17話 門前
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ついに、エデンへと辿り着いたのだ。
洞窟を抜けた先には開けた安全な土地が用意されていて、そこはまるで山の頂のような場所で、ここがネトエル山の山頂だと言われても異論はない。ショウが怖いもの見たさで崖際から下を覗いたが、坂道の始まりとなる地点は遠くかすんで見えなかった。これ程の高さを自分たちはどうやって登ったのか、それも一時間と経過せずに。道中が奇々怪々かつ摩訶不思議すぎて、何が起こったのかと説明できる者は誰もいなかった。
「あの門の先がエデンの町なのか。誰か立っているぞ」
「あれは門番だ。や、武器のような物を持っていないか。平和の町じゃないのか」
夢物語だった目的地が目の前に現れて、みんな口々に思ったことを喋った。本当なら
「どう、エドワード」
「私の意見は同じままだ。あそこがエデンだろうか違っていようが、この山に人が住んでいるのなら接触するべきだ。何よりこちらには野宿をする余力もない」
「その一言一句に同意だわ」
カズハはそう言いきって、自らの荷物を背負い直すと仲間たちを振り返った。休憩はこの場ではなく町の中で行うと言いたいのだ。その意を汲んで男たちの目は輝きを取り戻し、一度は休めかけた体に鞭打って立ち上がった。彼らが目指すべきは慢心に満ちた兎ではなく、のろまだが頑張る亀でもなく、決して歩みを止めない脱兎だ。
カズハとエドワードが並んで先頭を歩き、門までの一本道を進んでいった。門の傍には二人の男がいた。どちらとも不自然な髪型をしている。近付いてようやくわかったが、二人が持っていたのは木製の槍だった。しかも先端は丸みを帯びてしまっている。その物体に戦闘力はほとんどない。せいぜい相手の頭を殴ってたんこぶを作るくらいなものだ。何かの冗談のつもりなのか、やけにのんびりした者たちだ。
「おや、どなたでしょう。やや、もしや旅をしてこられたのですか?」
お互いの顔が見える距離まで近付くと、門番の男の一人が尋ねてきた。木製とはいえ、槍を持っているというのに構える素振りも見せない。もう一方の男に関しては槍を持つのを忘れたまま歩み寄ってきた。そして二人とも白いレースのような美しい着物を身に付けている。エデンから来た男が着ていたものと同じ服装だ。決定打を得たカズハは、もう何も臆さずに単刀直入に話をすることにした。
「あの、もしかしてここはエデンという名の町ではないでしょうか」
「ええ、その通りですよ。あなた達は?」
一同は思わず息をのんだ。本当に平和の町・エデンへと辿り着くことが出来たのだ。
「ああ、申し遅れました。私たちはこのネトエル山の東の国、カザーニィという場所から来た者です。私はカズハと申します。こちらは山の南の麓のエイ国で兵士長を務めるエドワード、そして彼らは甲冑の国の方たちです。他の者たちはカザーニィの戦闘部隊の隊員たちになります」
「おお、これはこれは、山を登ってこられたのですね。カズハさんにエドワードさんにその他の方々、ようこそいらっしゃいました。長旅ご苦労様です」
槍を持った方の男は腰から深々と頭を下げた。隣の男も同じような動作をする。この山の過酷さとのギャップが大きすぎて、逆に不安な感情すら湧いてくる程に穏やかだ。エドワードは兵士長としての警戒心が隠し切れない程に高まり、カズハの前に身を乗り出すようにして話し始めた。
「私たちは二つの目的があってここまで旅をしてきました。一つは、この町から下りてきたという男性が、何者かに襲われてカザーニィにて命を落としてしまったのです。彼は最期に妹さんへの遺言をカズハたちに託しました。それを伝える為に来たのです。もう一つはその男性がここを平和の町だと言ったことによります。聞けばこの町は争いとは無縁だという。私たちはその平和の秘訣を知りたい」
エドワードの堂々とした口振りと、その鋭い眼光に門番の二人は少し恐ろしそうな表情を見せた。と同時に町の仲間の訃報を聞いたことで、厳粛な様子で顔を見合わせた。
「お兄さんがというと、エレナさんだろうか……。これはまたお気の毒なことに」
