24話 エデン⑥

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 カズハたちがエデンを訪れてから四日が経過していた。

 ここでの日々は波風の立たない凪の海のように、ずっと同じ毎日を繰り返しているようなものだった。朝起きてから喫茶店で朝食作りをして、それぞれが与えられた役割を果たしに仕事へと向かう。昼には再び喫茶店に集まって、午後は仕事が残っていればそれをやるし、何もすることがないのであれば自由に過ごす。全員の仕事が終わった時点で旅人たちは倉庫に集まり、自分たちの旅の目的について話し合った。しかし、現時点ではこれといった平和の秘訣が見つかっていない。このまま何も見つからずに日々が過ぎれば、彼らは祖国に帰ってこの町の様子をそのまま伝えるということくらいしか出来ないだろう。そして、あの狂乱に満ちたネトエル山にもう一度足を踏み入れる決意をしなくてはならない。

 この日も、具体的な話を始められる者はいなかった。ミーティングとは名ばかりで、暇な時間を持て余す人々の雑談の時間と呼ばれても文句は言えない。

「この際、物理的な物でもあれば助かるんだけどね。平和の木の実、みたいなものがあって、それを食べればみんな平和になりますとか」

「隊長、あまりに平和すぎてボケちまったんじゃねえすか?そんなものがあれば俺たちはもう食わされてますよ。そうすれば、この町で暴れる奴が出てくる可能性もなくなりますもん」

「そんなのわかってるわよ。誰かさんが大きな欠伸をするから冗談でも言ってあげようと思ったのよ」

「ダンゴさん、もう眠いんすか?毎日たっぷり寝てるでしょ」

「ワシは欠伸などしとらん。だが、この山はおかしなところだらけだから、もう何があっても驚かん準備はできとる。もしもそんな不思議なもんがあるなら、それは喫茶店のあの地下なのかもしれんぞ」

「ああ、今朝のあれね」

 彼らの話に上がったのは、喫茶店にあるという地下室だった。

 それは今朝の話だった。相も変わらずに管楽器の音楽で目を醒まし、一同は喫茶店へと朝飯作りにいった。そろそろ厨房の中でも何がどこに置いてあるのかを把握し始めた頃、ユウタが身に覚えのない階段を発見したのだ。それが地下室に続く階段である。

 階段は随分と長く続いているらしく、ろうそくを使わなければ底の方がどうなっているかは確認できそうにもなかった。ネトエル山の洞窟のような深淵の暗闇がそこには広がっていた。ユウタはすぐに町長へ質問した。この階段の先には何があるのかと。

 町長は答えるのに一拍おいて、そこにはコーヒー豆や掃除用具が置いてあるのだと言った。ユウタは言われたままに納得して頷いていた。そんな二人の受け答えを見て、他の者たちも地下へと続く階段の存在に気が付いたようだった。町長は彼らの様子を察し、ろうそくを点けても地下室は暗くて危ないから、慣れていない人たちは決して近付かないようにとの忠告を述べていた。

「しかし、あんな階段があったなんて気が付きもしなかった。まあ、朝飯時はこのエデンでも一番慌ただしいから、ワシらもうっかりしていたのかもしれん」

「そうですね。僕も何だかひんやりすると思ってふと見たら、そこに長い階段があるんですからびっくりしましたよ。エデンの町があまりに平和すぎるから、僕らも注意力が散漫になっているのかもしれませんよ。気を引き締め直さなくちゃ」

「いや、ユウタ、それは違うな。あの地下室は普通の地下室じゃねえんだ。あの場所にこそ平和の秘訣は隠されているんだぜ!」

 そう意気込んで口をはさんだのはショウだった。誰もが彼の突拍子もない台詞に呆れた顔をしている。

「いいか、あの地下室には巨大な機械があるんだ。それは民族平和装置といってな、その機械を町に置いている民族は、機械の出す謎の力で誰しも平和志向になっちまうんだ」

「ショウ、あなたそれ、前に読んでた昔の小説に出てきたやつでしょ。私も同じものを読んだからわかるわよ」

「や、違うんです隊長、じゃなくてカズハ。あの小説に出てきたのは人民平和矯正装置だ。ここのはもっと穏やかなやつなんですよ。強制的に平和へ持ってくんじゃなく、何となく平和な気分になるだけで」

