27話 Awakening

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 その日、少女は目を覚ました。

 深い深い地下室で、誰かが駆け下りてくるような足音を聴いて、その誰かが自分の真上まで近付いてきたという感覚で目を開いた。その時、少女が最初に感じたのは色だった。

 身体が受ける温度や触感などは一番手にはなれない。少女の意思が反映されるよりも前に、脊髄反射という形で見開いた双眸を襲ったのは光でもない。白だ、と少女は思った。いや、。一つの覆しようのないただの事実として、少女の目の前には圧倒的な白さがあった。

 その白は、やがて少女の——空のように青い——瞳にワンテンポ遅れて痛みを与え始めた。目の前にある白が光そのものではないとはいえ、色とはつまり光によるものなのである。それまで瞼の裏の暗闇を見ていた者が、いきなり光の作る圧倒的な白を目にすれば、すぐに痛みを持って自らの感覚を思い知ることになる。溢れんばかりの涙が出てきた。少女は思わず目を閉じた。

 色覚の次は痛覚で、その次に蘇ったのは思考だった。何だこれとか、すごく痛いとか、まずは至極単純なものだった。しかし、やがて意識は覚醒を始める。思考と意識が蘇ってきたのならば、次に取り戻すのは記憶だった。

 光の痛みに怯え、目を閉じたままで少女は考える。自分はどうなったのだろう。ここは何だ、状況はどうなっている。起きた、目を覚ました、それはつまり寝ていたということ?私は…………。奇妙なことに、少女には眠ったという記憶がなかった。眠ってもいないのに起きる?それは、つまり…………。少女は混乱しながらも、自分は気絶していた可能性があるという推察に辿り着いた。

 眠りに就いた覚えはなくても、少女には別の一つの記憶があった。たしか自分は、地下へと続く暗い階段を全速力で降り、その先にあった木の扉を開いたはずだ。その後は、…………何があったのだろう。どうして気絶することになったのだろうか。彼女が自分の力でその答えを知るには、恐怖に怯えて目を閉じていることは有効な手段にならない。少女は強い使命感を思い出した。それが何の使命によるものなのかは判然としないが、少女が勇気を生み出すには充分な存在であることは確かだった。痛みがくることは知っていながらも、使命感を糧に少女は再び目を開けた。

 大抵の物事は、怯える程には怖くはない。目を開けたことで、少女は再び光の痛みを感じたが、そう長くは続かなかった。一時の気の迷いみたいな痛みでしかないのだ。そして、痛みというリスクを受け入れた少女には、その分の恩恵がもたらされることになる。

 カメラのピントが合うように、少女の視界は明瞭になっていった。色は、唯一の白から無限へと広がった。とはいえ極彩色の景色が広がっていた訳ではない。むしろその逆の、無機質で単調な世界がそこにはあった。少女の目と鼻の先には、薄いオレンジ色の半透明なガラスが、頭よりも上の方から足よりも下の方まで広がっている。少女は自らが何かのケースのようなものに入っていることを理解した。

 そしてガラスは反射性に優れており、目の前の少女の姿を映し出していた。空のように青い虹彩を持つ大きな瞳、腰の辺りまで長く伸びた艶やかな黒髪。そして服は……なぜだか着ていない。少女は疑問を持つ。記憶にある自分の姿とは大きく異なっているからだ。ありのままに曝け出された身体と、短かく切り揃えていたはずなのに長い黒髪。少女は思わずガラスに映る自分の顔を睨んだ。

 するとそれを待っていたかのように、何の合図もなしにガラスが開いた。素早い動作の割にはほとんど音も立てずに、少女は驚きのあまり視線を泳がせてしまう。しかし目に映る景色は一辺倒で、無機質な天井に弱々しい一つの照明。少しひんやりとした空気が肌に触れる。

 起き上がるのを促されているようだと少女は思った。そしてすぐに混乱を味わうことになった。身体が動かせないのだ。拘束具などに縛られている訳でもないのに、起き上がろうとしてもそれは上手くいかない。筋肉に力が入りきらなくて、まるで麻痺しているかのようにビクともしない。混乱はすぐに恐怖へと変化する。

 声も出なかった。長いこと声を出していなかった為に喉が掠れているという感じだった。少女は自分が嫌になるくらいに取り乱した。何か薬物を盛られたのかと思った。このままでは自衛の術はない。武器もなければ防具もないし、そもそも動けなければ抵抗ができない。敵が手頃な大きさの石を持っているだけでも命が危ない状態だ。いや、敵?そんなものがここにはいるのか。でも、自分で勝手にこのような状態になるはずがない。私はさっきまでエデンの喫茶店にいて、マスターを押し退けて地下階段を降りたはずだ。少女の記憶はだんだん鮮明になっていくが、依然として身体機能は元に戻らない。しかし、そんな恐怖も長くは続かなかった。