「すぐに伝えてあげなければな。では、そういうことでしたら皆さん、どうぞ町の中へお入りください。もしも武器をお持ちなようでしたらそこら辺に捨てていってくださいな。この崖の方から落とせば誰かが拾って怪我をする事もないですよ」
門番の男はごく当たり前のようにそう言って崖を指差した。あまりにも抑揚を付けずに自然と喋ったので、カズハたちは聞き逃したかのように身動きが取れなかった。
「あの、今、何と仰いました?ええと、私たちが武器を捨てるのですか?この崖の下に?」
「ええ、そうですよ。武器なんて持ってたら危ないじゃないですか。子どもが誤って怪我をしてしまう恐れもありますし。別に崖から落とさなくてもその辺に置いといてもらえたら構いませんよ。帰り道に必要だというならそうした方がいいかもしれませんが、そんな物騒な物は持たない方が身の為です。この町には武器などございませんから、ほら見てください。この槍だっておもちゃです。門番はあまりに暇なので私たちで作ったのです。書物に記されていたものを再現しました。どうですか出来の方は」
門番の男は世間話をしているつもりで槍をカズハに見せてきた。一方の旅人たちはどうすれば良いのかわからずに棒立ちになっている。カズハは何とか平静を装いながら、仲間たちとの話し合いの時間をもらった。
「どういうつもりかしら。本当に争いがない平和の町だというのなら、確かに武器なんてお断りかもしれないけど」
「罠、ですかね。ここまで来て今さらかもしれませんが、国に入った途端に捕まることだってあり得る」
「そんなの、本当に今さらですよ。僕たちは平和の秘訣を知りに来たんでしょう?だったらここが平和の町だと考えて行動するしかないじゃありませんか」
「二手に分かれたらどうだ。最初の組が入っていって、一通り町を見て回ってからもう一組が入るとか」
「それはあまりにも失礼じゃないかしら。ユウタの言う通り、もう腹をくくるしかないわ。もしもの時でも、私たちなら武器に頼らずに戦えるわよ。それこそ何があるかわからないから、言われた通りに武器は捨てていく。帰りにまた作らせてもらいましょう。平和の秘訣を知ったら、私たちも武器を持てなくなったりしてね」
カザーニィの戦闘部隊はカズハの言葉で一致して、別れを惜しみながらも、長年使った短剣や弓を崖から落としていった。甲冑の二人は嫌がるような素振りを見せたが、早く町の中に入って休みたいとでも思ったのか、比較的すぐに決断を受け入れて太刀を崖から放り投げた。残るはエドワード一人だった。
「どうかしら、エドワード。ここは言うことを受け入れるべきだと思うの。その剣をここに置いていってくれない?」
カズハはほとんど形式的に、断られることはないお願いをする気持ちでそう言った。いつも通り二つ返事で済む、上役への義務的な確認といった感覚だった。
しかし、その会話には不適当な長さの沈黙が生まれた。エドワードを見ると曇った表情をしている。カズハは思わず眉を寄せ、もう一度声をかけようと口を開きかけた。
「……すまない、カズハ。それだけは出来ない」
そう呟くように言って、エドワードは初めて見せるような後ろめたい顔を作り、カズハの意見に逆らうように目を伏せた。あれ程に頼りがいがあって賢い彼が、まさか断るとは誰も思いもしなかった。
「……あ、ええと、どうしたのエドワード。なぜ?武器を持ったままじゃエデンの中に入れてもらえないわ」
「すまない、本当に申し訳ない。この剣は、私がエイ国の兵士長であることの証であり、一度でも兵士になった男の誇りなのだ。私が兵士長として国を護る間は、命尽きるまで手放してはならない。それにこの身は君を守る為に捧げるとも誓った。武器も持たずに君の横にいても、きっと私は君のことを守り切れない」
「でも、今から私たちが入る町は争いのない場所なのよ。そりゃあ、人間が平和でも命の危険に曝されることはいっぱいあるでしょうけど、そんな時には武器なんて役に立たないわ。あなたの剣に対する想いを軽んじている訳ではないけど、ここから先は武器を持って進む場所じゃない。私たちは平和の為に旅をしてきたわ。ここで武器を置けるようじゃなければ、どのみち平和なんて無理難題な話よ」
