35話 Salaphiel & Gabriel ****

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 史上最深部での結婚式が終わり、和葉が通常運転に戻るには小一時間が掛かった。誰であろうとも突然のことに驚いただろう。エドワードだって自分の行動に意外性を感じているようだ。もしも大して驚かない人たちがいるとすれば、それはエデンの住民たちであれば納得がいく。

 エドワードはよほど嬉しかったのか、ずっと和葉の手を握っていた。もうその行為には、仲間や友人としての愛情とは一味違う、夫婦としての絆が連れ立っている。和葉は夫の愛情に、まだ少しばかり恥ずかしさを隠せないようだった。とはいえ、ずっとここでいる訳にもいかなかった。

「マスター、今が何時かわかります?」

「今は二十三時十五分ですね。こんな地下にいたのではわかりませんが、地上はすっかり真っ暗です」

「『教団』の人や天使の人々も、きっと既に寝ているでしょうね。これからエデンの人間になるというのなら、陽が落ちると同時に眠りに就くような生活態度になるわ」

 現状では、二人は地上に戻らずに夜を明かした方が賢明だった。今の現実世界での常識を二人は知らない。夜は安全なのか、この地域には獰猛な野獣がうろついていないのか。情報も武器も持たずに暗闇の中に出ていくのは、いたずらに危険を招くだけの愚かな選択だ。

「少し、よろしいでしょうか」

 この地下シェルターで今日も寝るべきだと判断した二人に、マスター・ブレインは声を掛けた。婚姻の祝福ムードやその余韻を一掃して、今一度お話をしましょうという固い声色だ。和葉たちは寝る為にベッドに入ろうとしていた時だった。この二百二年を眠ったのと同じベッド、人工冬眠装置・希望の箱。マスター・ブレインがブレーカーの位置を教えたので、室内は快適な状態に保たれている。二人は長い一日の疲れをおして話に応じた。

「あなた方の進む道はわかりました。私はその道の輝きを祈るばかりです。ですが、『教団』と別の道を行くという決断をするにあたって、知っておいてもらいたいこともあります。これはまた、今後のお二人が抱えるかもしれない悩みの判断材料にもなるでしょう。七天使たちの、お二人を除いた五人の過去の話です。彼らがどのように計画に参加し、どのような過去を抱えながらエデンを創ろうと思っているのか。そのことをお二人には知っておいてほしい。あなた方には知るべき義務のようなものもありますし、おそらく重大な情報ともなるでしょう」

 マスター・ブレインは最後の会話を望み、和葉とエドワードは目を合わせて互いの意思を確認した。それぞれがどうしたいと思っているかなど、本当は言葉も確認も必要ないくらいにわかっていた。和葉とエドワードは、マスター・ブレインの赤い球体を見つめた。頷くように金色の光が瞬き、完全なる大脳マスター・ブレインは話を始めた。

「わかりました。では、まずはサラフィエルさん、夢の中では私の喫茶店を手伝ってくれていた、ネズという少年の話です。エデンの町で彼は、夢なんて持っていない、誰も立候補しなければ喫茶店を継いでもいいと仰っていました。人工冬眠に入った頃は九歳でしたが、本来の彼は夢をたくさん持っているような子どもでした。とにかくビッグになりたいと思っていて、様々な分野で活躍する自分を夢想していました。それに関連することですが、彼はかなりのわがままだった。わがままと言えば聞こえは可愛らしいですが、目に余る程に独裁的な強欲の者。たちの悪いガキ大将といったところでしょうか。彼は物心がついてから、あらゆるものを欲しがって歯止めを効かさなかった。友達もたくさん欲しがり、友達の持っている物もたくさん欲しがった。少し喧嘩が強くて賑やかな存在でしたから、学校のほとんどの人が彼の言うことを聞くようになりました。彼の周りには常に十人くらいの仲間がいるようにして、どんな用事があろうとも家には帰らせなかった。でも、別に寂しがり屋だったという訳でもない。むしろ他人を見下し邪魔者と思うくらいには孤独でした。友達はある種のの一部であって、友達という人間の数が彼の所有欲を満たし、友達の物はそのまま彼の所有物になる訳です。新しいゲームを買ったり、レアなグッズを手に入れた子には、『貸せ』とか『よこせ』と声を掛けていました。逆らう者は一人もいません。彼は女の子も好きにしていたようですね。自らの望むようにならなかったり、デートを拒否したら次の日からは学校にも来られなくする。お金は使う度に親に要求し、急を要する時には友達から貰っていました。借りることなどありません。万引きはするし、仲間にも強要する。彼らの盗った物はネズの物になり、ネズはリスクを背負わなくて良くなる。クスリとタバコは持っておきたかったから集めさせ、使うことには興味がなかったので持っていてもバレませんでした。彼は九歳までに様々なトラブルを起こし、自分が周囲の人間から嫌われているという事には自覚的でした。そしてある時、警察に補導された先で、更生施設のような扱いで『教団』に入ります。『教団』の人々にも迷惑を掛けつつ、やがて彼は計画に選ばれて、参加すれば無欲になれると周囲の大人たちに言われました。彼が計画に参加した動機はそこにあるようです。本当に自分のような人間が無欲になれるなら面白いと考えた。そして夢から覚めた彼は、エデンでの暮らしに感銘を受けたと仰っていました。物欲を抑えるのではなくて、そもそもの物欲が湧いてこなかったと。お二人が目覚める前に、彼は私に向かってこう言いました。昔の僕みたいな子どもがもう二度と生まれてこない世界になってほしい。それが今の夢かもしれないよ、と」


