15話 魔界——不可侵領域①

 それから四時間が経った。歓喜の時間はそう長く続かない。計画上ではとっくに山頂に辿り着いているはずが、現時点ではようやく半分を過ぎた程度のようだ。旅に困難と遅延が付きものなら、山登りだって同じようなものである。

 しかしカズハは現状が不可解で仕方なかった。陽が落ちる速度が速すぎるのだ。昨日ならこれから陽が傾き始めるという時間には、今日はもう西日色を漂わせているのである。まるで季節が反転したかのようだ。気温も下がってきている。標高が高くなったので当然とも言えるが、そのレベルでは説明できないような急激な変化だった。カザーニィの者たちはマントを深くまとい、エドワードや甲冑の二人にも防寒着が渡された。

「どうするカズハ。今日はこの辺りで野営の準備か」

 カズハたちの物と同じマントが渡されたエドワードはそれを羽織りながら尋ねた。彼は銀色に光る簡易式の軽い鎧だけを身に付けていた。防御力はあっても、やはり甲冑と同様に山登りには向かない。それでも疲れはカズハとさして変わらない様子だ。

「そうね……。予想以上に暗くなるのが早いわ。この山は何かがおかしい。さすが不可侵領域と言いたいところだけど、今の内に野営場所を探さなくちゃ駄目ね。はい、総員注目」

 カズハの合図で一同が歩みを止めると、部隊は野営準備に取り掛かることになった。現在地点に荷物をひとまとめにし、二人がそこに残る。他は近場で焚き木用の枝を探したり、よりよい野営スペースを探す。なるべく自らの足跡を残して元の場所に戻れるようにしながら、お互いの声を頼りに行動する。

 トシとフミオがその場に残ることになり、二人一組で行動が開始された。太陽の光が届きにくい森の中はみるみる内に明るさを失い始めた。このままでは半刻とせずに闇が訪れる。夜の暗闇は熊以上の恐ろしさを運んでくるだろう。

 数分かかって、ここなら野営も出来そうだという場所をダンゴが見つけた時、荷物を置いていた場所から集合の笛の音が鳴った。その音はかなり遠くまで響き渡る為、本当に緊急の場合でしか鳴らさない手筈の笛が鳴ったのだ。ダンゴは足早に元の地点に移動し、カズハやエドワードたちもすぐに合流した。そこでは、焚き木用の木の枝を探していたはずの甲冑の二人が騒いでいた。

「きっとあれだ。エデンに続く道を見つけたんだ。そうとしか考えられない」

 他にも、とてつもなく大きいとか、まるで生き物だとか言って、かなりの剣幕で慌てふためいている。その場にいた者たちはそれぞれ顔を見合わせ、とにかく二人の言う場所まで移動することにした。話が本当ならば、エデンは山頂には存在しないことになる。とはいえ、ここにきて二人がいたずらに状況を混乱させるようなことを言うとは思えない。やすやすと疑う訳にもいかず、一行が木々の隙間を縫うように進んでいると、森が途切れた広間に出た。

「ほらあ、これだこれ。見てくれよここ」

 そこには巨大な壁のような崖と、まるで人間が通行用に作ったかのような坂道があった。崖は雄々しくそびえ立っており、上の方がどうなっているのかは確認できない。高さもあれば、横幅も広く終わりが見えない。坂道は崖に沿うようにぐるりと伸びており、その先は隠れて見えなかった。

「なんだこれは。こんな崖、どこからも見えなかったぞ。もう何が起きているんだか、訳がわからん」

 大きな口を開いたままでフミオは崖を見上げた。まるで世界がせり上がってしまったかのような巨大さだ。その隣で呆気に取られた様子でキヘイが口を開く。

「本当だ、これはすごい。自然が生み出すにしては形が綺麗すぎる。それにしても高いが……もしかして、山頂よりもこの崖の上の方が高いのか?あそこまで登れば町があるというのなら、エデンの男の言ったことにも説明が付く」

「だったら、ここに来るまで見えなかったことには説明が付かないだろう?」

「それもそうなんだが……、今こうして目の前にある以上は、受け入れるしかないだろ。俺たちは気付かない内に山の反対側まで来てしまったのかもしれないし、ここを登れば山頂まで直接繋がってるのかもしれない」

「うむ……」

 様々に怪しい点は拭えないが、僅かながらエデンという町が具体的な輪郭を帯びて見え始めてきたようだ。甲冑の二人は手柄を立てたと言わんばかりに饒舌になり、ダンゴたちは適当な相槌を打つのに忙しそうだった。人々は改めて崖を見上げる。まるで覆い被さってくるかのような迫力があった。エドワードは誰よりも早く驚くのをやめて次の行動を考えていた。

「カズハ、この上にエデンがあるかどうかは別として、確実にこれは人間の痕跡だ。誰であろうがこの山に人が住んでいるのならば、我々は会いに行かねばならない。問題は今ここで登るかどうかだ。見ろ、空が奇妙な色をしている。雨が降るのか雪が降るのか、他の物が降ってきても不思議じゃない。まるで太陽にも月にも見放されたようだ」

 エドワードが指差す空を眺めると、夕焼けは終わったのに夜になるのを拒むというような不思議な色が広がっていた。子どもが絵に描くような宇宙の色が似ていると言えるかもしれない。急激な気温変化、突如見つかった人の痕跡、世界が終わるような色の空。ネトエル山の怪奇は加速度的にカズハたちを包み込もうとしている。

 背後では、風もないのに木々が騒めいていた。これまでには一度も聴こえなかった鳥類の鳴き声が響き、空には流れ星が幾つも見え始めた。カズハはとりあえず松明たいまつを用意するよう指示する。こんな空気の中で崖路を登っていくのは誰の目にも危険と映るが、見たこともない生き物がうろつく森の中で夜を明かすのが安全とも思えない。彼らは四大国も近付かない未知の山の腹の中にいるのだ。前も後ろも危険しか用意されていないことに気が付くと、ゲンタは人目を気にせず泣きたい気持ちになってきた。カズハは躊躇わずに決断をする。諦めるという選択肢だけはない。

「みんな、このまま崖を登っていくわよ。状況は明らかに未知の領域に達している。ここで夜を明かそうとしても安全の保障はないわ。それどころか私は危険だと感じている。慎重に崖の道を登っていくのなら、少なくとも大きな熊に食いちぎられることは避けられる。迷ってる暇はないわ。付いてきて」

 カズハは羽ばたくようにマントを翻すと、松明を一本手に取り崖の坂道を登り始めた。そのすぐ後にはエドワードが続き、サンダユウ、トシ、キヘイと次々に列を作り始めた。ゲンタはいつも通りに渋る姿勢を見せながらも続き、最後に残った甲冑の二人に、最後尾を行くダンゴは手を広げて促してみせた。二人はなかなか決心を固められないようなので、「お前たちが見つけたんだぞ」とダンゴは言う。ようやく全員が崖路を登り始めた。

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