「だから、すまないと言っているだろう!道具として必要かどうかなんてことを言ってるんじゃない、この剣は私そのものなんだ。こんな所に置いていくなんて、そんなことが出来る訳ないじゃないか!」
エドワードはまるで別人かのように口調を乱し、珍しく声を荒げた。普段の毅然とした紳士らしい態度はどこにもない。その様子だけでも、彼がどれほど追い詰められているのかがよくわかる。
「私は生まれ育ちをずっと兵士としてやってきたのだ。今ここで剣を捨てたら、私は私ではなくなってしまう。私は兵士として生き、兵士は剣と共に生きるのだ。なにも、この剣を使って誰かを脅かそうとしている訳でもないのに、わざわざ捨てていくことなどないだろう?……そうだ、私はエイ国兵士長だ。私が今ここで武器を捨ててしまえば、我が祖国は私を受け入れてはくれないだろうな。剣を捨てた兵士長になど価値はないのだから!」
彼は今まで以上に必死だった。自分に忠義を尽くして生きてきた結果、同じくらいに大事な二つのものを天秤にかけても、その重きを測りかねているのだろう。彼自身も辛いことだし、一生懸命に物事に向かい合っているのは間違いない。しかし、そうすればより良い選択を出来るかと言えば、必ずしもそうではないというところが苦しいのだ。
想定外の展開に、カズハは正直なところ困っていた。彼女も幾つかの戦場に赴いてきたからこそわかるのだが、男たちの武器にかける想いは特に強い。カザーニィの隊員たちがここまで軽やかに武器を捨てられたのは、彼らにとってより大事だと思うものがあるからだろう。もしも最も大事なものが兵士としての剣であった場合、彼女にエドワードを動かすことは不可能なようにも思えた。
カズハは旅を諦める選択肢を持ち合わせていない。相手よりも強い意志で臨むのであれば、心は揺さぶれるように出来ているというのが、カズハの人生経験上で得た哲学の一つだ。しかし、今のエドワードよりも強い意志を示すには、何をどうすればいいのだろう?兵士長を担う者として、彼の意志はかつてない程に強く、重い。
カズハが唇を噛み締め、一筋の汗と共に思索を続ける間、人々の間に流れる空気は静かで不穏だった。
カザーニィの隊員たちもこの展開をどうにかしようと口を開きかけてはいるが、カズハが説得できない程の相手に何を言えば良いというのか、わからないでいる。甲冑の二人はむしろ、武器を捨てなくても何とかなりそうだぞ、ちぇっ、俺たちももう少し慎重な態度を取れば良かったなぁ、とでも思っているらしい。彼らの国は慢性的に貧しく、国から支給された物資が一度でも自らの手を離れてしまったなら、それはもう二度と手元には戻ってこないと考えるのが当たり前になっている。
誰も動かず、沈黙が北風のように吹き曝していっても、カズハは口を開けず、エドワードもただ、握りしめた剣の柄を離せない。彼はカズハや旅の仲間たちの姿を見ていた。最悪の場合、ここでみんなと決別してしまわなければならないのかと危惧し、息を浅くして覚悟を決める準備をする。
エドワードがカズハを見て、他の仲間たちに目をやり、次に目線を移した先には、平和の町の門番の二人がいた。二人はよく見なければわからない程度に、無知的な恐怖の表情を浮かべていた。何をどうしたらいいのかわからない子どもの上目遣いのような視線は、この場でエドワードだけが持つ本物の武器——鋭利さと重厚感、死の気配がする剣——に注がれている。
その視線と表情に気付いた時、エドワードは自らの身体の一部のように大事にしてきたものが、敵でも何でもない他人を怯えさせてしまうものであることを知った。容易に人を傷つけ得る道具であることなんて、最初に剣を手に取る際に口うるさく教え込まれたことだが、随分と長いこと国を守る為にしか扱ってこなかったせいで、彼自身も気付かない内に剣を美化しすぎて忘れてしまっていたのかもしれない。
自分が武器を手放さないことは、平和の町の住人たちにとっての恐怖に繋がる。しかしこの剣には、エイ国の人々の希望と誇りと、エドワードの人生の一部が詰まっている。ここで剣を捨てられない自分は、平和の秘訣の為にはそぐわない人間なのだろうか?エイ国の王や国民たちが頼りとしてくれた、兵士長としての自分は、この剣と一緒にここで捨て去るべきなのだろうか。しかし、そんなこと……。
