004_二日目


 フィオラは夕陽に照らされた森の中を歩いている。


 背負ったバッグは大きく膨らんでおり、丸みを帯びていた。


「けっこう遅くなったわね」


 と言いながらも焦った様子はなく、木々が生い茂る大自然の中をゆっくり歩き続ける。


 全力で走れば瞬く間に村へ到着するが、決してそんなことはしない。


 フィオラは森の雰囲気を満喫していた。


 軽い足取りで散歩を続けていると、分かれ道に差し掛かる。


 一つは整備された緩やかな下り坂。つまりは、村へと通じる帰り道。


 もう一つは雑草によって道が細くなった上り坂だ。


「そういえば、街へ行くときは寄り道するの忘れいてたわ」


 悩むことなく上り坂を選択すると、変わらない足取りで進み続ける。


 やがて、開けた場所に出た。


 そこは、シオンとの激戦を繰り広げた平地だ。


 視界に入る全ての植物や樹木が枯れ果てている。


 色彩の失われた世界で目立つのは、赤黒い血痕のみである。


 たった二日前の出来事とはいえ、フィオラは思うところが色々とあり立ち止まった。


 遠くから鳥の鳴き声が聞こえたとき、彼女は口を開く。


「感傷に浸るのは目的を達成してからにしましょう」


 膝の高さまで生えた枯草をかき分け進む。


 よく見ると、周囲には枯草が踏まれて倒されたいくつもある。


「騎士の人たちも足跡も残っているわね」


 土地勘のない騎士たちが、この地へ辿り着けるかどうかをフィオラは心配していたのだ。


 ぐるりと広い平地を一周し、一言。


「報告通り、やっぱり何も残ってないわね。まぁ、今は保留にしましょう」


 もう一度、うろうろと歩き回ったフィオラはある物を見つけでしゃがみ込む。


「あった」


 それはエメラルド色に輝く金属片。


 シオンとの戦闘によって砕かれた長剣の欠片だ。


 大小さまざまな大きさのそれを、一つ一つ丁寧に拾い上げる。


 取り出したハンカチの上に並べると、布の四隅を摘まみ持ち運ぶ。


 枯れ果てた巨大な花へ向かって歩いていたとき――突然、背後から巨大な雷撃に襲われた。


 落雷の如き衝撃は山を一つ揺らし、茜色の空を僅かな時間ではあるが白で染め上げた。


 一瞬にしてフィオラが立っていた場所は煙に包まれ、周辺には火花が散る。


「呆気ない。不用心がすぎる」


 姿を現したのは肌の色がバラバラな継ぎ接ぎの男だ。


 にやりと笑いながら歩み寄る。


「いや、ここは礼を言うべきだったな。油断していたおかげで無駄な戦闘を避けることが出来たわけだ。胴体は炭化したかもしれないが、他のパーツは使え――」


 夕凪によって煙が運ばれていったとき、男は言葉を噤む。


 蔦で作られた壁が露わになったのだ。


 中心が焼け焦げて炭化しており、煙を吐き出していた。


「邪魔をしないでくれる?」


 壁の中からフィオラの声が聞こえると同時に、男の四肢を蔦が絡み取る。


「なんだと……! だが、所詮はこの程度!!」


 男は継ぎ接ぎだらけの右手を壁の中にいるであろうフィオラへ向けた。


 その瞬間、鋭く尖った太い枝が、男の腹部を背後から貫く。


「ぐっ!!」


 男が振り向くとそこにいたのは二足歩行で立っている樹木だ。


 今まさに、もう一本の太い枝を男へ振り下ろそうとしていた。


「……あ」


 大地を揺らすほどの強烈な一撃が男を叩き潰す。


 胸部からは骨が突き出し、何かの臓器があたりに散らばる。


 男の瞳から力が失われていく。


「ちょっかいを出してこなければ死なずに済んだのに」


 蔦の壁の中で、フィオラは背中を向けながら告げる。


 不意打ちした男と、ものともせず返り討ちにしたフィオラ。


 両者の間には大きな格の違いがあった。


 何事もなかったかのように、手にしていたハンカチを投げ捨て、エメラルド色の金属片を巨大な花に振りかける。


 そして、地面に両手を触れると、枯れていたはずの花は輝き出し、みるみるうちに元気を取り戻していった。


 それだけではない。


 周囲の枯草も全てが色を取り戻し、鮮やかな緑色の光景が広がっていく。


「これで元通りね」


 死んでいた山は生き返った。


 シオンと対抗するために借りた力を返せたとも言える。


 立ち上がったフィオラが帰ろうとしたとき、聞こえてきたのは間を置いた嫌味な拍手だ。


「お見事」


 振り向いたフィオラは眉を顰める。


 手を叩いていたのは、衣服を血で濡らしながらも怪我一つない継ぎ接ぎの男だ。


 男を拘束していたはずの蔦や樹木は枯れて朽ち果てていた。


「以外ね」


「これがか?」


 男は両手を広げ、自身の身体をアピールする。


 服には所々穴が開いており、致命傷を負わせたのは事実のようだった。


 不可思議な点といえばもう一つ、フィオラは魔法を解除した覚えがないことか。


 しかし、そんなことは関係ない。


 この男が何度立ち上がろうとも、その度に叩き潰せばよいだけだ。


「ここで引き返すのなら見逃してあげるけど」


「逆だ。この場で片腕を捨てていけば命までは奪わん」


 上下関係を理解していないのか、男の言葉からは傲慢さを感じさせる。


 男と会話をしていてフィオラはあることに気付く。


「もしかして、シオンの灰や遺品を盗んだのはあなた?」


「……何を言っている。そんなものを取ったところで、なんの価値があると言うんだ」


「変ね。あなたくらいしか容疑者はいないんだけど」


「残念だったな。当てが外れて」


「そうね」


 冷たい風が吹き荒れる。


 夜の訪れは近づいていた。


「ねぇ、もう一度聞くけど、本当に引き返すつもりはないの?」


「当然だ」


「さっきの一撃で勝ち目がないことはわかったでしょう」


「そうか? あれは余計な部位を損傷させないように手加減していたが」


「負け惜しみ」


「死にかけていた少女に言われたくない言葉だ」


 きょとんとした顔のフィオラは、次にくすりと笑う。


「面白いことを言うわね」


「事実を述べたまでだがな」


「あぁ、そう。なら、身の程を知るといいわ」


 男の周囲に茨の蔦が出現する。毒々しい色にびっしりと生え揃った棘。


 見るも恐ろしい茨は瞬く間に成長し、大蛇のように太くてしなやかな鞭となった。


 慈悲の欠片も感じさせない言葉を、男は笑って受け止める。


「そうでなくては」


 言い終わるやいなや、全方位から鞭が振り下ろされた。


 鳥籠のように囲まれている中、男はある一か所に向かって走り飛び込む。


 それは、包囲網の中にあった唯一の逃げ道だった。


 男は早急に立ち上がり、茨の鞭を避けながら走り回る。


「大きい口を叩いていたわりには、逃げることしかできないのね」


「安い挑発には乗らん」


 走り、跳び、転び、避ける。


 一部始終を見ていたフィオラは、逃げ回っている男の右手が帯電してることに気付く。


 それは次第に大きくなり、五本の指先から迸る電流が地面を這うようになった。


「手の内を明かし切っていないうちは、遠距離から様子見することが定石といえるだろう。しかし、今回はそれが仇になったな」


 襲い来る茨を回避すると同時に、男は上空へと跳び上がる。


「そら! 壁を作れ! でないと消し炭すら残らんぞ!」


 これ以上ないほど電気を帯びた右手を空高く掲げる。


 バチバチと弾けるような強い音を立て、目を覆いたくなるほど眩しく輝く。