「同じようなもんじゃない」

 カズハは下らない減らず口をぴしゃりと払いのけた。「カズハには男のロマンがわからねえんだ……」とショウは火の消えたろうそくのように沈んだ顔になる。本当に地下室には謎があるのかもしれないと思いかけたユウタは、少し騙された気分でショウを横目で見ていた。

 そんな時、倉庫の入り口からは全速力で走っているような荒い息遣いが聴こえてきた。みんながのんびりとしているエデンの町ではほとんどあり得ないことだ。サンダユウは誰よりも早く耳をそばだて、一同は一人残らず入口へと視線を集めていた。エドワードはこっそりとカズハの盾になれるような位置まで移動していた。

「ああ!みんなあ、ちょっと聞いてくれえ」

 そう叫びながら飛び込んできたのはヒロキだった。この数日は一滴の酒も飲んでいないはずだが、まるで泥酔状態のように顔を真っ赤にして息を切らせていた。

「どうしたのヒロキ。何かあった?」

「や、隊長。あ、カズハ。聞いてくだせえよ」

 彼が息も整わない内に話し始めたことによると、彼は水汲みの仕事から帰る最中だったようだ。エイ国での歓迎パーティー以降は酒を取り上げられてしまっていた彼は、お昼の喫茶店でコーヒーを何杯も飲むのが習慣になっているらしい。そして午後にあった三件の水運びの途中で、我慢できないような尿意に襲われたそうだ。寝床とする倉庫まで戻れば、その横に設置されているトイレ小屋で用を足せるのだが、彼は仕事からの帰り道でもうどうしても我慢が出来なくなってしまった。そこで、漏らすよりかはまだいいだろうと、立ち小便という形でことを済まそうとしたのである。

「なんだ、それを見つかって叱られでもしたのか。まったく、お前はいつも言ってるけどな、もうちっと人前では畏まらんといけん」

「いやあの、それは確かに俺が悪いんだが、違うんだ副隊長。俺が小便をしてる最中に人に見られたのは事実なんだが、もう、何と言うか、人を殺したかのようにみんなが怖がるんだよ。まずは俺と同い年ぐらいの婦人に声を掛けられた。そこのあなた、一体それは何をしているのですかって、刃物を持った奴に近付くみたいにびびってたんですよ。これはとんだ失礼をしましたってすぐに謝って、残りを出しきって婦人の方を向いたんですが、もう視界に映る人間全員が俺の事を信じられないような顔で見ていたんです。子どもも大人も関係なく、みんなが恐怖に怯えたような目付きをしてたんですよ。ありゃあ尋常じゃねえ。婦人の方も、どうしてそんなことをするのとか、トイレがあるのに道を汚してしまうのはどうしてとか、俺が立ち小便をした理由が少しも思い付かないって感じで質問攻めなんです。もう俺の方も逆に怖くなってきちまって、本当にすいませんでしたって大声で叫んで、とにかくここまで走ってきたって訳なんですよ」

 ヒロキは補足説明として、彼が見た町の人々の姿を思い出す限り述べた。それによると、顔を伏せて必死に見ないようにする人、子どもを連れて走って逃げだす母親、中には恐怖に怯えたのか涙を流す者もいたという。ヒロキの心からの慌てぶりと、彼が見たという町の人々の様子を聞くと、話を聞いていた者たちもちょっと冗談では終わらないような気配を感じ取った。立ち小便で人を泣かしたというのは、エデンを知らなければ冗談にしか聞こえない話だ。

 カズハは町長の話していた「悪の基準の統一」という話を思い出していた。町長が言うには、エデンの町の人々は悪の基準を統一して考えているらしい。そして物事を必要なものと害悪なものに分け、必要な物だけを手にして生きていくという。それは裏を返せば、害悪なものはその一切を断ち切るということだが、怒りもせずに罰を与えようともしない彼らは害悪なものをどうやって遠ざけるというのだろう。第三者が害悪なものをもって攻撃してきた場合、ただその恐怖に怯え苦しむしかないのであれば、それはあまりにも人間として脆すぎるのではないか。

 ヒロキはさっきまでの出来事を思い出すと、辛そうにうずくまって汗をかいていた。話に聞いた町の人々と同じくらいに恐怖を感じているのではないだろうか。隊員たちは水を持ってきてやって、カズハは意見を求めるようにエドワードの方を見た。

