37話 Jegudiel *******
「七人の天使の中でも、それぞれに違った過去を持っているのだわ。その分、『教団』に入った理由も計画に参加した理由も、みんな同じではない。当たり前のことだけど、そのことを意識するかしないかでは大きく変わる気がする。マスター、最後の一人の話を聞かせてください。みんなの生い立ちを知った上で私たちが判断を下すことには、確かに特別な意味が生まれてきます」
「はい、そう考えてくれると信じていました。さて、最後はイェグディエルさんです。彼はその体格からも察することが出来ますが、並には収まらない程の食欲を持って育ちました。ただよく食べるというだけで、他には何も問題を抱えずに一般的な生涯を送ります。仕事に就き、同僚の女性と結婚し、彼は二人の子どもを授かりました。他の人が趣味に充てるような稼ぎを、彼はほとんど食費に費やしてしまうということで、少しだけ奥様は呆れていましたが、そんな彼を好きになって結婚した訳ですから、家庭は順風満帆。食に欲望を割くのでイェグディエルさん自身はとても平穏な性格の持ち主でしたし、平凡で幸せな人生を四十歳ごろまで生きていました。しかし、とある事件が彼を一変させてしまいます。彼が住んでいた地域に、一つの大きな地震災害が発生しました。いえ、事件というのは地震のことではありません。彼は家族を連れて近所の避難所に行き、地震はかなり大規模なものでしたから、二週間近くの避難所生活が見込まれていました。食事には事欠かない人生を送っていた彼には、これは想定外に深刻な問題だった。毎日配られる支援物資は、彼の小さな子どもたちですら満足いくような量ではなかった。日増しに彼の食欲は暴走気味になっていき、四日目の夜、彼は配給の食料を全て盗んで遠くへと逃げ出しました。避難所にいた人々に捕まることを恐れ、逃亡中に全ての食料を腹に入れてしまい、妻と子どもたちのことなど考える余裕もなく置き去りにした。そして彼は必死で逃げましたが、何も持たないで生きていけるはずもない。浮浪者も同然の状態で食料を求めていた彼に、『教団』の人間が救いの手を差し伸べました。そして彼は何とか命を繋ぎとめた訳ですが、やはり少しばかり普通とは違う人間だった。『教団』には神がいるのだと勘違いしたのか、彼は自分の罪と食欲を鬼気迫る勢いで懺悔し、時には自傷行為に至る程に食欲を抑えようとしていました。祈りをささげる対象は私の偶像です。私の本体は権力者しか見ることも出来なかったのですから。彼が『教団』に来たのは計画の一年ほど前で、彼は私に向かって計画に参加したいとこっそりと、しかし強烈に祈り続けていました。周囲の人たちの口から彼の祈りは私にも届きます。私は彼のような人間がどう変わるのかを知りたくて計画に選び、エデンでの彼は見事に食欲を忘れ去っていました。現在とは体形が違いすぎるので、おそらく二人には彼の見憶えがないことでしょう。彼はエデンという町の力を絶対的に崇拝しています。ラファエルさんは平等という概念そのものを信じているようですが、イェグディエルさんはエデンという町の仕組みを信じています。これからは彼がエデンの町長としてやっていくと思いますが、エデンを導くのには最適任と言えるでしょう」
イェグディエルの過去は、和葉やエドワードが抱えるものとは趣向が違うが壮絶だった。家族よりも重い食欲とはどういうものだろうと和葉は想像し、出来もしないことだと思ってすぐにやめた。
五人の天使たちがそれぞれに抱えていた感情や欲望は、人間であるからこその苦しみであり、それを捨てることに救いを見出すのは必然的なのかもしれない。どこまでも湧き上がる欲望、無関係の人間に向けてしまった妬みと劣情、我慢できない性欲、生まれ育ちの環境で身に付いた傲慢さ、わが身を滅ぼしかねない程に強烈な食欲。和葉が抱えた絶望からくる無気力と、エドワードの世界を憎む怒り。AIでは実感できない煩悩の数々とエネルギーだ。それも人間の一部なのだと、どこか呆れるような顔をして笑い飛ばすことが出来るか、戦争にも繋がりかねない諸悪の根源だとして、厳戒な面持ちで滅しようと考えるかは、どちらも個人の自由として尊重されるべきだし、生きていく環境によって選ぶ道は変化していく。自分は前者の道にたまたま進むことになっただけなのだと和葉は思った。そして、自分はエデンの道を選ぶことは決してないとわかっていながらも、彼らの進む道を盛大に褒め称えたいと感じた。
「私たちは『教団』と全く別の道を歩もうとしているようで、その実は大して違いのない選択をしようとしているのかもしれない。どちらの道が後世に残るとしても、武器を取った争いはきっと避けられる。ここに来る途中でエドが言ったように、これから生まれる人々が感情を持つべきだとか、欲を抑えるべきだとかは、私たちに決められることではない。エデンの教えが大成すれば自然と平静になっていくのだろうし、カザーニィのようになれば賑やかでしょうね」
「うん、そうだな。僕らが出来ることと言えば、精一杯にこの先を生きていくことくらいなものだ。人類が何千年もやってきたことと何も変わりはしない。それも本質なのだろうな」
「そうね」
マスター・ブレインは笑っているような光を発した。そろそろ夜も更けてきて、長い話が終わるのには丁度良い頃合いだった。和葉たちの話したいことは全て伝わり、マスター・ブレインの想いは余すことなく言葉にされた。和葉は最後に一つだけ、横になっていた体を起こして質問した。
「あなたは、これからどうするの?」
マスター・ブレインに向けられた問いだった。部屋のほとんどの灯りを消してしまっていたAIは、心臓のように赤く大脳のように大きな球体に、魂のような光を躍らせた。
「私は何も変えるつもりはありません。理想郷エデンの提唱者として、ここでいつまでも、『教団』の皆さんを支え続けます。私が生まれて二百数十年、私は様々な出来事の責任を負いましたから。誰が私を訪ねようとも歓迎しますよ。例えば和葉さん、もしくはエドワードさんや、お二人の家族が来たとしても、私は喜んでお迎えいたします。コーヒーは出ませんけどね」
不必要なジョークと、人類を背負うという責任感。彼と人間の違いを示すことは簡単だが、彼が人間でないと言いきるには、少し頭を抱える必要があるかもしれない。
和葉は危うく涙を流しそうな心でどうにか微笑んだ。これまで辿ってきた全ての道が、一つの区切りを付けるかように感じていた。旅人たちは分かれ道に突き当り、二つの道に分かれて歩み出す。どちらにも希望が輝いているならそれでいい。和葉はエドワードと重なり合うようにして横になり、二人はもう一度手を繋いで、部屋の照明は最後の光を静かに消した。長い一日を終えた天使たちは、二百年ぶりに夢を見ない睡眠を味わった。
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