 そして、不規則に放電していた電の線は、一つの束となってフィオラへ向かう。


 莫大なエネルギーの塊は電気という段階をとうに超えており、巨大な雷となっていた。


 今も不規則な方向へと進行しているが、決して目標から逸れることはない。


 認識すらできないほど僅かな時間でフィオラへ到達したとき――片手で軽く叩き落とされた。


 雷の落下地点は火薬が爆発したのかと思うほど大きく抉れ、焦げた草地が赤黒く光る。


 男は空色の瞳を大きく見開く。


「……有り得ない」


 フィオラは空中で落下している男を見据える。


「さぁ、続けましょう」


 男が地面へと視線を向けると、そこには無数の茨の鞭が蠢いていた。


 それらは一斉に男へと伸び、男は電撃を放ち迎撃する。


 何本かの茨が焼け落ちたとき、一つが男の胴体を抉った。


「ぐぁっ……!」


 鋸を引くように鞭は棘を擦り、肉片と血液の雨を降らせる。


 苦悶の表情を浮かべたまま蠢く茨の集団へと落下した。


 茨たちは餌を貰った魚のようにじたばたと身を動かす。


 だが、元気よく動いていたのは最初だけで、次第に鈍くなり、ついには枯れ始めた。


「不思議。植物たちがなんの抵抗もなく死んでいく」


 今度は目を逸らすまいとじっと見つめていたフィオラは呟く。


 枯れ果ててボロボロになった茨の残骸から男は姿を現す。


 切り傷――特に大きく抉られた腹部は赤く爛れていたが、見る見るうちに肌が再生していった。


「それに、毒も大して効果はないと。いえ、それよりも問題は、茨を枯らせた力の方ね」


 フィオラの分析結果に返答したのは継ぎ接ぎ男だ。


「決め手に欠けているが、それは貴様も同じようだな」


「そういうことにしておきましょうか」


「ふっ……強がりを」


 男は強烈な電撃を右手に纏い、フィオラに向かって走り出す。


 両者を阻むものは何もなく、順調に距離は縮められていく。


「どうした? さっきの植物はもう使わないのか?」


「無駄みたいだから。それに、覚悟を決めたの」


「ほぉ。その覚悟とやら、見せてもらおう」


 口角を吊り上げ、にやついた男は帯電した腕で掴みかかろうとする。


 フィオラは瞬きすることなく男の動作を見切り、軽やかに回避した。


 そして、回避の動作から繋げたのは得意の蹴りだ。


「うっ……!」


 みぞおちを蹴り上げられ、男の身体は宙に浮く。


 人体の急所を正確に打ち込んだ一撃だが、これで終わりではない。


 フィオラはくるりと身体を回転させ遠心力をつける。


 そして、無重力状態の男の腹部に全力の回し蹴りが入った。


 あまりの威力に衝撃波が発生し、周囲の枯葉を巻き上げる。


 パンッという水風船の割れるような音と共に男の身体は勢いよく吹き飛ぶ。 


 地平線まで飛んでいく勢いだったが、不自然なことに速度を落としはじめ、やがて接地する。


 地面を転がりながら内臓をぶちまけ、停止した時には胴体の中身は空っぽになっていた。


「ふぅ……うぅ……」


 顔面を大地にくっつけながら、低い呻き声を発する。


 普通の人間なら即死しているはずの一撃だが、男は手足をもぞもぞと動かしはじめ、再び立ち上がろうとしていた。


「これでも死なないとは。ここまでくると称賛するほかないわね」


 しゃがんだフィオラは片手をそっと地面に触れ、魔力を注ぎ込む。


 すると、男が伏している地面の下から木の杭を模した樹木が突き出した。


「がぁっ……!!」


 槍のように鋭いそれは、男の身体に無数の穴を空ける。


 フィオラは男に向かって駆け出していた。


 もう一撃、確実な死を与えるため。


 男まであと数歩、という距離まで近づいたフィオラは異変を察知する。


 反射的に身を翻すと、用心深く男との距離を取った。


「ごほっ……ごほっ……」


 男は咳き込む。


 その咳は、肺の機能が回復していることを意味した。


 フィオラは遠くから男の様子を観察する。


「どうして私の生み出した植物たちが死んでいくのか疑問だったけど、ようやくわかったわ」


 そう口にした彼女が観察していたのは、男に突き刺さった樹木の方だった。




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 ブレッグが目を覚ましたのは夕暮れだった。


 丸一日寝ていたことに驚きつつも、怪我の回復には体力を使うものだと思い納得する。


 そして、信じられないことに、起き上がっても声を上げない程度には痛みが和らいでいた。


「レームが用意してくれた薬、本当に効果があるな」


 完治とは程遠い状態であるが、ブレッグの患部は驚異的な回復力を見せていた。


 腕に巻かれた包帯を見つめ、布の下で塗られている薬を想像する。


「魔草か。俺も扱えるようになりたいけど……まぁ、無理か」


 きっと膨大な知識が必要になることを想像し、ブレッグは早々に諦める。


「さてと、どうするか。もうひと眠りは出来ないし、かといってあと少しで日は落ちるし……」


 ブレッグの身体は満身創痍だが、それでも村の人たちの手助けをしたいという気持ちがあった。


 しかし、太陽と共に生活する村人たちは、あと一時間もしないうちに床に就くはずだ。


 ベッドに腰かけていたブレッグは考える。


 そして、結論を出すと立ち上がった。


「うん。お礼だけでも言いに行こう」


 ブレッグは村人たちからお礼を言われる立場ではあるが、逆に療養のために小屋を貸してもらってもいる。


 それに、残された村人たちの精神状態も心配だ。


 一緒にいて話を聞くだけでも、精神的な助けになることをブレッグは知っている。


 丸机の上に置かれていた一杯の水を飲み干すと、扉に向かい小屋から出た。


「まずは、村長の代わりを務めていたあの女性に……」


 目的地に向かって歩き出そうとしたとき、背後から視線を感じて立ち止まる。


 振り返ると、ブレッグの黒い瞳に一人の人物が映った。


「えっと、どうしました?」


 村人かと思い声を変えたブレッグだったが、次第にその考えを改める。


 そこにいた人物は全身を黒いコートで多い、フードで目元を隠していた。


 さらに、夕陽が逆行となり顔の輪郭もわからないため、性別すらも判別できない。


 何もわからないその人物からブレッグが感じた直感の印象は『無』だった。


「ここの村の人ですか?」


 そんなはずはないと思いつつも、話をしないと何も始まらないため、とりあえず声をかける。


 しかし、反応は返ってこない。


 諦めてこの場を離れようかと思った矢先、その人はブレッグに背を向けてどこかへと歩き出した。


 数歩進んでから振り向き、再び歩き出す。


 ついてくるように催促されているようだ。


「なんなんだ?」


 疑問に思うブレッグだったが、結局ついて行くことにした。


 ――敵ではないよな。罠へ誘き寄せるなんて、まどろっこしいことをする意味もないし。


 今のブレッグでは、例え相手が女性だとしても負けるだろう。


 ブレッグの殺害や誘拐が目的なら、フィオラがいないこの場が好機である。


 消去法ではあるが、助けを求められているのだと思うことにした。


 二人は夕陽に向かって歩き続ける。




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 男に突き刺さっていた木の杭は枯れ果て、ボロボロと崩れ落ちる。


 支えを失った男は地面に落とされるが、すぐに立ち上がると服についた土埃を落とし始めた。


「その力、時間の流れを操る『理』でしょ」


「ご名答。小娘のくせに賢いものだ」


「娘なんて年齢はとうに超えているわ」


「そうか。だが、これでわかっただろう。俺と貴様では格が違うということを」


「えぇ。使える『理』も一つじゃないみたいだし」


「くっ……はは。そうだとも。だから格が違うのだ」


 男は右手は雷を帯び、左手は周囲の空間を捻じ曲げる。


 捻じ曲がった空間の中では猛烈な速度で時が流れているようだ。


「勘違いしないで。私が上であなたが下よ」


 大笑いしていた男の表情が固まる。


「まだ言うか。では、手加減はもうやめだ。運よく腕が残ることを祈って殺すとしよう」


「……ふふ」


 口元を手で隠しながら笑うフィオラに男は眉を寄せた。


「その笑いは諦めからか? それとも、気が狂ったか?」


「違うわ。私の腕を奪っても『理』は奪えないのに、無駄な努力をしていると思ったら可笑しくて」


「説明しろ」


「ダメよ。秘密」


 人差し指を立てて唇にくっつける。


 男は全身に血管を浮かび上がらせながら笑みを浮かべた。


「面白い。その言葉、嘘か真か確かめるとしよう」


 両腕に帯びた二つの『理』はより強大に、激しさを増す。


 稲妻は触れた物を焦がし、加速した空間は枯葉を巻き込み塵と化す。


 前傾姿勢になった男は走り出した。


 そして、迎え撃つフィオラが手にしていたのは握れる程度の手頃な石。


 言い換えれば、稲妻で焼かれることなく、風化することもない物質だ。


 思いっきり振りかぶって男へ投げつける。


 風を切りながら男の顔へ向かって一直線に近づく。


 が、途中で減速すると男の左手で受け止められてしまった。


「こんなもので俺を止められるとでも?」


 男は身体を一回転させ、全く同じ速度で石を投げ返す。


 フィオラは瞬時に蔦の壁を作り上げ防御する。


 その壁を、石は容易く貫通した。


「えっ……?」


 フィオラの顔を掠め、薄緑色の髪の毛が舞い落ちる。


 蔦の壁は朽ち果て崩れ落ちていった。


「くくく……ははははは! 甘いぞ! その考え!」


 この戦いにおいて、フィオラは初めて焦りを覚える。


 飛び退いて距離を取ろうとするフィオラに対して、男は両手を前に突き出し稲妻を放つ。


 紙一重のところで回避を続けるフィオラに、男は愉快な様子だ。


「当たったものの時を加速させる稲妻だ。受け止めることはできないだろ。特に、寿命の短い褪色者は数年の時が進んだだけで致命傷となる」


 高速で襲い来る大量の稲妻は、着実にフィオラを追い詰めていった。


 ついに、逃げ場を失ったフィオラの眼前に稲妻は迫る。


 そのとき、態勢を崩したフィオラは転ぶようにして、間一髪で回避した。


「言ってなかったが、稲妻に近付くだけでも時は進むからな」


 フィオラが視線を落とすと、右足の踝から下が灰となっていた。


 進行は徐々に進む。


「くっ、ははは……その様子なら、もって数分といったところか。終わりだな」


 高笑いしていた男はフィオラが姿勢を低くして何かを備えていることに気付く。


「……あぁ?」


 よく見ると、残された左足でばねのように力を溜めていた。


 男は肩の力を抜き、溜息をつく。


「やめておけ。俺を殺したところで時は巻き戻らん。その足もだ」


 そんな男の忠告を無視して、フィオラは渾身の力で大地を蹴った。


 大地すれすれの高さを高速で飛び、男に近付く。


「全く。話を聞かない奴だな」


 男はフィオラに向かって稲妻を放つ。


 しかし、そのうちの大半は大地へと吸われていった。


 フィオラの考えを理解した男は眉を上げる。


「……だが全ては避けれまい」


 稲妻を放ち続ける男。


 そのうちの数本がフィオラへ向かう。


 勝利を確信した男はにやけたとき、フィオラは左手で稲妻を受け止めた。


「捨て身か!」


 瞬時に灰と化し崩れ落ちるフィオラの左腕。


 右足と左腕を失いまとも終わりを迎えようとしている彼女の身体。


 しかし、そのような状態でも、フィオラの瞳の色は褪せていない。


 男の足元に潜り込むと右手で大地を掴む。


 そして、腕一本で大地を押し返し、盛大に男の顎を蹴り上げた。


「がぁっ……!」


 砕けた歯が飛び散り、男の身体は空高く飛び上がる。


 宙を漂いながら空を見つめ続け、静かに、不気味に笑う。


「果たした。驚かされた場面はあったが、勝者はこの俺だ」


 笑みの奥では綺麗な歯が生えそろっていた。


 男が声を出して笑い始めたとき、突如として男の視界は黒で染め上げられた。


 光も、音も届かないその空間は、世界と隔絶されているようだ。


「……何が起こった。身体が動かん」


 全身ががっちりと固定され、身動きが全く取れない。


 その硬度は石を彷彿とさせる。


 だが、石とは異なり仄かな温もりを男は感じた。


 数秒考えた男はある結論を導く。


「俺は……樹木の中にいるのか?」


 動揺は消え、再び笑みが戻ってくる。


「無駄な足掻きだ。さっさと抜け出すとしよう」


 男の左手を中心に周囲の空間が捻じ曲がる。


 時は進み、樹木は枯れ果てる――はずだった。


「どういうことだ?」


 信じられない様子の男は『理』によって時間を加速させ続けるが、それでも状況は変わらない。


 樹木は強固なままであり、男も身動きが取れないままだ。


 次第に男は焦り出す。


 額を流れた汗が樹木に吸収されていった。


「早くここから出なければ。小娘が灰と化して消えてしまう前に……!」


 なりふり構わず稲妻も発生させてみる。


 空間の捻じ曲がり方も強くなり、より一層時間の進みが早くなっていく。


「あぁ! くそっ!! ここまで追い詰めたというのに!!」


 樹木の中で動けなくなった男が出来ること。


 それは、ただ叫び声を上げ続けることだけだった。




 外の世界にいるフィオラは樹木を見上げる。


 当然、ただの樹木ではない。


 平地を埋め尽くすほど太い幹の――言わば御神木だ。


「十万年はそこから出られないわ」


 男には届かない声量で告げたフィオラは、その場から離れようとする。


 即席で木の杖を作り出し、失った右足を補いながら歩く。


 足取りは悪く、年老いた老人のように背を丸めながら、一歩ずつ進む。


「封印自体は成功したけど……いつか必ず出てくるわね。その前に……ブレッグには逃げてもらわないと」


 平地から出たフィオラは木々の生い茂った緩い坂を下りる。


 普段ならなんてことはない普通の道だが、今のフィオラには違った。


 たった数歩進んだだけで息は上がり、歩みを止める。


「はぁ……はぁ……」


 ふと、フィオラは振り返って今まで歩んできた道を見返す。


 すると、視界に入ってきたのは灰でできた踪跡だった。


 血痕のように一筋の跡を作っている。


 灰を作り出しているのは、失った肢体の断面からだ。


 今もなお崩れ続け、ボロボロと灰を地面に落としている。


「時間……残されてないわね」


 フィオラは再び歩き出す。


 弱り切った彼女は痛ましく、危ういバランスでふらつきながら歩いている。


「いつかは……こんな日が来ることを知っていた。でも、お願いだから……あと少しだけ……時間をちょうだい」


 目元から頬にかけてできた大きなひび割れ。


 白く染め上げられた髪。


 止まらない灰化。


 それらは、間もなく肉体が崩壊することを意味した。


 そして、フィオラはそれを認識している。


 だが、決して足を止めようとはしない。


 不可能だからといって諦めることができないのが、フィオラという人間だった。


「……あっ!」


 誤って石を踏みつけ、態勢を崩して転んだ。


 本当は石を超えて着地しようとしていたが、衰えた筋力はそんな簡単なこともできなかった。


 立ち上がろうと腕に力を込める。


 当然、身体は持ち上がらない。


 這いつくばってでも前へ進もうと藻掻く。


 だが、努力虚しく、残りの体力を全て使い切って前進できた距離は一歩分にも満たない。


「……まだ……こんな……ところで……」


 指一本動かすことも出来なくなったフィオラは、ただただ道の先を見つめていた。


 村で待っているブレッグのことを想像しながら。


 そして、琥珀色の瞳は閉じられる。




 **********************************




 光一つない暗闇の中にフィオラはいた。


 まるで夢の中にいるようで、意識はぼんやりとしている。


 痛みや疲労感から解放されており、辛いことは何もない。


 その代わりに、全ての感覚を失い何も感じることが出来なくなっていた――聴覚を除いては。


 風に揺られて葉の擦れる音をフィオラは感じ取る。


 ――もうすぐ死ぬのね。悔しいけど、私に出来る最大限のことはやったはず……よね。


 少し考え、暗闇の世界でフィオラは眉を寄せた。


 ――ブレッグとか村の人とかが襲われないか心配だけど……ううん、大丈夫。継ぎ接ぎ男の狙いは褪色者みたいだったし。それに、私がいなくてもブレッグは一人で戦えると思う。


 シオンと戦い生き残ったというだけで勲章ものだ。


 少なくとも、逃げるという能力では突出しているものがあるとフィオラは考える。


 ――あれこれ考えても仕方ないわ。その時が訪れるのをゆっくり待つとしましょう。


 今までの人生を思い返す。


 幼少期から異世界の知識と膨大な魔力を保有していたフィオラは、困っている人を見つけては助けてきた。


 その規模は次第に大きく名入り、最終的には国を、世界を救うようになった。


 他者と比較すれば短い人生だったが、非常に濃密な時間を過ごしてきたとフィオラは思う。


 思い残すことがあるとすればブレッグのことくらいか。


 ――あぁ、お別れくらいは言いたかったかも。きっと、悲しむわね。それから、約束を守れなくてごめんなさい。


 魔法を教えるという約束を破ったことを、誰もいない空間で静かに懺悔する。


 ふと、一人の女性の声が聞こえた気がした。


『これで終わり?』


 幻聴に違いない。


 だが、今際の際に聞こえてくるほど、フィオラにとって掛け替えのない存在の声だった。


 目標であり、友達であり、家族であり――そして、最も強大な敵でもある。


「終わりよ」


 どこからともなく聞こえてくる幻聴に淡々と言い返す。


『ふぅん。フィオラはそれでいいの?』


「良いも悪いも、今の私には何も出来ないわ。あとは死が訪れるのを待つだけ」


『でも、あなたは自分がやりたかったことを何一つ出来てないじゃない』


 視線を上げ、首をかしげる。


「そんなことないと思うけど。自分の心の声に従って素直に行動してきたつもりよ」


『違うわ。学園生活とか、お買い物とか、恋とか。普通の生活を送ってみたいって、私に話してくれたことがあったでしょ』


 フィオラは顔を少し赤らめる。


「昔の話だから忘れていたわ。そんなことを言ったかもしれないわね。でも、もういいのよ。今回できなかったことは来世でやるから」


『……そう』


 幻聴から寂しさを感じたフィオラは付け加える。


「生まれ変わっても近くにいてね」


『それはわからないわ』


「……えっ」


『フィオラは諦めてしまっているけど、諦めていない人もいるのよ』


「どういうこと?」


 フィオラの問いかけに対し、答えが返ってくることはなかった。




 **********************************




 ブレッグはフードを被った人物の後ろを歩いていた。


 警戒したところで意味はないと思いつつも、必要以上に大きく間隔を空けている。


 太陽は姿を消し、微かに照らす夕陽だけが頼りの状態で、山の中を突き進む。


 ――この人の目的はなんだ?


 山に入る前から思っていた疑問を改めて自問する。


 間もなく夜が訪れるというこの時刻に、山を歩こうとは普通の人間であれば考えない。


 ブレッグも山を熟知していなかったら早期の段階で引き返していたところだ。


 ――よほど、俺を連れていきたい場所があるってことだよな。それか罠か。


 罠だった場合には素直に降参しようと覚悟を決める。


 その時だった。


 突如として大地が揺れ、ブレッグはよろめく。


「うわ!?」


 近くに生えていた樹木に掴まり、ブレッグは堪える。


 山全体が揺れるという未知の体験に驚きながらも、事態を把握しようと周囲を見渡す。


 すると、以外にも揺れはすぐに収まり、静寂が訪れた。


「一体何が……もしかして……」


 普段から薄暗い雰囲気のこの場所では、暗すぎて遠くまでは見えない。


 唯一視界に入ったものといえば、膝を地面につけたフードの人物だ。


 その姿にブレッグは既視感を覚える。


 ――衰弱している? 


 想起したのは、シオンと戦闘した後のフィオラの姿。


 風に吹かれたら飛んで行ってしまいそうなほど、軽く、脆く、非力に見えた。


 弱弱しく立ち上がったその人にブレッグは近寄る。


「あの……大丈夫ですか」


 肩にそっと触れようとしたとき、歩き出して避けられてしまった。


 山を進み続ける目の前の人物の背中を、ブレッグは見つめる。


 ――この山で何かが起こっている。それに、胸騒ぎがする。


 急いでブレッグは後に続く。


 完全に日は落ち、樹木の隙間から差し込んだ月明かりを頼りに進む。


 フードを被った人物は何度か躓いて転びそうになるが、それでも足を止めることはなかった。


 しばらく歩いた後、立ち止まる。


「ん?」


 フードの人物は道の端により、身体を半分だけ振り返る。


 相変わらずフードを深く被っているせいで顔はよく見えない。


 そして、道の先を指さすと、ブレッグも視線をそちらへ向けた。


 跳ね上がった鼓動にブレッグは息苦しさを覚える。


 薄暗い夜道、遠くで倒れている少女の姿がブレッグの黒い瞳に映る。


「そんな……ことが……」


 ブレッグは走り出す。


 一秒でも早く近寄りたい願望が、醜い姿勢として現れる。


 伸ばした左手は少女を捉えようとしていた。


 彼女との距離が永遠のようだ。


「……まだ……何も始まってないんだ……」


 ブレッグは苦しそうに顔を歪め、歯を食いしばる。


「フィオラ……」


 近づいてわかったことが一つあった。


 もうすぐ、彼女の身体は完全に崩壊する。


 灰の進行は止まらず、失われた四肢の断面は乾いた砂のように灰と化していく。


 死にゆく彼女を見届けることしかできないことを悟り、ブレッグは崩れ落ちる。


「……ごめん……なにもできなくて」


 震えた声を絞り出す。


 こうしている間も、崩壊は進んでいく。


 ブレッグが出来ることは、フィオラの近くにいることだ。


 寂しくないように。近くで彼女を見届ける。


 うつ伏せに倒れているフィオラの背中を触れ、優しく撫でる。


 一筋の涙がブレッグの頬を伝ったとき、冷やりとした感覚が左手から伝わった。


 ブレッグの手の甲に、白い手が覆いかぶさっている。


「あなたのおかげで……間に合いました」


 最期の瞬間を見逃さないよう、フィオラに暖かい視線を送りながら礼を伝えた。


 そのとき、雪のように白い手が輝き出す。


 フードを被った人物の腕はきめ細かい泡のようになり、ふわふわと宙に浮いている。


 突然の出来事に驚きながらも、神秘的なその泡をブレッグは見つめる。


 ただの直感ではあるが、それに対して悪意のようなものは感じられない。


 泡はブレッグの手のひらを通してフィオラへ吸収されていった。


「何をしたんですか」


 全ての泡がフィオラの身体へと溶け込んだあと、ブレッグは問いかけた。


 答えようとする気配はない。


 だが、何が起こったのかはすぐに気付く。


「……崩壊が、止まっている?」


 目を見開き、見間違いではないことを確認する。


 灰化の進行は止まり、僅かではあるがフィオラの肌色は良くなっていた。


 ――何が起こったのかはわからない。だけど、これなら。


 予断を許さない状況に変わりはないが、絶望からは逃れた。


 どれほどの時間が残っているかもわからないが、少なくとも猶予は与えられたのだ。


 フィオラのことをずっと見つめていたブレッグが顔を上げると、目の前の人物はフードを下ろしていた。


 露わになった素顔は、ブレッグを凍り付かせる。


「ぁ……ぁ……」


 歪な笑顔が彼の心臓を鷲掴みにした。




 **********************************




 前に背負った時より軽くなったフィオラの身体をベッドに横たえる。


 ブレッグは自分の小屋に戻っていた。


 あの場所からでは村に戻るよりも時間がかからないためだ。


 フィオラの身体の崩壊は今も止まっているが、ブレッグの表情は浮かない。


 それは、根本的な解決が出来ていないという理由もあるが――


「どうしたの?」


 琴の音のように美しい声。


 ブレッグが振り向くと、そこにいたのは壁にもたれ掛かったシオン。


「なぁに、その表情は。信用できないって顔してる」


「先に言っておくけど、誰かを犠牲にする方法はなしだ」


 ブレッグが眉間に力を込めて言い放つと、シオンは笑って受け止めた。


「うふふ。話が早いのね。あなた、少し変わった?」


「そんな話はこの際どうだっていいだろ! どっちなんだ! 協力するのか、しないのか!」


 シオンは頬に人差し指を触れて少し考える。


 悩んでいる表情は美しく、妖艶で、それでいて恐ろしいと感じた。


「半分は同意するわ」


「半分?」


 意味深な言葉とともにシオンはにっこりと笑い、ブレッグを指さす。


「犠牲になるのは私とあなた。他の人は巻き込まないと約束しましょう」


 ブレッグの脳裏には一つの結末が思い浮かぶ。


「俺の身体を分解して、フィオラの身体を補強するってことか?」


「違う違う。それじゃ同じことの繰り返しでしょ」


「……確かに、その通りだな」


 今日に至るまで、シオンの肉体は何百、何千という市民を犠牲にして維持されてきた。


 つまりは、それだけの犠牲をもってしても数年の延命にしかならないということだ。


 ブレッグ一人が犠牲になったところで、フィオラの寿命は延びて数日程度だろう。


「私とあなたの力を使うのよ」


「……わかるように説明してくれ」


「もちろん」


 悪魔に耳を貸していることを理解しながらも、ブレッグはシオンの言葉を待つ。


「これ、見えるでしょ」


 ブレッグは頷く。


 シオンが指さしていたのは自身の顔の一部。


 本来であればそこには一つの瞳があるはずだったが、空洞となっていた。


 奥には虚空が広がるばかりで、中身は空っぽになっているようだ。


「あのとき、私はブレッグに殺された。だから、今の私は残滓そのものなの。こうして外側を偽ってはいるけど、力は何も残ってないわ」


 シオンの顔に空いた孔は広がり続け、パラパラと灰を散らしている。


「じゃあ、あの凶悪な力も……」


「私の持つ『理』のことね。当然使えないわ。だけど、生身の身体があれば話は別よ」


 生身の身体。


 そんなものを差し出せる人物はこの場に一人しかいない。


 シオンは微笑み、ブレッグに手を差し伸べる。


 嫌な予感にブレッグは寒気を覚えた。


「なにが言いたい?」


「うふふ」


 微笑みながら近づいてくるシオンに、ブレッグは後退る。


 笑うだけで何も喋らない――得体の知れない彼女を不気味に思う。


 狭い部屋では逃げ場がなく、すぐに追い詰められてしまった。


 眠りについているフィオラを庇うように、ブレッグはベッドの前で踏みとどまる。


 殴り掛かれば勝てることくらいブレッグは理解しているが、そうさせない凄みがシオンにはあった。


 蛇に睨まれた蛙のように瞬きすら出来ずに固まっていると、息が当たるほどの至近距離まで両者の顔は近づいていた。


 そして、耳元でシオンは囁く。


「私と一つになりましょう。あなたの身体を私にちょうだい」


 あまりにも衝撃的な提案に理解が追い付かず、シオンの言葉を反芻する。


 ブレッグが恐れていたのは自分の身体を失うことではない。


 フィオラのためならば死ぬことすら覚悟していた。


 ――俺の身体を差し出すだけでフィオラが助けられるなら答えは最初から決まっている。だけど……


 危機感を感じていたのは身体を失うことではなく、シオンに肉体を与えるということだ。


 しばらく固まっていたブレッグだったが、左手でシオンをぎこちなく押し返した。


 力の込められていない一押しだったが、シオンはふらつきながら壁に激突する。


 紙のように軽い身体に驚きながら、殺してしまったのではないかと心配になっていた。


 そう思わせるほど、シオンは弱弱しくてか細かった。


「お、おい。大丈夫か?」


「心配してくれるの? 優しいわね」


 突き飛ばした相手に投げかける言葉ではないと思うが、それよりもシオンが生きていることにブレッグは安心した。


 彼女が死んでしまっては、フィオラを助けることが不可能となるのだから。


 壁から背を離したシオンは変わらぬ笑みを浮かべる。


「私が怖い?」


「……あぁ」


「どうして?」


「俺の選択次第で大勢の命が奪われるかもしれないんだ。当たり前だろ」


 予想外の答えだったのか、シオンはきょとんとした表情を見せる。


「なんだ。そんなことね」


 『そんなこと』と言い換えられたことにブレッグは苛立ち、眉間を寄せて睨みつける。


 シオンは自分の胸に手を当て話を続ける。


「安心していいわ。もう二度と、人の命を奪ったりしないから」


「信じろっていうのか?」


「信じてもらいたいわね。私の目的はフィオラを助けること。無意味な殺人なんてごめんよ」


「……裏を返せば、意味さえ見つかれば殺人を繰り返すってことだろ。それも、躊躇することなく」


 ブレッグの追及にシオンは溜息をつく。


 そして、気怠げに、観念したかのようにシオンは答えた。


「……わかった。これから先、何があろうとも人の命を奪わないことを誓うわ。これでいい?」


 ただの口約束を信じるほどブレッグは騙されやすい性格ではない。


 しかし、嫌々承諾した様子から、約束を守る気はありそうだった。


 さらに言えば、付き合いは浅いが、約束事を容易く反故にするような性格ではないとブレッグは思う。


 引き込まれるようなシオンの黒い瞳を見つめ、真意を吟味していると、シオンは呆れ顔を見せる。


「それに、身体の主導権が誰のものになるかはわからないわ。あなたが主導権を握ればいいのよ」


 ――その話も信じていいものか。


 警戒を通り越して疑心暗鬼になりつつあったブレッグの心に、一つの疑問が生まれる。


「いや、待ってくれ。肝心の話をまだ聞いてない」


 手のひらを向けられストップをかけられたシオンは口をつぐむ。


「なんで俺たちが一つになるだけでフィオラを助けられるんだ? シオンの『理』が使えるようになったからって、フィオラのこの身体を修復することなんて不可能じゃないか?」


 シオンはただただ微笑みながら聞いていた。


 まるで生徒の抱える疑問に付き合う教師のように。


「なんだよ。間違ったことは言ってないだろ」

 

「そうね。私の『理』だけでは何もできないわ。でも、ここにいるのは私だけではないのよ」


「俺……か?」


「えぇ。ブレッグの力も貸してもらうってこと」


「俺に手伝えることなら何でもするけど……何が出来るっていうんだ? フィオラやシオンと比べたら本当に些細なことしかで出来ないだろ」


「ふふふ。一つだけあるじゃない。あれが」


「あれ?」


「忘れたとは言わせないわ。フィオラの幻影をもう一度作り出して欲しいの。私を殺した時みたいにね」


 二度にわたってシオンを騙した幻のことだ。


 フィオラと親しいシオンでさえ、幻を見抜くことは不可能だった。


 最後の一言に嫌味が含まれているような気もしたが、ブレッグは無視して答える。


「それは構わないけど」


「よかった。フィオラの身体を一度分解して、再構築するのよ。ブレッグが作り出した幻影に合わせてね」


「……は?」


「だから、寸分違わず瓜二つのフィオラを、あなたが作り出すのよ」


 にっこり笑うシオンに吊られてブレッグの口角が少しずつ上がる。


 もっとも、ブレッグの笑みは無茶な要求に対する嫌味が含まれてはいるが。


「いやいや。無理だろ。無理」


 左手を何度も振り、強く拒絶した。


 ブレッグが作り出す幻影はとても精巧に作られていると、自分自身も思っている。


 しかし、それは見かけ上の話だ。


「……もしかしなくても、内臓とかも再構築するんだろ」


「えぇ。でないと、そこだけ崩れてしまうでしょ」


 当たり前のことを話すようにシオンは表情一つ変えずに告げる。


 責任の重さからブレッグは動揺を隠せないでいた。


「正直言うと、そんなところまで再現できているか俺もわからないんだ。というか、仮に再現できたとしても、機能するかなんてさらに未知数だな」


「そうなのね。でも、やるしかないわよ」


 一歩も退かない様子のシオンとしばらく視線を交わす。


「代替案はないのか?」


「ないわね。私の『理』は簡単な物しか再構築出来ないの。例えば、人体を魔力というエネルギーへと再構築することは出来るわ。でも、その逆は不可能なのよ」


 シオンの手のひらに近付いた物質が分解され、シオンの身体へと吸収されていった光景をブレッグは思い出す。


「だから、人体を再構築するためにはお手本が必要になるわね」


「お手本っていうのは俺が作り出す幻影のことか」


 シオンは頷く。


 だが、ブレッグの疑問は解決しきっていない。


「今までシオンが延命していたのは? 自分の身体を再構築していたように思えるけど」


「あれを再構築とは呼べないわね。崩壊が始まった身体の部位を誰かからもらって補強していただけ」


 シオンの話に矛盾は見つからない。


 はじめから、ブレッグを騙そうとしている気持ちがシオンにないことくらい、彼女の態度からわかっていた。


 こうして問答を繰り返しているのも、覚悟を決める時間が欲しいだけかもしれない。


「じゃあ、最後に、フィオラの身体を再構築するための材料は? 崩壊しかけている本人の身体だけじゃ足りない気がするけど、気のせいじゃないよな」


 単純に質量という観点で見ても、腕と脚がそれぞれ一本分足りていない。


 シオンの発言を振り返ると、魔力から人体を作り出すこともできそうだが、そんな莫大な魔力量はブレッグにない。


「うふふ。大丈夫。それについても考えがあるわ」


 寝ているフィオラの傍らにシオンは寄り添い、ベッドに腰かけるとそっと頭を撫でた。


「クリスタの魂を分けてもらう」


「……できるのか? そんなことが」


「クリスタが協力的ならね」


 ブレッグは大きく息を吐き出す。


 ここまでの話の中で不確実な要素しかなかったが、不可能だと言える要素もなかった。


 それだけで、ブレッグが覚悟を決めるには十分だ。


「……わかった。ただ、絶対に再現出来るとは言わないからな」


「それでいいわ。私だって他人の身体を再構築するのは初めてなのだから」


 悪魔との契約が完了した瞬間だった。


 失うものの大きさに対して得られるものが不確実な、そんな契約。


 いっそのこと、本物の悪魔との契約だったらどれだけ楽かとブレッグは想像する。


 失ったものの分だけ、確実に得られるものがあるはずだ。


「それで、俺はどうすればいい?」


「こっちへ来て」


 ベッドに座ったシオンが手招きする。


 今更警戒する必要もなく素直に近寄ると、彼女は微笑んだ。


「実は、もう立ち上がることすら出来ないの。この身が朽ちる前に、あなたに会えてよかった」


 シオンは誰に対しても毅然とした態度で接し、決して弱みを見せることはなかった。


 そんな彼女が見せる儚げな表情。


 その美しさはブレッグの心を揺れ動かす。


 ――これが、シオンの本来の表情なんだろうな。


 照れている気持ちを隠すように、抑揚のない声でブレッグは応える。


「出会いに感謝するのも悪くないが、全てが上手くいってからにしたらどうだ」


「ふふふ。一理あるわね」


 ひとしきり笑ったシオンは、残された方の――右手をブレッグに伸ばす。


 それをブレッグの左手が包み込んだ。


 無言で見つめ合っている二人は、互いの思考が透けているようだ。


 シオンの身体が淡い光を放ち、細胞の一つ一つが細かな泡へと分解されていく。


「これであなたも共犯者ね。命を狙われるときも一緒よ」


「気が滅入る話はやめてくれ」


 自分の身体の中にシオンを匿っていることが知られたとき、何が起こるかは想像に難くない。


 良くて即刻処刑、悪ければ見せしめや拷問だってあり得る。


 だが、それ以上に、


 ――一番つらいのはフィオラと敵対することだな。


 覚悟を決めるということは、そういった未来が訪れたときに受け入れるということでもある。


「怖くなった? でも、今更やめることはできないから」


「あぁ、それでいい。続けよう」


「本当に、人っていうのは短期間でも成長できるものね」


 宙を漂っていた光の泡がブレッグへと吸収されていく。


 全ての泡が溶け込んだとき、シオンの姿は消え、ブレッグだけがその場に立っていた。




 ブレッグは俯き、まだ淡く輝いている自分の身体を確認し、軽く手を動かしてみる。


 ――特に違和感とかはないな。それに、シオンに身体を乗っ取られるみたいなこともなく、自分の身体のままみたいだ。


 一安心といったところだが、今度はもう一つの心配が生まれる。


「シオン。いないのか?」


 きょろきょろとあたりを見渡しながら、姿の見えない人物に語り掛ける。


 大きな声で独り言を喋っているような感覚に恥ずかしさを覚えるが、彼女の名前を呼び続けた。


 すると、琴の音のように美しい声が背後から耳元で囁く。


「ここにいるわ」


「おわっ……!」


 驚かされた拍子に転びそうになるが、なんとか堪える。


 ここで転んではフィオラを圧し潰してしまう。


「普通に返事することは出来ないのか?」


 振り返ると、そこにいたのはシオンだ。


 彼女は初めて出会ったときの姿に戻っており、黒いドレスを着ている。


 失われた腕や孔の空いた顔も元に戻っていた。


「フィオラを起こしてしまったら嫌だから」


 シオンは意地悪な笑みを浮かべる。


 ただ単に驚かせたかっただけだろうとブレッグは思うが、それを口にしては話が進まないので飲み込んだ。


「はぁ。まあいいや。それで、その姿は?」


「あなたの力を借りたの。悪くないでしょ?」


 くるりと一周回るとドレスの端がふわりと浮かんだ。


 大人な女性がお姫様のような振る舞いを見せる。


「……似合ってるけど。気に入ってるんだな。その服」


「えぇ」


「幻でなんでも作れるんだし、着てみたい服とかなかったのか?」


「いいのよ。これで」


 シオンの姿を改めて観察する。


 ブレッグはシオンの身体へと思わず手を伸ばすが、予想通り掴むことは出来ずに透過した。


「どうしたの?」


「あ、いや。まるで本物みたいだったから」


「人の姿を模した幻影は初めてじゃないでしょ」


「そうなんだけど、こうして近くで見る機会はあまりなかったんだ」


「ふーん。それなら、好きなだけ見ていいわよ」


 もう一度、シオンはくるりと回る。


 ブレッグが冒険者と呼ばれる業種に就いて魔物を狩っていた時、魔物は臭いで正体を見破ってくるため幻を作ることはあまりなかった。


 唯一、炎の幻は魔物を遠ざける効果があるため使っていたくらいだ。


 宿の個室に一人でいたとき、誰かの幻を作って観察する機会はいくらでもあったが、プライバシーを侵害しているようで気が引けた。


「もう十分」


 ブレッグがそういうと、シオンは摘まんでいたドレスの端を離した。


「本物と見間違えたシオンの気持ちがわかったよ」


「そうでしょ」


「というか、勝手に幻を作り出したってことは、もしかして俺もシオンの『理』が使えたりする?」


「多分使えるけど、制約があるかもしれないわね。私も自分の身体しか作り出せないし」


「制約か」


 ブレッグは自分の左手を見つめた。


 例えシオンの『理』を全て引き出せなかったとしても、一部が使えると思っただけで心が躍った。


 冒険者として復帰すれば大きな功績を残せるかもしれないし、そうなれば要人の護衛などで莫大な金を稼げるかもしれない。


 だが、今はそんな薄汚れた欲望を掻き消し、現実と向かい合う。


「シオンの『理』については後日試すことにするよ。それより、まずはフィオラを助けよう」


「そうね」


 二人は静かに眠っているフィオラに近付く。


「ごめん。どうすればいい?」


 何から始めればいいかわからず、指示を仰いだ。


「まずは、フィオラの幻影を作って」


「……はい」


 言われたとおりに幻影を作り、フィオラの上空に浮かばせる。


 当然、作り出したのはブレッグが知る限りで一番元気だった時の姿だ。


 ――そういえば、初めてフィオラにあった時も寝ていたな。


 魔物が近くにいようがお構いなし、といった様子で眠り続けていたことを思い出す。


「そうしたら、本体と幻影を一致させて」


 浮かんでいた幻をゆっくりと降ろし、眠っているフィオラとぴったりと一致させる。


 まるで、失われた腕や脚が治ったように見えた。


「問題はなさそうね。それじゃあ、左手を貸してもらえる?」


 シオンはブレッグの左手を掴み、フィオラの身体へと寄せる。


 もちろん、シオンとブレッグは物理的に触れ合うことが出来ないため、シオンの手の動きに合わせてブレッグが自分から手を動かしているだけだ。


 ブレッグの左手が触れたのは、フィオラのみぞおちのやや下あたり。


「あとは私に任せて。わかってると思うけど、絶対に幻影を動かしたり途中で消したりしないでね」


「あぁ。……ところで、どれくらい時間がかかるんだ?」


「さぁ。少なくても数時間はかかると思うけど」


 つい、眉を寄せて苦痛の表情を浮かべてしまう。


 その時間の間、身体を動かすなと言っているようなものだ。


 拷問に近い苦痛を味わうことだろう。


「無理とは言わないわよね? 私だってその間はずっと『理』を使い続けるのよ」


「いや。全く問題ない。早く取り掛かろう」


「わかったわ」


 シオンの両手がブレッグの左手に添えられた。


 そして、ブレッグの意思とは関係なく、『理』が発動される。


 フィオラの身体からは淡い光が発せられ、きめ細かい泡のような粒子が宙を漂う。


 ――ついに、始まった。


 決して幻が動かないように注意しながら、息を吞んだ。

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