エドワードは視線を自らの剣に向けて、そこで動かなくなった。その目の映るものには、およそ兵士長には似つかわしくない、年相応の迷いと不安と恐怖があった。カズハはその感情たちを決して見逃さない。どのように声をかけようと考えるよりも前に、彼女の身体は動いてエドワードの手を握った。彼の手が剣の柄を握る上から、優しく包み、その温度を分け与えるように。
「ねえ、エド。あなたはずっとそうなのだわ。強すぎる責任感で何もかもを背負おうとしてしまって、恐怖と不安も一緒に抱え込んでしまう。初めて会った時にも感じた。あなたは強くあろうと考えすぎなのよ」
カズハはエドワードの目を、深くまっすぐ、そして奥の奥の方まで覗いた。とても力強い視線だ。エドワードは思わず見つめ返してしまうことになる。カズハの目の光にはそれだけの力がある。
「ずっと昔から兵士として育って、こんな早くに兵士長を務めるからこそ、あなたはどこまでも強くなろうとしてしまう。でもそれは、一人の人間が背負える重さじゃない。わかるの、私だって似たようなものだもの。そのうえ女だからって気を遣われ続けてきたから、あなたと違って他人への警戒心だけは薄くなっていったわ。みんな優しいもの。そして大らかで、人は困る時は困るように出来てるのだからって、考え過ぎや悩み過ぎるのが問題だってことはすぐに教えてくれた。あなたは充分にいろんなものを背負って、考えて、悩んできた。この剣と一緒に、いろんなものを抱え込んできた」
するとカズハは、エドワードの剣を彼の腰の鞘から静かに引き抜いた。切先を地面に向けて、両手を使いへその辺りで構える。そうしていると、エイ国の文化が反映された剣は、まるで美しい調度品かのような輝きを放っている。
「ねえ、エドワード。平和の秘訣って何かしら」
カズハは無邪気な目で問いかけた。エドワードは力無く、すぐに目を伏せた。
「……私にはわからない。その答えを知る為に、ここまで旅をしてきている」
「そうね。その通りよ」
そう言うとカズハは、道のすぐ横の草地へ、エドワードの剣を勢いよく突き刺した。これまでに多くの難局を切り抜けてきた剣は、垂直に深々と地面へ突き刺さった。
「あなたの言う兵士としての誇りって、この剣で誰かを斬り付けることを言うの?いいえ、そんなことじゃないはずよ。エイ国の兵士長に与えられた、この剣の存在そのものが大事なの。この先の町では剣を鞘から抜くことはない。それなのに剣を持ち歩いて、エデンの人々に恐怖感を与えてしまうのなら、それこそ名誉や誇りが汚されてしまうだけよ。私たちは武器がなくても自分たちを守れるだけの強さを持っている。そして、あなたも武器を取らずに平和の秘訣を探す。この剣は
カズハはカザーニィの〝戦乙女〟としてではなく、一人の温かき少女として、エドワードに優しく近付いた。エドワードはカズハの青い瞳と、地面に突き刺さった剣を見つめ、そしてゆっくりと屈むように目を伏せた。少女の言葉は今まさに、若き青年へと浸透している最中だ。
雲が流れ、鳥が鳴き、青年の為の沈黙が生まれた。先程の静けさとは違って、まるで春のそよ風に耳を澄ます為かのような静寂だ。カズハは音を立てないようにそっとエドワードの腰から鞘を取り、地面に突き刺した剣の前に置いた。エイ国の公園広場にある彫像のような、晴々しく画になる風景が生まれた。
「カズハ」
「ん?」
「……ありがとう」
その言葉を聞いたカズハは満足したように頷いて、エドワードに平和的な抱擁をした。青年は咄嗟に顔を赤らめながらも、母親のような少女の温もりに応じた。カザーニィの面々は感慨深そうに笑っている。特にダンゴは両目に涙を浮かべていた。一連の様子を眺めていたエデンの門番たちは、そろそろいいかと二人に話し掛けようとしたが、カザーニィのおじさん達によって引き留められた。そしてそれからちょっとの間、旅の疲れを忘れるように人々は余韻に浸っていた。
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