「こんなことだが、この町においては緊急事態と言わざるを得ないのかもしれない。何せこの町の人々は、自分たちが考えてもわからないことは発生しないと思っているようだ。カズハ、少し外の様子を見にいかないか。町長とも話をしたい。喫茶店まで歩いて、道行く人々がいたら声を掛けてみよう」

「ええ、わかったわ、エドワード。みんな、これ以上に下手な混乱を招いてもいけないから、外に出るのは私とエドワードだけにして。特にヒロキは絶対に外に出ちゃ駄目。もう寝なさい。いいわね?」

「了解」

 カザーニィの戦闘部隊は数日振りに、隊長からの命を受けて低い声の返事をした。よもや、この平和の町の中で気を張り詰めなければならない事態が起きようとは、誰一人として想定していなかったであろう。その原因がこんなにも下らないことで、そして人々がこれ程に脆弱であろうとは。カズハの中で旅の風向きが変化するのを感じる。

 外に出てみると曇り空が広がっているのが目に付いた。ヒロキの一件がなければ、明日の仕事はどうなるのかしらと思う程度のはずだ。しかし今は不穏に思えてならない。雨雲なんかに心を揺さぶられそうになっている自分が情けない。カズハは不自然なくらいに気分が落ち込むのを自覚した。思わず立ちすくみそうになる。すると、少し緊張した顔付きをしながらも、エドワードが手を握ってくれた。その目は隣に立つ女の子の心の機微を捉えている。彼の大きな左手の温もりは、ダンゴたちとは別の場所から彼女を支えてくれる。

 二人は手を繋いだまま喫茶店まで歩いた。空は灰色に薄暗くなっており、仕事を終えた町人たちは家に籠って眠りの支度に入っている。夜が近付く街に明かりが灯されることもなく、人々の姿が見られないというのは、不気味だと思わなかったと言えば大きな嘘になるだろう。

 とはいえ、人の姿は皆無ではなかった。エドワードは、市場から果物を取って家に帰る途中の女性を見つけた。二人は、ヒロキの件について何か知らないかと声を掛けた。

「ええ、そのお方に声を掛けたのは私です。私たちも怖かったですが、彼にも怖い想いをさせたのなら謝りにいきましょう」

 女性はエデンの町人らしい微笑みで二人に応じた。ヒロキと会ってから二十分も経っていないはずだが、話に聞いていたよりは随分と落ち着いているように思える。カズハはその感想を隠さずにはいられなかった。女性はいつもと変わることのない声色で答えてくれた。

「そうですね、私が怖い想いをして、街中で取り乱してしまったというのは事実です。同時に目撃していた他の方々も、あのように怯えている姿は初めて見ました。しかし、カザーニィの男性は私たちに謝ってくれていました。その後に私たちがいつまでも怯え続けていても意味がありません。必要な謝罪を受け取ったのなら、それ以上はもう望まず、あとは普段通りの生活を送るだけです」

 理に適っていて、賢くて、しかし希薄だというのがカズハの脳裏に浮かんだ言葉だった。それが良いとか悪いとか思うのでなく、単純に茫漠ぼうばくとした寂しさが心の内側に生まれてきてしまうのだ。女性はそろそろ寝支度をするからと言って帰っていった。街には人の姿がなくなってしまった。感傷に心を持っていかれてしまう前に、カズハはエドワードの手を引いて喫茶店まで向かった。

 しかし、喫茶店には町長に姿はなかった。店内にはネズだけがいて、尋ねてみても町長の居場所は知らないと言う。

「どこに行ったかは知らないし、お姉さんたちの話がどれだけ重要なものかはわからないけど、マスターに話がしたいなら次の機会まで待つしかないね」

「じゃあ、明日の朝食の時に話がしたいって伝えておいて」

「お姉さん、僕は次の機会と言ったんだ。それは明日の朝とは限らない。二秒後かもしれないし、三年後かもしれない。明日の朝、マスターに会えたからといって話が出来るとは限らないんだからね」

「え?」

 ネズの言葉選びは非常に思わせぶりだった。このエデンの町民で、こんなに不明瞭な台詞を口にする人間は見たことがない。カズハは心に巣食う不安を払拭する為に、子どもがよくやる独特な言葉遣いに過ぎないのだと思い込むことにした。そうしないと今は落ち着いていられない気分だった。

 残念なことに、ネズのおかしな台詞は現実のものとなって翌日のカズハを待ち受けているのだった。マスターと会うことが出来たとしても、それが話をする機会と等しいとは限らない。

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