 少し、重苦しい沈黙があった。和葉は悲しそうな目で宙を見つめていた。

 「自分のような子どもが二度と生まれてこないでほしい」。十一歳ほどの精神を持つ少年が口にする言葉であってほしくないものだ。和葉は悲しみを紛らわす為か、人肌に慰めてもらいたかったのか、エドワードのいる希望の箱の中へと移動した。人が二人も入るには少し窮屈だが、抱き合うようにして密着すれば何とかサイズは足りる。「他の人のも聞きたいわ。続けて」と和葉は言った。二人にはきっと、あらゆるものを受け入れる覚悟が出来ている。

「わかりました。お次はエレナさんにしましょう。彼女はガブリエルという名を冠しています。彼女もまた、ご両親が『教団』に所属していたのですが、彼女が生まれてすぐに二人ともいなくなってしまいました。父親が蒸発して母親は事故にあったのです。ちなみに私は夢の中の世界では、彼女の両親を特別に操作したつもりはありません。世界の自然な流れとして彼女のご両親はいなくなってしまったのです」

「ちょっと待って」

 そこで和葉は口を挟んだ。

「エレナさんのお父さんがエデンの町から去っていってしまったのには、どういう訳があったのかしら。私はエデンで過ごしている時に何度か考えていたの。でも答えを出す時間はなかった」

「僕も同じだ。教えてください、マスター」

 二人の問いかけに、マスター・ブレインはちょっとした沈黙で答えた。すぐに言葉が出ない様子を、エドワードは不思議に思いながら見ていた。

「そうですね、教えてほしいと言われましても、正直に申せば私にもはっきりとはわからないところなのです。が、一つの仮定として言えるのは、やはりエデンの町には多少なりとも無理が存在したということかもしれません。私はあらゆる人格をシミュレーションし、あの夢の世界の中に生み出しました。エレナさんのご両親は町の外からやってきたと説明しましたね。つまりお父様のような性格の人には、エデンの町で生き続けていくのが難しかったのかもしれません。なにせ、私は人格キャラクターを生み出しただけで、どう行動するかはそれぞれのペルソナに一任していたものですから」

「そう、ですか……」

 和葉は少し歯切れの悪い返事を残したが、自分たちがエデンの町に違和感を拭えなかったことから推すに、エレナの父があの平和の町に馴染めなかったことは何もおかしなことではなさそうだ。

「お話を戻しましょう。夢の中と同様に、エレナさんにはタクマさんという兄がいました。両親のいない彼女にとって、お兄さんの存在はとても大きかった。しかしタクマさんは核大戦の予言の年に倒れ、それから三年近く寝たきりで、そのまま回復することなく亡くなりました。彼女は兄の死に深く絶望し、その感情は他人の兄弟を妬むことへと繋がった。これは偶然でしょうが、彼女の周りには兄を持つ人間がかなり多かった。その全ての人がお兄さんの葬式に集まり、家族や兄弟でタクマさんを追悼する様子を見て、彼女の心は尋常の域を超えたのです。彼らの兄たちが元気でいることが嫌で嫌で仕方がないと思うようになり、どうして私のお兄ちゃんだけ、私の家族はこんなにも恵まれないのかと、激しい嫉妬の念に駆られていました。彼女は本当に危ういところまで感情を肥大化させ、あと一週間も放置しておけば大量殺人鬼として死刑を言い渡されていたはずだと、彼女は過去を振り返っていました。そんな時に、彼女は計画の一員に選ばれて、悲しみをなくすことが出来ると言われた。『教団』の教えだけではその嫉妬心は抑えられませんでしたが、理想郷に住めば変わることが出来るんじゃないかと思い、実際に夢の中で彼女は変わりました。お二人も目の前で見ることになりましたが、お兄さんが死んでも他人に嫉妬することはなく、悲しみに暮れることもなく、穏やかに生きていくことが出来た。彼女は目覚めた時に、声が出るようになるとすぐに私への感謝を述べてくれました。人間として大きく成長できたと喜んでいた。そして、これからは七天使としての自覚を持って生きていきたい。自分はエデンの人間にしては言葉遣いがラフだから、より丁寧に喋れるようになりますと、彼女は仰っていました」

「……そう、エレナさん……」

 和葉はまた、虚空のような寂しさを胸の内に宿すしかなかった。無関係な他人を殺したいくらいに妬まなくなったのは、確かに人間として清浄せいじょうになった証かもしれない。しかし、最愛の兄の死を悲しむ度合いが減ったことを、人としての成長だと彼女に言ってほしくはなかった。エレナの接しやすさは和葉にとっての美徳だった。地上で声を掛けてくれた彼女のことを思い出す。あの素朴な笑顔やてらいのない態度は、これからの彼女にはもう見られなくなるのかもしれない。ただ、彼女についての寂しさや悲しさが湧き上がろうが、二人が友達であることには変わりがない。どんなことにでも希望を見つけ、その光に向かって歩いていく。和葉はそうありたい。

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