急章 アダムとイヴへ
***
「ママっ、魚がいるよ!ほら、そこにも。あっちにもいる!」
「あら、随分と大きな群れね。どこから来たのかしら。アダムには、もう少し大きくなったら、魚の獲り方も教えてあげるわね」
「うん」
和葉とエドワードが旅を始めて、およそ十年が経過していた。
地球は十年くらいじゃほとんど何も変わらず、人類も滅んでしまうということはなかった。相も変わらず朝日は昇り、一日の終わりには夜が訪れる。月が通り過ぎ、生命の眠りの時間が流れて、再び太陽が昇る、その繰り返し。空も海も依然として深く青い。
和葉とエドワードは、旅を続けて東へ進んだ。歩き、物資を探し、身体を鍛え、狩りを行い、人々を探し、時には嵐に襲われ、巨大な熊に遭遇し、釣りをしてのんびりと過ごす日もあれば、一日で山一つを踏破しなければいけない日もあった。しかし、足を動かし続けている限りは必ず前に進む。旅立ちから約半年が経過した頃に、二人は小さな集落を見つけた。
核大戦とその後を生き延びた人々は、もちろん最初に和葉たちを警戒した。二人は狩りの道具を置き、それでも警戒が解けないのを見ると、持っていた荷物を全て置き去りにして近付いた。二人は運が良く、そこに住む人々は冷静に話し合いに応じてくれた。どんな暮らしをしているのかを尋ね、およそ善良な人々であることを知ると、和葉たちは共に住まわせてもらえないかと相談した。集落の人々は二つ返事という訳にはいかなかったが、年々人口が減り続けているその場所で、若い夫婦は貴重な存在だということもあって、二人はどうにか歓迎を受けることが出来た。
どんな集団でも多くの場合において言えることだが、すぐに二人が馴染めた訳ではない。和葉たちは積極的に自らの過去を話し、人間同士の争いで武器を取らないことを主張していた。多くの人々は二人の話を信じず、武器を取らなければ争いに負けるではないかと聞く耳を持たなかった。その集落の近辺では、生き残っていても特定のコミュニティに属さない、言うなれば賊のような人間もいた。平和な暮らしとはとても言えなかった。
また、集落には若い女性が一人もいなかったので、和葉が来たばかりの頃は少し大変だった。野郎どもは盛りの付いた獣のようになってしまい、和葉は何度か襲い掛かられる事態になった。しかし、彼女は日々の鍛錬を怠らず、〝戦乙女〟のようにとはいかずとも、充分に武力に長けた身のこなしを持っていた。その上にエドワードもいるので、文字通りに命を削って和葉を守る。そんな事件が起きる度に、集落の
やがて、一年、二年と月日が経てば、和葉とエドワードの狩りの実力や、その賢さを人々は認めるようになっていった。獲得した食料の食べ方にも工夫を凝らし、必要以上の命は貰わない。二人が住み始めた頃、集落の人々には張り詰めた負の感情の方が大きかったが、その様子も少しずつ穏やかになっていった。
この十年で集落が賊に襲われたことは何度もある。その度に和葉たちは最前線に立ち、仲間に武器を使わせないように、また敵にも血を流させないように、どうにか争いを収めようとしていた。当然の事ながら相手は武器を使う。二人は何度も傷付き、時には命の危険も負う場合があったが、それでも武器を取ることを否定し、話し合いが出来る相手とは共存の道を模索し続けていた。その真剣さに集落の人々が何も思わないはずもない。まずは集落の長から二人の肩を持つようになり、やがて人々の考え方も変化していく。武器を他人に向けるのはご法度だという意識が、だんだんと集落の中に広まっていった。
和葉たちはすっかり集落に馴染んだ。それは容易なことだとは言えず、年月としては三年ほどが必要だった。その間に息絶えていく者も少なくはなかった。それでも今では最も温厚な集落として、少しずつ仲間の数も増えていっている。人間はかなりしぶとく、孤独にも生き残っていた人々も多く迎え入れられていた。
集落に移住して八年目、和葉たちが(人工冬眠期間を除いて)二十五歳の時に、第一子・アダムを授かった。集落には和葉たちより若い人間がおらず、彼は新しい希望の子だった。その出来事に感銘を受けた者もいて、和葉よりひと世代上の夫婦は勇気を出し、彼らの間にも新しい命が宿った。翌年には無事に出産が終わり、外からではなく内側から集落の人口は増えていくのだった。
「和葉、アダム、そろそろ夕飯だよ。坊やは泥を落としておいで」
「はーい、パパ」
エドワードは貫録を誇示するような金色のお髭を蓄え、父親が板についた様子で妻と息子に声を掛けた。二歳になる少年は小さな身体でパパの元へ駆け出し、身重な和葉はゆっくりと立ち上がって夫の元へ向かった。十年が経った今、二人には二番目の子どもが生まれようとしている。
その日の夕食が終わり、幼きアダムは夢の世界に片足を突っ込んだ状態で食卓に座っていた。エドワードが我が子を愛しそうに見て溜息をつき、軽々と彼を抱えると親子三人が眠るベッドまで運び込んだ。
「このベッドも
