16話 魔界——不可侵領域②

 確かな感触で地面を踏みしめながら歩いていても、カズハはこの現状がどうしても信じられなかった。崖路を登り始めて一分と経たない内に周囲を深い霧に囲まれてしまい、自分の足元以外は真っ白な世界が広がっていた。それに、この明るさはまるで昼間である。さっきまでは陽が落ちて困っていたのに、今では霧の向こう側に青空が広がっているとしか思えない。松明をあちらこちらにかざして視界を広げようとするが、その間に霧が松明の灯りを消してしまった。手持ちの駒を奪われていくような感覚に眉を歪め、負けてなるものかと背後へ声を掛ける。「総員、点呼始め!いち!」

 カズハ自身を一人目として数え、後ろの声は十六まで続いた。最後は聴きなれたダンゴの渋い声がして、ひとまず誰も欠けていないことが確認できた。

「エドワード、いる?」

「ああ、私はここにいる」

「これは一体何なの?四大国ではこんな意味不明な現象が起きたりするものなの?」

「いや、こんなことは初めてだ。ここは四大国とは全く別物の土地だ。ネトエル山独自の世界が広がっている。この道がエデンに続いているのなら、その町は最も謎に満ちているのだろうな」

 彼の言葉はカズハにとって物事の確認でしかなく、何か新しい見識を生み出す力にはならなかった。しかしこの状況では、誰かの声が聴けるだけでも安らぎを感じられる。カズハにとってその声がエドワードのものであることは、最も望んだものが手に入ることと同じようだった。不安に押し潰されそうで逃げ道を求めている自分に彼女は気付き、私はカザーニィの〝戦乙女〟だと、何度もその心に言い聞かせた。

「たいちょおー!後ろから足音が近付いてきています!」

「え⁉」

 気持ちを切り替えようとしたのも束の間、最後尾からはダンゴの不穏な報告が届いた。こんな状況では何が起きているのか想像するのも難しいが、楽天的な観測を許されるならエデンの人間であってほしいと願う。数歩だけ進んで続きの報告を待つが何も起こる気配はない。カズハは止むを得ず列を停止させて、一人分通るのがやっとな坂道を縫うようにしてダンゴの元まで下った。鼻が当たりそうなくらいに近付かないと互いの顔が見えない。

「ダンゴ、どうしたの」

「後ろですぜ。今は動きを止めていやがる。ワシらの動きに合わせて距離は詰めてこないようですが、さっきから数が増えてるようだ。気味が悪い」

「……そこ、誰かいるの」

 カズハは短剣を構えて声を出した。白い霧は漂うばかりで何も答えない。人が、それも大勢がいるような気配は感じ取れなかった。すると突然、代わりに返事をするかのような烏のがなり声が辺りに響いた。姿形は一握りも確認できないが、もしも本当に烏の鳴き声だとするのならば、声の大きさからして巨大な姿が想像できる。しばらくカズハは様子を窺ったが、そのままじっとしていても仕方がないので先頭に戻って崖登りを再開した。

 崖の下で見上げた高さを登りきるには、まだまだ時間が必要だと思われた。激しい運動で身体が熱を持っても、まとわりつく霧は衣服ごと人々を湿らせてゆく。もう誰も暑いのか寒いのかもよくわからない。足の感覚は触覚だけを残してみんないなくなった。痛いだとか疲れただとか思う元気もない。ただ足を棒にして進み続ける彼らは、ひたすら終わりが存在することだけを望んでいた。

 そして、それは前触れもなく訪れた。先頭を行くカズハが合図もなしに足を止め、後ろを歩く者たちはあちこち身体をぶつけ合った。カズハは謝りながらも一同に前を見るように言った。そこには、どれだけ白い霧でも及ばない程の暗闇を持った洞窟が口を開いており、カズハたちはいつの間にか崖路ではなく平坦な場所に立っていた。珍しくユウタが怯えたような声を上げる。

「この先にエデンがあるんですか……?もう、前も後ろもわかりませんよ」

「だったら信じる方に進むのよ。誰か、濡れていない松明はある?」

 経験豊富なフミオは雨に備えて何重もの布に包んでいた松明を差し出し、先頭のカズハだけが明かりを持つことになった。後続は前の人間の肩に両手を当ててムカデのように進んでいく。

 洞窟内はどれだけ松明が燃えようともその全容を曝しはしない。連なった形を崩さないように注意しながら歩を進めるが、彼らの意思を屈服させようとするかのように、コウモリや水滴がちょっかいを出す。ダンゴが耳にした足音がいつの間にか復活しており、人々の進みを焦らせているかのようだ。

 光を頼りに生き続けていると、暗闇に投げ出された時には圧倒的に無力でしかない。仲間の気配や衣擦れの音でさえ何かしらの脅威と勘違いする。仲間の肩を握る手には自然と力が入り、背後の仲間も同じことなので肩に加わる痛みが増していく。湿った風に熱風、氷のような壁の感触に、砂漠のような足場の感覚。激しい耳鳴りが定期的に起こるし、不意に誘われるような眠気が訪れる。洞窟の中を支配しているのは暗闇だけではない。それ以上に強力なカオスがある。

 時間が経過し洞窟を奥に進むにつれ、漠然とした命の危険も迫ってくるようになった。大型の肉食獣のような唸り声が耳に届き、隊員の一人は謎の触手に髭を引っこ抜かれた。足元が見えないのでそこら中の岩に足腰をぶつける。背後に続く謎の足音は五人や十人のものではない。ゲンタでなくとも、誰もが弱音を叫びたくなった。しかし、夜というものは明けることが出来る。道ゆく先に希望を信じる限り。

「出口よ!」

 彼らの進行方向に小さな危うい光が見えた。カズハの持つ松明よりは覚束ない光だが、この場の何よりも希望を含んだ光だった。一同が抑えきれずに歓声を上げると、洞窟内には雷が落ちたような謎の音が響き渡った。各々が叱られた子どものように驚いていると、瞬きをするくらいの静寂を空けて、ダンゴの後ろの足音は襲ってくるかのように走り出した。二十人も三十人もいるような雪崩みたいな足音が、一つ一つ殺意を込めて近付いてくる。「走れ!」とカズハが指示を出すまでもなく、誰もが我先にと光の方へ駆け出していた。足音は一片の容赦もなく追いかけてくる。一目散に先頭に躍り出たゲンタは叫んだ。

「うわああああああああ!」

 そして光の中に身を投じたゲンタは、洞窟内との明暗の差に目が眩み、すぐに足がもつれて派手に転んだ。フミオだけが呆れたように抱き起してくれたが、ゲンタの身軽さと受け身の技術を知っていれば心配する程のことでもない。エドワードやユウタらも闇を抜け、十六人の旅人たちは、やっとのことで明るい場所へと抜け出した。彼らを追いかけてきた足音は、始めから存在しなかったようにどこへ行ったか聴こえない。一行は次々に寝転がったり汗を拭ったりして、やっとの思いで休憩を手にした。正体不明の命の危険から脱した気分は、そう清々しいようなものとも言えはしなかった。

「みんな!」

 息を切らし膝に手を付きながらも、この部隊のリーダーであるカズハは眼前の一点を見つめて叫んだ。その視線の先には緩やかな傾斜を持った一本道が伸びていた。そして、その行きつくところには大きな木の門と、傍らに控える二人の門番の姿があった。

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