 少女の頭の近くから「あら」と女性の声がし、見知らぬ女性が真上からその顔を覗かせた。武器も持っていなければ温和な表情さえしている。まさかこんなに近くに人がいたとは、気配すら感じ取れなかった自分を少女は恐れる。一見したところ敵意はなさそうだが、それでも少女は警戒を緩めない。

「ごめんなさいね、すぐに気が付かなくて。いや、まずは、おはようございます、ですね」

 女性は何やら訳知り顔で少女に囁いた。非常に穏やかでのんびりとした口調で、それはまるで、平和の町の住人のようだ。

 すると女性は少女の身体へと両手を伸ばした。一瞬、何をされるのかと少女は身構えたが、女性は赤子にでも触れるかのような優しさで少女を抱き起してくれた。少しずつだが、少女の身体にも力が入ってくるようになる。女性はすぐに少女のあられもない格好を慮ると、近くにあった机から白いレースのような着物を少女に着せてくれた。少女にはその服に確かな見憶えがあった。エデンの町の住民が着ていたものに間違いない。

 あなたはエデンの町の人なの?そう少女は尋ねようとしたが、やはりまだ声は出なかった。そんな様子に気が付いたのか、女性は少女に水の入ったストロー付きのペットボトルを渡してくれた。少女は何の抵抗もなしに、すぐにその水を飲んだ。そしてまた、すぐに自分の行動に疑問を抱いた。

 少女はストローの存在も、その用途も充分に把握していた。しかし奇妙なことに、こんな物は初めて目にしたとも思っていたのだ。記憶をたどる限り、どこの国、どの遺跡でもこのような物を目にした憶えはない。カザーニィにも四大国にも、旅の途中にあった廃墟群にもエデンの町にも、この世界のどこにも存在を確認した記憶がない。

 漠然としていて、なおかつ巨大な不信感に苛まれる。自分の身に何が起きているのかわからなかった。変な話、自分が生きているのかどうかすらも怪しく思えていた。エデンに着いた時、ダンゴが冗談のつもりで言っていた、気付かない内に天国に来てしまったんじゃないかという台詞。いっそのことそれが現実であっても驚きはしないかもしれない。後悔や失意を覚えるかどうかは別として、ここが現世でないなら何を言われても受け入れることが出来そうだ。少女は女性に目を向けた。怯える子どもが助けを求めるようだった。

「そろそろ落ち着きましたでしょうか。ええ、不思議がるのも無理はありません。何が起きているのかも思い出せないことでしょう。でも、あなたは全く怖がることはないのです。私の話を聞けばすぐに記憶も取り戻せますわ」

 女性はそう言うと、少女の右隣りに腰を下ろした。その動きを目で追って、女性の背後に広がる光景を見た少女は目を疑った。

 そこにはかなり大きな空間が広がっており、彼女ら二人以外にも多くの人間が存在したのだ。黒い棺のような箱が五つあり、そこから伸びた管が繋がる一つの巨大な機械があり、箱の中にはそれぞれ一人ずつ人間が座っていて、彼らの横では数名の人々が談笑をしている。皆、同じ白いレースの着物を身に付けていた。

 少女は咄嗟に、自分の左側にも目をやった。そして戦慄するかのように目を見開くと、すぐに慌てて顔を背けた。彼女が顔を背けたのは、そこに一つの箱があり、その中に全裸の男性が眠っていたからだ。そして、彼女がどうしても強く驚かざるを得なかったのは、その男性の顔がエドワードのものであった為である。


「大丈夫ですよ。ここにいる人々はあなたの仲間です。隣で眠る男性はじきに目覚めますし、箱が開けばすぐにでも服を着せてあげます。今のあなたがそんなにも不安そうにしているのは、あなたに記憶障害の症状がある為でしょう。私が全てをお話ししてさしあげますので、どうか落ち着いて記憶を取り戻してください。まずはあなたのお名前から。ええ、これからはウリエルと呼ばれることになるのですが、そんなことは今話しても仕方がありません。あなたのいわゆる戸籍上の名前、過去にとある島国で存在した戸籍の名前から思い出してみましょう。あなたは、ええと、和葉さんと仰るそうですね。わかりますか?吉田よしだ和葉かずはさん」

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