そう言って彼は和葉のお腹に触れた。少なくとも妊娠してから半年は経っており、和葉のお腹は妊婦と一目でわかる大きさにある。母の胎盤の中で、新しい命が動き出す力を感じた。
「今、お腹を蹴ったわ。これからもっと大きくなるのよね。四人一緒のベッドで眠れるのは一瞬のこと。今のと同じくらいのがもう一つ必要かも」
「どうにか頑張ってみるとしよう。ところで、そろそろこの子の名前を考え始める時期にはなったと思うんだ。どうだい、君には何か意見がある?」
エドワードに少し支えられながら和葉は立ち上がり、部屋の中で温かく映える暖炉の前のソファまで移動した。この一帯は昼夜の寒暖差が激しい。一年のほとんどは暖炉が仕事をしてくれる。和葉は恵みの炎に両手をかざした。
「そうね。でもやっぱり、次の子はイヴで決まりじゃないかしら。男の子でも女の子でも違和感がない名前だし」
「そうだな。君の名前のように、『漢字』というものを使うのもありだとは思ったが、兄がアダムならその下はイヴしかないだろう。名前は付いていることに意味があるのだから」
エドワードは和葉の隣に腰掛けて、彼女の肩に手を回した。二人の子どもが成長するに連れ、夫婦の憩いの時間というものは少なくなっていく。恋人から親になっていく過程で、二人の愛だけは変わらないでいてほしい。
「ねえ、もうじき十年が経ったことになるけど、エデンの人々はどうしてるかしら。無事に町は創られたのかしらね。最近になってまた気になるの。エレナも元気だといいけど」
「彼らはどうだろうね。攻撃されたら言葉でしか抵抗はしないだろうし、肉も食べないのなら資源についても心配だな。マスター・ブレインに誓った再会の約束も果たさなければいけないし、イヴがある程度大きくなったら、みんなで一年くらいの旅をしてみようか。君も身体を鍛え直して、子ども二人くらいなら無事に連れていけるようにしてから、またあの場所へ」
「そうね。気になることはたくさんあるし、約束もしたものね。私たちも三十歳が近いのかあ。昔みたいに動けるといいけど」
「頑張らないといけないな」
炎が跳ねる音を聴きながら、夫婦は穏やかに身体を寄せて笑い合った。こんな世界では遠くの町の様子などを知る術はない。あと何百年かして、交通技術や電話が発達する世界がとても羨ましく思えてくる。きっと、今よりも活気に満ちた、幸せな世界であることだろう。
「じゃあ、イヴが生まれたら、アダムにも話しておかないとね。パパとママがどんな風に生きてきたのか。何を考え、何を選び取ったのか。きっと人工冬眠やAIなんて理解できないわ。骨の折れる仕事ね」
「そうだな。それも僕らは頑張るしかないよ。僕たちのここまでの道のりは、きっと子どもたちへ向けたメッセージとなる為のものだったんだ。この経験を語り継いでいくことで、この人生に本当の意味が生まれる。ちゃんと言葉を伝えていこう。これから生まれる子どもたちに。まずは僕らの、アダムとイヴへ」
和葉とエドワードは幸せのおまじないのように手を取り合い、短くキスをした。そして二人は手を握ったまま立ち上がると、暖炉の火を消してベッドに入った。アダムを二人で挟むようにして、いつも親子三人川の字で寝ている。
「ねえ、エド。私は最近、少しだけ怖いなと思う時があるの。この子たちはこの世界で初めて生まれたような世代で、本当にこの先も強く生きていけるのかしら。これから世界はもっと厳しくなって、人間同士で奪い合わないといけなくなったり、マスター・ブレインも予測できなかったことがあるように、私たちではどうしようもないことが起こって、一気に世界が滅んだり。最近はそういうことを考えちゃうの」
「和葉」
エドワードは和葉の髪を優しく撫でた。彼女が母親になってから、その髪は短く切り揃えられている。左側頭部には傷跡が見えた。十年前にエデンの人々が生きていた証だ。
「君のそういうのを、きっとマタニティブルーっていうんだぜ。世界が滅ぶ時なんかを僕らが考えたって仕方がないじゃないか。それに、この子たちなら何があっても大丈夫だよ。僕らの子どもなんだから、誰よりも逞しく生きていける。それは僕が保証する。ほら、触ってごらん」
そう言ってエドワードは、アダムの頭と和葉のお腹に手を触れた。和葉は彼の大きな手の上に自分の手を重ねる。とても温かかった。今が人生で最大に幸福な時のように感じた。
「ふふふ、確かに、マタニティブルーって感じかもね。ごめん、エド。大丈夫よ、愛しているわ」
そして二人は、おやすみのキスを交わした。ベッドの上に息衝く四つの命を感じながら、幸福の最中で眠りに就いた。きっと、幸せな夢を見ることだろう。
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アダムとイヴへ(序破急Ver) 稲光颯太/ライト @Light_
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