からだから……十年ぐらい前かしら? 私は自由に使える化粧品が無かったものだから、お婆様の書庫から薬草学の本や魔法薬の本を借りてきて。研究室も誰も使っていなかったから、場所を借りて色々な物を作ってみる事にしたのです。最初は化粧水を作ろうと思って、次は保湿クリームに取り掛かって……。お姉様がお父様に買って頂いた色々な物を紹介して下さったから、どんな物がお化粧に必要なのか分かったのです」
「……もしや、そのポーチの中身は全てご自身の開発なさった化粧品で?」
「開発だなんて、大袈裟です! 私はただ、いつも美しいダリアお姉様やお母様に憧れて、真似をしてみたかっただけなのです」
「……大方の事情は把握しました。後ほど、改めてロミア様の化粧品をお見せして頂けると幸いです」
「ええ、それぐらいの事でしたら私でもお役に立てますわ」
「今はひとまず、わたくしがお持ちした品で化粧直しを済ませてしまいましょう」
それからフェルは、手早く私の化粧を直していった。
泣いてしまったせいで化粧が流れてしまっていたけれど、フェルは私に「この化粧をしてくれた侍女は腕が良い」と褒めてくれた。カミラの事が褒められて、何だか自分の事のように嬉しかった。
*
お化粧直しが終わると、改めて馬車はパレンツァン邸へ向けて走り出す。
道中では、フェルから自作の化粧品について色々と話を聞かれた。化粧品のレシピについても質問されて、彼女の問いに答える度に感心されたり、実物を見せたりしながら話を続けた。
フェルからは「その化粧品は、あなた様の努力の賜物です」だなんて言われてしまった。材料を探すのも、種や苗から育てるのも一苦労で、まともに作れた物なんてそんなにない。いざ完成しても作れる量が少ないから、化粧水だって毎日使える訳でもないし……。
だけど、ものすごい美人さんに面と向かって褒められたものだから、かなり照れ臭かったけれど……。自分の趣味を認めてもらうだなんて、初めての経験だった。
天国に居るお婆様がまだご健在であったら、こんな風に私の事を褒めて下さっていたのかしら……?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます