002_戦闘
「もう動いていいかしら?」
草原に横たわるように拘束されていたはずのシオンはいつの間にか起き上がっており、全ての蔦が引き千切られていた。
両腕に力なく纏わりついていた残りの蔦も引き剝がされる。
「大切な話をしているみたいだったから静かにしていたのだけれど、それでよかったわよね?」
ブレッグが逃げるとき、わざと見逃してあげたとでも言いたいのか。
余裕のあるシオンの態度がフィオラは気に食わないでいた。
「それにしても、最後の別れがあんなので良かったの? 私も鬼じゃないわ。ちゃんとお別れする時間くらいあげたわよ」
「……最後じゃないわ。あなたを倒して再会するもの」
「うふふ、そういうことにしておきましょうか」
口元に手を当てて上品に笑うシオン。
立ち振る舞いは貴族の令嬢そのものだ。
シオンがフィオラに視線を戻したとき、姿が消えていることに気づく。
刹那、シオンの背後に回り込んでいたフィオラは回し蹴りを繰り出した。
シオンは前屈みになるように上半身を折り曲げる。
渾身の蹴りは白髪を捉えるだけで、空振りとなった。
「まったく、せっかちなんだから。もう少しお話を楽しみましょうよ」
屈みながら背後のフィオラを見つめるシオン。
口元が背中に隠れているせいで表情は読めない。
フィオラが態勢を取り戻そうとしたとき、シオンの白い手が首元に向かって伸びる。
「……くっ!」
辛うじて身体を引いて避けることに成功するが、中途半端な態勢から回避行動に移ったせいで僅かによろめいた。
その隙を逃すシオンではない。
「捕まえた」
再び魔手が迫る。
細い指はただならぬ存在感を放っており、プレッシャーに押し潰されそうになる。
そのとき、シオンの後頭部を巨大な影が殴りつけた。
「がぁっ!!」
倒れそうになったシオンの両腕を二つの影がそれぞれ掴む。
それらの影の正体は、二足歩行で立っている大樹だった。
人を模して造られていはいるが、顔はくしゃくしゃで不細工なうえ、腕や脚も所々不自然に曲がっている。
魔物と見紛われてもおかしくない存在だが、腕のような太い枝をくねくねと動かしてシオンの身体を支えていた。
「そのまま支えてて!!」
可愛らしい声を持つ上官からの命令に、二本の大樹は姿勢を正す。
枝をシオンの腕に深く絡ませて命令を遵守していると、シオンの腹部に重い前蹴りが直撃した。
シオンは巨木の腕を離れて吹き飛び、遠く離れた樹木に激突する。
すかさず両手を前にかざすフィオラは、これで終わりではないことを重々承知していた。
樹木にもたれ掛かっていたシオンはゆらりと立ち上がる。
「少しは成長したみたいね」
どれだけ蹴られ、殴られ、叩きつけられようとも負傷する様子はない。
そんな強靭な肉体を持つ彼女だったが、フィオラが展開している魔法陣を見て顔色が変わる。
魔法陣に刻まれている刻印は流転無窮であり、形を変えながら少しずつ空間に広がっていく。
「それは……ちょっとまずいわね」
「ちょっと、じゃないでしょ」
「そうね。訂正するわ」
シオンの行く手を阻むように二本の巨木が立ち塞ぐ。
フィオラが魔法陣を完成させないよう、シオンが妨害しに来るのは目に見えていた。
「うふふ」
「何?」
この期に及んで意味の分からない笑みを浮かべるシオンに、フィオラはムッとする。
「どうしてかしら。心躍る自分がいるわ。フィオラと本気で戦うことになるなんて、一度も考えたことがなかった」
一瞬だけフィオラの琥珀色の瞳に動揺の色が表れた。
シオンが自分を殺す気で襲ってくる。
そんなのは望んでいたところだが、いざ言葉にされると恐ろしくもあり、悲しくもあった。
そして、本気ということは彼女の持つ『理』が使われるわけで――
「私は……こうなる覚悟をしていたわ」
二人の間を強い風が吹き抜ける。
風が止んだとき、シオンの顔から笑顔が消えていた。
「それなら、私もその覚悟に応えるべきね」
シオンの両腕の周囲にある空間が捻じ曲がり、白くて細い指が怪しく映る。
空間の歪は湯気のように立ち上り、無色透明の炎を両腕に纏っているようだ。
「手加減はできないから。これを避けられないようなら私に勝つなんて夢のまた夢よ」
「まだわかってないみたいね」
シオンの背後で樹木が立ち上がり、太い枝を腕のように振り回して後頭部目掛けて殴りつけた。
葉の擦れる音に反応したシオンは即座に振り返り腕一本で受け止める。
「勝つとか負けるとかじゃない。生きるか死ぬかなのよ」
「……失言だったわ」
次の瞬間、周囲の異変に気付いたシオンはあたりを見渡す。
森全体がざわめいていた。
苗木から大樹まで、あらゆる樹木が立ち上がり、シオンの元へと走り出す。
「この子達で時間稼ぎしようっていうの? 少し考えが甘くない?」
魔法陣の展開に集中しているフィオラへ、樹木達の間から一瞥。
肝心の魔法陣はというと、フィオラの伸長を優に超えるほど大きく広がっていた。
「まぁいいわ。付き合ってあげる!」
シオンは受け止めていた枝を引き千切る。
苦しそうに呻く樹木だったが、お構いなしに腹部を鷲掴みにすると軽々しくぶん投げた。
全方位から迫りくる樹木達。
その中で一番近くまで迫っていた一団に激突し、派手に砕け散った。
まるで火薬が爆発したかのような轟音。
残ったのは大量の木片だけであり、樹木とはいえ凄惨な光景が広がっていた。
がら空きになった方向を背にしたシオンは、目前まで来ていた樹木達を迎え撃つ態勢をとる。
「ふふふ」
最初にたどり着いたのは複数の枝を動かす細長い樹木だった。
同時に振り下ろされた樹木の枝をシオンは搔い潜り、懐に入り込むと掴みかかった。
その瞬間、樹木は光の粒子へと分解され、シオンの腕へと吸収されていく。
全ての粒子を吸収しきったとき、シオンの両脇から迫っていた二本の樹木が枝を鞭のようにしならせて挟撃する。
しゃがんで容易く回避すると、片方の樹木に対してシオンは握りしめた拳で殴り掛かった。
樹皮に深くめり込み、後方でひしめいていた樹木諸共押し返す。
そして、逆側の樹木の顔らしき部位に飛び掛かると、膝蹴りを入れてバラバラに砕いた。
「あはははは!」
そこから先は美しくも恐ろしい光景が繰り広げられた。
次々と襲い掛かる樹木に対し、最小の動作で回避して反撃する姿は舞姫のようで、嬉々として破壊する姿は鬼人のようだった。
殴りと蹴りを巧みに組み合わせ、それでも対処が間に合わないときは掴んで光の粒子へと分解する。
僅か数分の間に、活動を停止した樹木の亡骸が積みあがっていく。
いつしか密集していた樹木の間に隙間ができるようになっていた。
森の至る所で生み出され成長する樹木。
その成長速度を上回る速さでシオンは破壊していたのだ。
一本の枝をへし折ると、フィオラへ向けて全力で投げつける。
樹木すら簡単に投げ飛ばせるシオンの怪力により、人の動体視力では到底追うことのできない速度で枝は飛ぶ。
フィオラに届く直前、バチンという音が鳴り枝は地面に叩き落された。
「随分と器用なことができるじゃない」
シオンの漆黒の瞳は、フィオラを守護する蔦の姿を捉える。
森全体の樹木を操りながら蔦をも操り、さらに魔法陣展開するフィオラの集中力は常軌を逸していた。
「全てはあなたを超えるため」
「素晴らしい努力だわ。でもね――」
シオンは樹木の隙間を縫うように走り、フィオラとの距離を詰める。
投擲が無意味なら直接叩こうという魂胆か。
シオンが樹木の集団を抜けたとき、予め待ち構えていた蔦が襲い掛かるが手ではじかれてしまう。
「この程度じゃ無理よ!」
二人を遮る者はいなくなり、シオンの腕は周囲の空間を歪曲させながらフィオラへ伸びる。
脅威がすぐそこまで迫っているフィオラ。
しかし、焦ることなくゆっくりと開かれた彼女の瞳は琥珀色に輝いていた。
「無理かどうかは……私が決める!」
強く輝く魔法陣から飛び出した巨大な生物はシオンを殴り飛ばす。
シオンの身体は樹木をなぎ倒しながら凄まじい速度で飛ばされ、やがて民家に衝突して停止した。
フィオラの目の前で巨大な翼を羽ばたかせる存在。
それは、御神木を体現したかのように荘厳でいて、禍々しい威圧感を放つ龍だった。
鱗の代わりに樹皮で身を包み、巨大な翼は枯葉と枯れ枝で構成されている。
シオンを吹き飛ばした大樹のように太くて長い腕は、力なくだらりとぶら下げていた。
神とも悪魔とも表現し難い龍を従えたシオンは崩れた民家に近づく。
「出てきなさい」
フィオラの言葉に反応するように、民家の残骸は光の粒子へと変わりシオンが立ち上がった。
頭から流血しているシオンは敵意丸出しの龍に向かって語り掛ける。
「あなたと会うのもいつ以来かしら……クリスタ」
「あいつの話を聞く必要はないわ。早く終わらせて!」
「ゴアアァア!!!」
フィオラの言葉に同意するかのように、クリスタは空高く飛び上がり、シオンに向かって滑空する。
巨大な腕を振りかぶったクリスタに対し、シオンは右手を前に突き出した。
「無駄よ!! 『理』が使われる前に叩き潰す!」
そして両者は衝突する。
瞬き一つせず見つめていたフィオラは驚愕した。
シオンの姿が消えていたことに。
「いったいどこに!?」
どこかに吹き飛ばされたというわけでもない。
となると、残された選択肢は少ないわけで――
「まさか……!」
フィオラが空を見上げると、飛行中のクリスタの腕に彼女の姿を見つけた。
シオンは脚力だけを使って駆け上るように腕から背中へと飛び移っていく。
「振り落として!!」
クリスタの背中に掴まりながら下界を見渡すシオン。
「いい眺め。そういえば、昔、この子の背中に乗ったこともあったわ」
クリスタは自身の背中を長い腕で叩くが、シオンは跳んで避ける。
次にシオンが着地した場所はクリスタの後ろ首だった。
「いい子だから、今は大人しくしていてね」
クリスタの耳元で囁いたシオンが右手で頭部に触れると、クリスタの首から上が光の粒子となって消えた。
「クリスタ!!!」
フィオラの叫びも虚しく、活動を停止した胴体は自由落下を開始する。
燃え尽きかけている流れ星の如く光の粒子を振り撒きながら落ちて行き、地表に到達することなく消え去ってしまった。
「そんな……」
打ちひしがれるフィオラの前に降り立つシオン。
音もなく軽やかに着地する彼女の身のこなしは、落下の衝撃を完全に殺していた。
「全ての手を出し切ったわね。それでも私を超えることはできなかったと」
「くっ……!」
フィオラは急いで魔法陣を再展開するが、あっという間に距離を詰めたシオンによって握り潰され砕かれる。
依然としてシオンの頭から血が流れているが、その程度で動きが鈍る様子はない。
そして、シオンの魔の手によって首を掴まれたフィオラは足が地面から離れた。
「が……はっ……」
逃れようと抵抗するが、首を掴むシオンの手はびくともしない。
「暴れないで。フィオラと違って私は殺すつもりがないから」
シオンは優しく微笑みかける。
フィオラは力いっぱいにシオンの腹部を蹴るが、それでも意に介していない様子だ。
「逆にあなたの命を救うつもりよ。この村の人達には悪いけど、犠牲になってもらいましょう」
気道が塞がれて呼吸が出来ないフィオラは手や足に力が入らなくなり、抵抗が弱くなりつつあった。
「フィオラは嫌がるかもしれないけど……でも、命あっての物種。死んでしまっては意味が無くなるの」
朦朧とした意識の中、掠れた瞳で睨みつけることがフィオラに出来る最後の抵抗だった。
「大丈夫。私も一緒に罪を背負うから」
この言葉を最後にフィオラの意識は途切れる。
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整った顔立ちの幼い少女は、似つかわしくない厳しい表情を湛えて回廊を歩む。
床には如何にも高級そうな赤い絨毯が敷かれ、壁には様々な地域の風景画が等間隔で飾られている。
それら絵画の値打ちを少女は知らないが、額縁に彫られた手の込んだ装飾模様から安物であるはずもない。
窓の外は入念に手入れされた庭が広がっており、暖かい日差しが少女の足元を照らす。
一見すると、王宮と比較しても遜色のない建物。
しかし、少女にとってはそれが居心地悪く感じる原因となっていた。
「はぁ。憂鬱だわ。式典を否定するつもりはないけど、慣れてないのよね……こういうの」
この日は、原色機関に新たに加わる少女のため、世界各国から要人たちが集っていた。
大陸間の移動も容易ではないため、一週間以上も国王が不在となる国さえある。
それほど、今回の式典が世界全体にとって重要ということだ。
「適当に挨拶して『はい、終わり』ってなればいいんだけど」
要人達が一つの会場に集まる。
それぞれの国の思惑が交差する場となり、少女には想像もつかないような高度な情報戦が繰り広げられるはずだ。
簡単に幕が閉じられるなんてことは有り得ない。
愚痴と一緒に溜息を漏らし、せめて厄介ごとにだけは巻き込まれないことを祈る。
「というか、この絨毯もわざとらしく思えてしまうのは私だけかしら。こんなことにお金を使うくらいなら孤児院に寄付して欲しいんだけど」
一歩進む度に絨毯の値打ちが下がっていくようで、気楽に歩くことすらできない。
仮に今歩いている絨毯を持って帰ったら何人の子供たちを養えるか、なんてことを考えていると大きな扉の前に到着する。
「ふぅー。いよいよね」
胸に手を当てて深呼吸する少女。
窓ガラスに反射して映る自分の姿を見て、服装の最終確認を行う。
少女が身に纏っている黒のローブは肌触りの良い毛皮で作られており、要所要所に金糸で刺繍が施されていた。
サイズこそ小さな身体に合わせて作られているが、最近十二歳の誕生日を迎えたばかりの少女には不釣り合いな代物だ。
唯一の少女らしい装飾品は、左胸に付けられた花をモチーフとしたブローチくらいか。
それもブローチがガラスで作られていたらの話だが。
――いっそのこと、この場から逃げ出してローブと絨毯を売ってしまおうかしら。
表情一つ変えずに下心に耳を傾ける。
そのとき、遠くから少女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「フィオラ!」
突然自分の名が呼ばれて振り向くと、そこいたのはシオンの姿だった。
艶のある滑らかな黒髪を乱しながら小走りで近づいてくる。
「おねえ……ちゃん?」
「はぁ……はぁ……よかった。間に合ったみたいね」
膝に手を付き呼吸を整えるシオンは、肩を大きく上下させている。
「どうしてこんなところにいるの? どうしても手が離せない任務があるから今日は欠席だって聞いていたけど……」
「えっと……その……フィオラのことが気になって……居ても立っても居られなくて帰ってきちゃった」
てへっと笑って誤魔化すシオン。
大人な女性が見せる子供らしい笑顔は老若男女を魅了する力があった。
しかし、そんなものに惑わされないフィオラは大真面目に話を続ける。
「え? 大丈夫なの? 急にお姉ちゃんがいなくなったら困る人だっているはずよ」
容赦なく追及するフィオラにシオンは目を泳がせる。
「確かにその通りなんだけど……」
「お姉ちゃんにしかできないことがあるから、わざわざ別の大陸に出向いたんでしょ」
「…………」
「最悪の場合、損害賠償を請求されることもあるかもよ?」
「……返す言葉が見つからないわ」
事の重大さを理解してきたのか、シオンの瞳から光が失われていく。
「お姉ちゃん、帰ってきたらまずかった?」
「かなーり、まずいと思う」
「どうしたらいいかしら?」
「すぐに帰るしかないと思うけど」
「そうよね……」
勢いで帰ってきてしまったシオンと、それを咎めるフィオラ。
どちらが姉でどちらが妹かわからない。
そんな、しどろもどろしたシオンの反応にフィオラは口元がほころぶ。
「ふふ……でも、今日は来てくれてありがとう。実は私も心細かったの」
これからフィオラが会うのは世界中の要人であり各地を統治する支配者だ。
きっと、人類を導く彼らにとってフィオラはただの手駒に過ぎないだろう。
そんな連中の中に一人放り出させれるわけだが、いくら中身が大人なフィオラであっても不安を強く感じていた。
そして、フィオラの心境に気付いていたからこそ、シオンは無理をしてでも会いに来たのかもしれない。
「礼は必要ないわ。フィオラは私の妹なんだから」
「そうだけど、親しき中にも礼儀ありって言葉があるのよ」
「いい言葉ね。初めて聞くけど、大体の意味は伝わったわ」
「だから、お礼を言わせて。ありがとう」
「えぇ」
こうして会話を続けているだけでフィオラの心は軽くなっていた。
「あと……それから……」
鮮やか緑色の髪をいじりながらフィオラはもぞもぞしだす。
まだまだ喋りたいことは沢山あったが、フィオラがこの場に留まれる時間は限られていた。
数ある話題の中から選別作業をしていると、焦燥感から軽いパニック状態となる。
さらに、ただ微笑んでフィオラの言葉を待っているシオンと目が合い、頭の中は真っ白になった。
しばらくの間、言葉を詰まらせているとシオンから助け舟が出される。
「そうだわ、私からも一つアドバイスさせてもらっていい?」
ピンとたてられた人差し指にフィオラは注目した。
過去に同じ立場を経験してきた先輩のアドバイスだ。
これ以上頼りになるものはない。
無言でこくりと何度も頷くフィオラを見つめたシオンは血色の良い唇を開いた。
「自分を過小評価しないこと。今日は堂々としていなさい」
その言葉通り、シオンは自信満々に話を続ける。
「今日の主役はフィオラなんだから、他の有象無象に気を遣う必要はないわよ」
「でも、集まっているのは偉い人達じゃないの?」
「みんな偉いわよ。だけど、その偉い人たちが畏れている存在が機関であり、あなたなの」
シオンの人差し指がフィオラを指す。
「わたし……?」
「機関のうち誰か一人でもその気になれば、国家の一つや二つ、簡単に潰せるわ。だから、今のうちに媚びを売って、いざという時に助けてもらおうと考えているのよ」
自分が気を遣われるべき立場だということにフィオラは驚愕する。
が、それと同時に納得もした。
――機関の人間を止められるのは、同じ機関の人間しかいないってことよね。
場合によっては機関内の衝突も有り得るということだが、シオンの存在がフィオラにとっては非常に頼もしく感じる。
「あ、そうそう、もしもガチャガチャ言ってくる輩がいたら私に言っていいわよ。相手が誰だろうと、ぶっ飛ばすから」
笑顔で冗談交じりにシオンは言っているが、恐らく本気なのだろうとフィオラは察する。
そして、本気でそんなことを考えているシオンのことがおかしく思えた。
「ふふふ、なにそれ。そんなことしたらお姉ちゃんが世界中から命を狙われるわよ」
思わず吹き出してしまったフィオラにシオンは優しく微笑む。
「緊張がほぐれたみたいね」
「それは……お姉ちゃんが変なことを言ったから……」
自分の感情がシオンにコントロールされているようで、少し悔しくなったフィオラは小さな頬を膨らませる。
「でもね、まさか本当にフィオラが私と肩を並べる日が来るとは思わなかった」
「驚いた?」
「知らせを聞いたときは椅子から転げ落ちるかと思ったわよ」
嬉しそうに話すシオンは心から喜んでいる様子だった。
そのとき、ゴーン、ゴーンと鐘の音が鳴りフィオラはハッとする。
「もう行かないと」
入場するタイミングを厳格に決められているわけではないが、些か会話が弾んでしまった。
「ちょっと待って、最後に渡したいものがあるの」
シオンはローブの内ポケットから短剣を取り出すと、フィオラに手渡した。
「気に入ってもらえといいんだけど、どうかしら」
フィオラは黙って受け取ると、鞘から短剣を抜く。
鏡が光を反射するように、よく研がれた刀身はフィオラの顔を映す。
一見して高価な代物であることがわかるほど短剣は精巧に作られていた。
特に、剣身の中央にあたる血溝に彫られた花の彫刻の美しさは目を見張るものがある。
フィオラが短剣を様々な角度から眺めていると、柄頭に埋め込まれた琥珀がキラリと輝いた。
「綺麗……」
心が動かされるほど素晴らしいものと出会ったとき、自然と口数は減るのかもしれない。
刀身に薄っすらと刻まれた幾何学模様をじっと見つめるフィオラに、シオンは胸をなで下ろす。
「杞憂だったみたいね」
「こんなに良いものを貰って喜ばない人はいないわ」
興奮気味に言い返すフィオラだったが、次第に不安な表情を見せ始めた。
「けど、本当に貰っていいの? 高かったはずよ?」
「子供がそんなこと気にしないの」
「茶化さないで。……中身は大人なんだから」
「うふふ、ごめんなさい。でも、本当に気にしないで欲しいのよ。これは私がフィオラに送りたいと思ったから手に入れただけ」
フィオラの正直な気持ちとしては、こんな高価な――もしかしたら値が付けられないかもしれない贈り物に気が引けていた。
しかし、シオンはこの短剣を手渡すために、遠方からわざわざ駆けつけてくれたのだ。
ここで受けとらないのは、彼女の気持ちを踏みにじることと同義であった。
「…………」
小さな両手で柄をしっかり握ると、刀身に映った自分と目が合った。
フィオラはふと思う。
シオンはフィオラにどんな反応を期待していたのか。
少なくとも、今のような不安気な表情を望んではいないだろう。
――贈り物を貰うのに、こんな顔をしたらいけないよね。
刀身の前でにっこり笑ったフィオラは、その笑顔をフィオラへ向ける。
「……わかった。何があっても、必ず大切にするわ」
「ええ、そうして」
二人が小さく笑い合った後、フィオラが手にしている短剣の刀身をシオンは指先でそっとなぞる。
「この短剣ならフィオラを守ってくれると思ったのよ」
「業物だからってこと?」
「それもあるけど……一番の理由はお守りね」
「お守り?」
世界どころか次元を渡り歩いてきたフィオラは、お守りに然した効力がないことを知っている。
しかし、シオンが何を思っているのか、何を願っているのかという観点では強く興味を惹かれた。
「この短剣はね、褪色者の想いを紡いだ象徴なのよ」
それだけ言われても何のことかわからず、フィオラは顔に疑問符を浮かべる。
「ほら、私たちっていつ死ぬかわからないじゃない? 任務は危険なものばかりだし、寿命はすごく短いから。だから、自分の想いを紡いでもらうための器として用意されたのだと思うわ」
「つまり、褪色者の間で代々受け継がれていたってこと?」
「その通り。ついでに言っておくと、ある代で紛失したのを頑張って探し出したのよ」
えっへんと胸を張っているシオンの横で、フィオラの頬を一滴の汗が伝う。
――なんか、とんでもないものを受け取っちゃった。
今更返却するつもりはないが、軽い気持ちでものを受け取ることがないように自分を戒める。
特に、これから会う要人には細心の注意が必要だ。
己の陣営に引き入れようと、甘い言葉で誘惑してくるに違いないのだから。
「あと、この短剣はただの武器じゃないのだけれど……それは使ってみてのお楽しみね」
「ふーん、まぁ、よくわからないけど期待しておくわ」
フィオラは短剣を鞘に納めると、心臓に近い位置にあるローブの内ポケットにしまう。
それを見て満足した様子のシオンはパチンと手を叩く。
「さてと、引き留めて悪かったわね。色々喋ったけど、とにかく私はフィオラが機関に加入することを歓迎するわ。これからもよろしくね」
「はい。ご期待に沿えるよう日々邁進してまいります」
「え?」
王命を受けた騎士のように頭を下げたフィオラにシオンは動揺を見せた。
フィオラは重厚な扉と向き合い両手で軽く押すと、見た目に反して簡単に開いた。
そして、歩き出す前に振り向いて一言。
「ふふ……なんてね」
シオンは何も言わない。
ただ、微笑みながら歩み続けるフィオラの背中を見つめていた。
ほどなくして会場から歓声が沸きあがるのだった。
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気を失ったフィオラは全身が脱力していた。
脚は地面から離れ、首を掴む白い腕がギリギリと締め付ける。
やがて、完全に抵抗できない状態にあることを察したのか、首を絞める力が緩められた。
眠っているかのような穏やかな表情にシオンは一人語り掛ける。
「必ず、私が救ってみせる」
その言葉には凄みがあった。
シオンの瞳にはフィオラしか映っておらず、その漆黒の瞳の奥には狂気といえるほどの強固な覚悟が込められている。
「邪魔をする者は誰であろうと排除するわ。国家だろうが機関だろうが関係ない。私たちの邪魔をするなら全て消し去ってあげる。だから、フィオラは安心して。そして、私の代わりに人並みの幸せというものを享受してくれると嬉しいわ」
しばらくじっと見つめていたシオンは、力の抜けた優しい笑顔を見せる。
「うふふ……気絶しているから何も聞こえてないわね。それじゃあ、まずは村人たちを殺して回りましょうか」
そのときだった。
突如、シオンの顔面に向かって飛んできた火球が直撃した。
火球は弾け、大きな爆発音と伴に周囲を黒煙が包み込んだ。
「フィオラ!!」
シオンの手から離れ、崩れ落ちるように倒れたフィオラへブレッグは駆け寄る。
視界が不明瞭な中、気絶したフィオラを抱え上げると、シオンへ向けて炎の壁を発現させた。
次の瞬間には、シオンの視界が轟々と燃える真っ赤な炎で遮られる。
身じろぎ一つせず、目の前で起こる事象をシオンはただただ受け入れていた。
そして、呆れた様子で溜息を軽く吐き出す。
「ブレッグね。フィオラを置いて逃げたくせに、また戻ってくるとは思わなかったわ」
火傷どころか髪の毛一本すら燃えていないシオンは、炎の壁の向こう側にいるであろうブレッグへ問いかける。
「何しに来たの? フィオラのお友達だから見逃してあげたというのに。もしかして、自殺志願者だったりするのかしら」
冗談めかしてはいるが、シオンの笑顔には悪意が含まれていた。
「私と戦うの? それとも逃げるの? はたまた交渉でもしてみる?」
一向に返事は返ってこず、シオンは落胆するように肩の力を抜いた。
「はぁ、逃げたのね。つまらないわ。これ以上割って入られても嫌だし、殺してしまいましょうか。フィオラが悲しむのは辛いけど――」
そのとき、シオンはある異変に気付き、視線をキョロキョロと動かして炎の揺らめきを追いかけた。
「これは……幻影の類なのかしら。初めて見たわ」
異変の正体を確かめるように、炎の壁に何度も触れる。
シオンが来ているドレスの裾が炎に接近するが、燃えることはない。
「うふふ、面白い力を持っているのね」
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「けほっ……けほっ……」
「大丈夫か!?」
「気にしないでいいから……そんなことより、手を放して!」
「駄目だ! このまま街まで逃げよう!」
フィオラのか細い手を強く握り、薄暗い森の中を疾走する。
木の枝や背の高い雑草が二人の進行を妨害する度、ブレッグの手に握られた短剣によって切り開かれる。
「逃げ切るのは無理よ。必ず追いつかれるから」
「それなら俺が囮になるから逃げてくれ!」
「どうやって囮になるの? 一秒ですら時間を稼げるか怪しいでしょ」
「だとしても! 君には逃げて欲しいんだ」
俯きながら弱音を吐くフィオラの姿を見たくないブレッグは強く言い放つ。
「私なら大丈夫。シオンは私を殺すつもりはないみたいだから」
フィオラは内出血を起こしている自分の首を触り、シオンに握り締められていた箇所を確かめる。
――その怪我で、何が大丈夫だっていうんだよ。殺されない保証もないだろ。
痛々しい少女の姿に目を背けたくなる気持ちをブレッグはグッと堪える。
「もう一度、私が戦うわ。時間を稼ぐことに集中すれば、ブレッグが逃げる時間くらいは戦い続けられると思う」
「……俺が逃げた後は?」
「捕まるかもしれないけど、隙を見て逃げるわ。相手も人間なんだし、必ずどこかでミスを犯すはずよ」
「…………」
フィオラの言葉が嘘であることをブレッグは見抜くが、返す言葉が見当たらなかった。
二人の間に沈黙が流れる。
ただひたすらに森の中を走り続けた。
そして、最初に口を開いたのは――ブレッグだった。
「先に、一つ謝りたいことがある」
「え?」
驚いた様子のフィオラはブレッグの横顔を見つめる。
「戻るのが遅くなってごめん。フィオラが時間稼ぎをしていることに気付けなかった」
「……いいのよ。ブレッグと一緒に戦っても勝てる見込みはなかったから」
フィオラの正直な言葉にブレッグの心は傷ついたが、事実であることを認める。
「でも、どうせ謝るなら、もう一つ謝って欲しいことがあるわ」
「は?」
まさかの追撃に今度はブレッグが驚く。
「私の考えに気付いたならどうして戻ってきたの? そんなこと、望んでないのに……」
ブレッグが駆けつけたことで、シオンの魔の手からフィオラは間一髪のところで逃れることが出来た。
しかし、そのせいで今は二人分の命が危険に晒されている。
もしもブレッグが戻ってこなければ、少なくとも一つの命は助かったはずである。
「それは……」
ブレッグは自分の感情と向き合う。
無謀であるとわかっていながら、なぜフィオラの元へ向かってしまったのか。
素直な自分の気持ち、それは――
「フィオラが命の恩人だから」
「噓でしょ」
「……嘘をつきました。ごめんなさい」
「もういいわ。誤ったところで現状が変わるわけじゃないんだから」
――謝罪を要求してきたのはそっちじゃ……
ブレッグは理不尽さを感じながらも、その言葉だけは口にせず我慢した。
「それで、何か考えはあるの? 仮に街へ到着したところで、余計に被害が広がるだけよ」
フィオラの発言にブレッグは強い喜びを感じる。
つんけんしてはいるが、一緒に逃げる方法を考えてくれているのだ。
となれば、フィオラの期待に応えねばなるまい。
「さっきフィオラが呼び出していた生物に乗って逃げるのは?」
「クリスタを見ていたのね。確かに、もう一回くらいならぎりぎり召喚できるわ」
「それなら――」
「だけど、逃げ切るのは不可能よ。絶対に追いつかれる」
はっきりと言い切るフィオラは確信があるようだった。
空を飛ぶ龍より早く移動できる人間なんて普通なら信じられないが、シオンと対峙していたフィオラの言葉なら信じられた。
「そうなのか……というか、あれより早く走れるって、人間じゃないだろ」
愚痴を零すのは時間の無駄であるとわかっていても、ブレッグは文句を言わずにはいられない。
そのとき、あることが気になり、ブレッグは木々の隙間から空を見上げる。
「ん? でも、もし追いつかれたとしても、空を飛んでいれば手出しできないんじゃないか?」
「それも無理。シオンは空を歩けるから」
「……嘘だろ」
「本当」
ブレッグは自分の認識が間違っていたことを理解する。
これから相手にするのは人間ではない。
人という種族を超越した何かなのだと己に言い聞かせた。
しかし、だからといって諦めるわけにもいかず――
「じゃあ、奇襲だ。この森なら隠れられる場所をいくつか知っているから、不意打ちで倒すのは?」
提案者であるブレッグ自身も奇襲が成功する確率の低さをわかっていた。
しかし、このまま逃げ続けるよりも生還できる可能性が高いという計算だ。
「一か八かという考えね。私が気を引けばブレッグが一撃を入れることができるかもしれないけど……」
途中まで言っておきながら口籠るフィオラは何かを懸念していた。
「一応聞いておくけど、ブレッグは武器とか持ってるの?」
「大したものじゃないけど、これなら」
ブレッグは道を切り開くのに使っていた短剣をちらつかせる。
「予想はついていたけど、それくらいしかないわよね」
「やっぱり、これじゃあ歯が立たないか?」
「歯が立たないとか以前に、肌を傷つけることすらできないわ」
「……だよな」
流石にこれだけやり取りを続けていれば、ブレッグも驚かなくなる。
攻撃が通じないなら逃げるしかないが、逃げても追いつかれるという八方塞がりの状況。
それがわかっていたから、フィオラは逃げることを諦めていたのだと思い知らされる。
「だけど、悪くないわね……奇襲」
「そうか?」
「それ以外に選択肢がないともいえるけど」
フィオラ視点でも成功する可能性は低いのだろう。
しかし、悪くないということは、可能性がゼロではないという意味でもあり、ブレッグは僅かな希望を見出す。
「やろう。フィオラが悪くないと判断したのなら、俺はこの奇襲に全てを賭ける。絶対に……何があっても成功させよう」
意気込むブレッグに対し、フィオラは最後の確認を行う。
「ねぇ、今ならまだ遅くないわ。ブレッグ一人だけなら確実に逃げることができるのよ」
「まだそんなことを聞くのか? 何回聞かれても答えは変わらない。二人でこの窮地を脱するんだ」
「頑固なのね」
「お互い様だろ」
ずっと張り詰めた表情をしていたフィオラの口元が緩む。
**********************************
「随分と遠くまで逃げたじゃない」
森から抜け出したシオンの横顔を赤く染め上げられた夕焼け空が照らす。
辿り着いたのは平地だった。
膝の高さまで成長した雑草が一面に生えており、突如吹いた夕凪によって波を作るように揺れる。
「ここで止まったということは何かあるのかしら……って、あら?」
シオンの視界に入ったのは二人と一匹。
しかし、ぐったりとした様子のフィオラはクリスタに寄りかかっており、今にも倒れてしまいそうなほど弱っていた。
「魔力の欠乏? それにしてもかなり辛そうね」
「よけいな……お世話よ……」
相変わらず鋭い視線で睨むフィオラの態度にシオンは溜息を漏らす。
「これでも、心の底から心配しているのよ。フィオラの肉体は不安定な状態なのだから、無理に魔力を使い続ければ寿命をさらに縮めることになるんだけど……」
シオンの発言に噓偽りがないことをブレッグは直感する。
ブレッグは隣に立つフィオラを横目でちらっと確認すると、彼女の顔は血の気が引いて青ざめていた。
「フィオラ……」
「大丈夫。私のことは気にしないで。ちゃんと戦えるから」
これほど苦しそうな状態でも戦う意思を見せる少女にブレッグは何も言えなかった。
ブレッグの戦力は弱っているフィオラの足元にも及ばず、代わりに戦うことは出来ないのだから。
「まぁ、いいわ。寿命が縮まっても延命する術はあることだし」
「延命する気はないって何度言えば理解できるの? 寿命を迎えたら大人しく死を受け入れるつもり。ましてや、他人の命を奪ってまで生き延びようとするなんて、身勝手にも程があるでしょ」
「平行線ね。それなら実力行使しかないのだけれど……」
ブレッグと目が合ったシオンは優しく微笑む。
「ねぇ、ブレッグはどちらに味方する?」
「は? そんなの決まって――」
考えるまでもないと思ったブレッグが答えようとしたとき、シオンの言葉に遮られる。
「フィオラのことが好きなんでしょ?」
見透かされていたことにブレッグは驚き、胸が締め付けられるような錯覚を覚える。
第三者が見ていたら誰でも気付くであろう事を指摘されただけで、人との付き合いが浅いブレッグは挙動が怪しくなる。
「……だとしたら、フィオラの味方をするだろ」
「えぇ、そうね。そう考えるのが自然だと思う」
「何が言いたいんだ?」
「ブレッグは私と同じ立場のはずよ。フィオラに生きて欲しいと望むなら、私たちは協力し合えると思うわ。……このままだとフィオラは死んでしまうけど、ブレッグはそれでいいの?」
まるで、心の隙に付け込もうとするように、悪意のこもった笑みへと変わっていることをブレッグは気づく。
ブレッグは理解している。これはフィオラを動揺させるための策略であることを。
しかし、それでも本音で答えることしかできなかった。
「……いいわけ、ないだろ」
シオンの表情はぱぁっと明るくなる。
「そう! そうよね!」
本心から喜んでいるシオンの反応は、ブレッグにとって予想外だった。
言い包めようとするのではなく、感情を露わにしてきたのだ。
考え方次第ではこれも策略の一つと捉えることはできるが、それはもはや邪推とすらいえた。
「わかってくれて嬉しいわ。ブレッグが協力してくれるなら、延命の研究だって――」
「でも、どうしようもないことだって、この世界にはあるんだ」
「え?」
空気が冷たくなるのをブレッグは肌で感じ、全身に鳥肌が立つ。
シオンの黒い瞳は深淵より深く黒くなり、全てを飲み込もうとする勢いだった。
そんな世にも恐ろしい視線を向けられているブレッグ。
昨日までの彼であれば逃げ出していただろう。
だが、今は違う。
たった一日の出来事ではあるが、隣に立っている少女――フィオラとの出会いによって、ほんの少しだけ成長していた。
「悪いけど、俺はフィオラの意思を尊重したい。フィオラの人生を決めるのは俺たちじゃない」
「……なにそれ。仕方ないことだからって大切な人の命を諦めるの?」
「違う。俺はシオンとは別の方法を探す。誰の命も奪わないでフィオラを生き長らえさせる方法を」
「違わないわね。私が何年もかけて見つけ出した唯一の延命の方法がこれなのよ。残り僅かな時間で探し出すなんて絵空事に過ぎない」
「そんなことわかってる! だけど、俺は……」
ちょっと魔法が使える程度の一般人であるブレッグが、シオンですら成し遂げることの出来なかった偉業を達成することは事実上の不可能である。
それを自覚しているからこそ、ブレッグは強く歯を食いしばる。
「……フィオラを助けたい」
「ありがとう。そう言ってくれただけで私は嬉しい」
クリスタから離れ、ふらつきながらも一人で立ったフィオラはシオンと相対したままクリスタに手をかざす。
真っ直ぐ立つことが出来ないほど衰弱しているが、ブレッグのほうを向いて微笑む。
「……準備が終わったわ。まずは、この戦いに勝つことから始めましょう」
それはフィオラからの合図だった。
ブレッグは頷く。
次の瞬間、クリスタの幻影は消え去り、代わりに巨大な花の蕾が姿を現した。
フィオラの身長と同じくらいの高さがある蕾は真っ白な色をしている。
「これは、あなたに見せたことがなかったわね」
フィオラは蕾にかざした手をさらに近づけると、蕾の中心部が輝き出す。
大地から養分を吸収するように根に近い方から徐々に色付き、薄紫色の花弁がゆっくりと花開く。
それと同時に、ブレッグは周囲の景色が変化していることに気付く。
辺り一面の植物からは色が失われ、みるみるうちに枯れ果てていったのだ。
樹齢百年はくだらないであろうも立派な古木も、力強く咲いていた名も知れぬ花も、土に塗れた雑草も、全てが等しく枯れていく。
山から命が失われていく中、色素が失われた世界で一輪の鮮やかな花が咲こうとしている。
「……綺麗」
光悦とした表情でシオンは花を見つめる。
「たった一つの花のために、他の全てを犠牲にするのね。でも、それでいい。それだけの価値がこの花にはあるのだから」
シオンが言わんとしていることはブレッグでも理解できる。
光を放つ大きな花がフィオラで、その他の植物を村人に例えたのだ。
「やっぱり、私たちは姉妹ね」
「……一緒にしないで欲しいんだけど」
「どうして? この山に生息していた昆虫も動物たちもみんな死ぬのよ? 体は小さくても命の大きさは人間と同じだと思わない?」
「その言葉には同意するわ」
「含みがある言い方ね。事が済んだら全てを元通りにするとでも言いたいの?」
「……その通り。だから、あなたとは一緒にしないで!」
蕾の輝きは段々と強くなり、目を開けていることを苦痛に感じるほどの光に包まれた。
やがて、その光が花の中心部に収束すると、薄紫色の巨大な花が開花していた。
その花は蓮に酷似している。
花弁の真ん中は色が薄く、縁に近いほど色が濃い。
文句のつけようがないほど完璧で美しい花の中へとフィオラは躊躇なく踏み入る。
そして、花の中心に突き刺さっていた細身の長剣を引き抜くと、長剣の重量を確かめるように軽く一振りし、切っ先をシオンに突きつける。
エメラルドグリーンの刀身が夕陽を反射して煌めく。
「終わりにしましょう。今度こそ、あなたの凶行を止めてみせる」
「凶行って……酷い物言いね。私はフィオラを助けたいだけなのに」
「その言葉、聞き飽きたわ」
フィオラは態勢を低くして脚に力を溜めると、まるで閃光のように目にも止まらない速さで駆け出した。
一瞬で距離を詰められたシオンだったが、その表情にはまだ余裕があった。
眉間目掛けて突き刺そうとした長剣を、シオンは首を曲げて容易く回避する。
「相当無理をしているんでしょ。立っているだけで辛そう」
フィオラは長剣を振り抜いてシオンの顔を横一文字に切ろうとするが、即座にしゃがんで回避されてしまう。
「今のフィオラに私を止められるとは思えないわね」
「私はそうは思わないわ。あなたがこの一振りを避けることがその証拠よ」
高く振り上げた長剣をシオンの脳天へ向かって振り下ろす。
後方へ飛び退いて避けたシオンと追いかけて追撃するフィオラ。
高速で繰り出される無数の太刀筋をシオンは驚異的な反応速度で回避し続ける。
「まぁ、フィオラの握っているそれが私を傷付け得る代物であることを否定はしないわ。でもね――」
今までフィオラと距離を取るように逃げ続けていたシオンが一転、フィオラに向かって走り出す。
思いがけないの行動に驚くフィオラだったが、すぐに長剣を振りかぶって迎え撃つ態勢を整える。
そして、フィオラの間合いに飛び込んだシオンへ長剣が真っ直ぐに振り下ろされる。
「受け止めることは出来ないけど、軌道を変えるくらいのことはできるのよ!」
バチンという強い音とともに、シオンの左手によって刀身を横から叩かれた長剣ははじかれた。
すかさず、シオンの右手が伸びる。
「フィオラ!!」
ブレッグは思わず彼女の名を叫ぶ。
魔手から逃れようとするフィオラだったが、間合いが近すぎることもあり回避は不可能だった。
シオンの口角が吊り上がり、フィオラの首に触れようとしたとき――
「グァァア!!!」
シオンは反射的に鳴き声のする方向を向く。
そして、シオンが鳴き声の主を目で捉えるより先に、腹部に巨大な質量が衝突してシオンは吹き飛ばされた。
宙を舞いながらも、華麗な身のこなしで身体を翻して受け身を取る。
枯れた雑草の中、地面に片膝を落としながら顔を上げる。
「クリスタの姿は今の今まで探していたけど見つからなかったのよ。ブレッグが隠していたんでしょ」
「俺だって……少しくらいは役に立ちたいんだ」
「殊勝な心掛けね。でも、あなたにフィオラを救うことは出来ない」
「余計な事考えてないで、今は目の前の相手に集中したら?」
シオンの眼前に迫るフィオラは長剣を振り下ろす。
後退して距離を取り回避するシオンだったが、今度は着地先にクリスタの丸太のように太い腕で横なぎにされた。
回避が間に合わないことを悟ったのか、両腕を前に突き出してクリスタの腕を受け止める。
力比べは互角の様相を呈していた。
互いに一歩も引かず、両者の腕は小刻みに振動する。
「流石に……三対一で理を使わずに勝とうなんて……考えが甘かったかしら」
そこへフィオラが長剣で切りつけようと介入し、シオンは跳躍して大きく距離を取った。
「大怪我をさせるかもしれないから、使わないで済むなら使いたくないのよ。わかってくれる?」
夕陽の中を佇んでいるシオン。
ゆっくりと持ち上げられた彼女の両腕は周囲の空間を歪める。
「こっちだって対策は考えているんだから」
即座にしゃがみ込んだフィオラは地面に両手を触れる。
すると、フィオラの前方に小さな樹木の芽が生え出し、瞬く間に苗木から大樹へと成長する。
艶のある葉をこしらえた緑豊かなその樹木をクリスタは大きな手で鷲掴む。
そして、根元からへし折り大きく振りかぶると、シオンへ向かって全力で投擲した。
ぶん投げられた樹木はシオンの手前で地面に接触し、砕けた木片や土埃と一緒にシオンを襲う。
「ふふ、悪くないわ」
シオンが呟くと同時に投擲された樹木は球体状に大きく抉られ、シオンを素通りする。
木粉と土埃が舞う中、突き出されたシオンの左手に光の粒子が吸収されていく。
吸収し終わったシオンが橙色の空を上げると、そこには飛び掛かろうとしているフィオラの姿。
「でもね、考えていることがバレバレ」
目が合ったフィオラは顔が引きつる。
しかし、止まることの出来ないフィオラは意を決して切り掛かった。
そして、エメラルドのように輝く刀身がシオンの喉首を切り裂くより早く、長剣諸共フィオラの右腕は抉られ粒子へと分解される。
「……うそ」
呟いたのはシオンだった。
右腕を失ったフィオラの姿は靄のように消えてなくなる。
即座に背後を振り向いたシオンを待ち構えていたのは、長剣を振り下ろしているフィオラだ。
迷いのない琥珀色の瞳は切るべき箇所のみを真っ直ぐ見つめている。
シオンは重心を踵側へと置いて刃から遠ざかろうとするが、刃は既に彼女の肩へと届いた。
回避は間に合わない。
大きく袈裟切りにされたシオンは傷口から鮮血をまき散らす。
左肩から右腰にかけて深く切り込まれた傷はブレッグが素人目に見ても致命傷とわかった。
ふらつきながら数歩後退したシオンは傷口に手を当て、真っ赤に染まった自分の手を見つめる。
とめどなく溢れ続ける血液は白い肌を汚し、地面に生えている枯草を赤く染めた。
そして、まるで時間が止まったようにその場にいた全員の動きが止まる。
――終わりだ。
華奢な身体から大量の血液を流し続けるシオンを見て、ブレッグは決着したのだと思う。
シオンの死が確定したため、これ以上戦う必要がなくなったのだと。
しかし、実際は違った。
シオンもフィオラも予想外の出来事に驚いていただけだ。
重傷を負ったシオンに対して最大限の警戒を維持しながら長剣を構えなおすフィオラは焦りを見せる。
「くっ……! 骨を断ち切れなかった! 硬すぎるのよ!」
「そんな……あれでダメなのか……」
ブレッグの心を襲ったのは絶望。
短い時間で考え抜いた一度限りの奇襲が完璧に決まっても、致命傷を与えることは出来なかったのだ。
不意打ちは初撃が如何に重要かブレッグは理解している。
失敗とは言わないまでも決着をつけられなかった今、逃走が選択肢の一つに入っていた。
失血したシオンの動きが鈍り逃げ切れる可能性もゼロではない。
「教えてもらえる?」
目を見開いたまま立ち尽くしているブレッグに問いかけたのはシオンだ。
今も血液を失い続けているにも拘らず、悠長に話を続ける。
「人物の幻影なら見抜ける自身があったわ。ましてやフィオラの姿なんて騙されるはずがないと思い込んでた。でもね――」
シオンは横目でフィオラを見つめ、記憶に残っている幻影の姿と比較している様子。
そして、自分の目に間違いがないことを確信したようだ。
「あれは本物のフィオラの姿と酷似していた。写し鏡といってもいいくらいに。そんなことが魔法で可能なの?」
「……可能なんだろ。こうやって実際に出来てるわけだし。興味があるのか?」
このときブレッグが考えていたのは、どれだけ話を引き延ばせるかということだ。
――時間経過で不利になるのは血を流しているシオンだ。一秒でも長く気を引くしかない。
フィオラが長剣を構えたまま大人しくしているのは、ブレッグと同じ考えを持っているからだろう。
「興味津々よ。ブレッグのその力、何かに使えるかもしれないでしょ」
「何かって、またフィオラの延命の話だな」
「それもあるかもしれないけど、世界中から命を狙われている私の逃亡を手伝ってもらいたいわね」
「それこそ有り得ない。フィオラを裏切ったうえにシオンを手助けするなんて」
「ふふ、わかってるわよ。だからね、ほんと……惜しいわ」
最後に付け加えた一言からブレッグは寒気を感じる。
そして、ブレッグを見つめる黒い瞳。
例えるなら、それは死にゆく者を見つめる悲しい目をしていた。
「場合によってはブレッグを見逃してあげてもいいと思っていたのよ。フィオラの数少ないお友達なんだし」
今まで敵意を剝き出しにすることのなかったシオンの言葉を、ブレッグは嘘だとは思えなかった。
「だけどもう無理ね。あなたがいたら私の目的は果たせないみたい」
「そこまで評価してもらえるとは……自分のことを落ちこぼれだと思っていたけど、過小評価しすぎていたな」
「よかったわね。死ぬ前に気付けて。ついでに言い残したいことがあれば聞いておくわ。特別よ」
感情のない笑顔でにっこり笑う。
「遠慮しておくよ。俺はフィオラと一緒に今日を生き延びるって決めたから」
「強がって……哀れだわ」
シオンが理を発動させ、彼女の周囲の空間が歪み始める。
そのとき、シオンの背後を取っているフィオラにブレッグは気づく。
首を狙って横一文字に切り付けようとするが、タイミングよく屈んで回避したシオンは背中に目がついているようだった。
「そんなっ……避け――」
姿勢を低くしたシオンはブレッグに向かって走り出す。
重傷を負っているとは思えないほどの凄まじい速度で近づいており、ブレッグは死を覚悟する。
だが、そこに割って入ったのはクリスタだった。
ブレッグを守るように異形の巨体が立ちはだかる。
「グァアアァア!!」
「遊んであげる暇はないの」
叩きつけるように下ろされた長大な腕をひらりと避け、シオンはクリスタの胸元に入り込む。
「クリスタ……」
岩のように厚くてごつい背中を見守るブレッグ。
化け物のような見た目に最初は怖がっていたブレッグだったが、今はとても頼もしく感じていた。
しかし、現実とは非常なもので、クリスタの胴体にはぽっかりと大きな孔が空き、向こう側にいるシオンと目が合う。
孔の中を突き進んでいるシオンはブレッグへと右手を伸ばしている。
常人と大差ないブレッグがその刹那にとれる行動はなかった。
ただ突っ立っていることしかできないブレッグの首にシオンの指が触れたとき――
「させない!」
フィオラの声と一緒に眼前を風が通り過ぎる。
そして、はらはらと落ちる数本の黒い髪を見て、何が起こったのかようやっと理解した。
フィオラがシオンの指を切り飛ばしたのだ。
人差し指と中指が宙を舞い、傷口から流れ出る血液が二つの弧を描く。
身体の一部を失ったシオンの反応は――笑っていた。
「全て予想通りに事が運ぶと、ちょっと怖くなるわね」
フィオラの握っている長剣に左手を伸ばすシオン。
「くっ!」
間合いが近すぎて長剣を自由に振り回せず、フィオラは抵抗の意思を見せるが簡単に捉えられてしまった。
そして、刀身を素手で直接握りこむと、粉々に砕け散る。
「なにを……するのよ!」
とっくに柄を手放していたフィオラは上段蹴りをシオンの頭部にお見舞いする。
直撃したかに見えた一撃だったが、指の減った手のひらで防御され足の裏を掴まれてしまった。
「まだ!」
残っているもう一本の脚で蹴りを入れる。
今度は頬に入り、唇から少量の血液を流すシオン。
しかし、不安定な態勢での蹴りは威力が半減しており、決め手とはならなかった。
シオンは軽々とフィオラの脚を持ち上げて宙吊りにする。
なおも蹴り続けるフィオラをシオンは無視して、樹木の密集する森へ視線を向けた。
「やめろ!」
腕力に差がありすぎて止めることは不可能だと知っていても、ブレッグはシオンの腕に掴みかかる。
ブレッグに対して一瞥したシオンの瞳には哀れみが映っていた。
まるで、『非力な自分を恨みなさい』とでも語っているようだ。
そして、次の瞬間、シオンは容赦なくフィオラを森へ向かってぶん投げた。
少女の身体は細い樹木を何本かへし折り、最後に一際大きくて樹齢を重ねているであろう樹木に激突して止まる。
太い幹が揺れ、落ちた葉がフィオラに降りかかった。
ブレッグの位置からは遠くてよく見えないが、力なく樹木にもたれ掛かっている様子から気を失っていることは確かだ。
「フィオラ!!」
「大丈夫。あれくらいじゃ死なないから。それよりも、今は自分の身を案じたら?」
ゆらりと振り向いたシオンは目を据えて睨みつける。
生者のものとは思えないほど冷え切った視線に、ブレッグは死が迫っていることを実感して身の毛がよだつ。
しかし、フィオラが限界に近い状態でも懸命に戦っていたように、シオンもまた限界に近付いているようだった。
袈裟切りにされた傷口からは今も血液が流れ出て、失った二本の指の傷口からは血液が滴り落ちる。
「そっちの方こそ死にかけているように見えるけど」
「これぐらい大したことないわよ。機関に所属して頃はこのくらいの傷なんて日常茶飯事なの」
「そう……かよ」
ブレッグの手のひらに小さな炎が生まれる。
それは周囲の空気を巻き込むように回転しながら勢いをまして火球となった。
「ん? それなら一回試していたでしょ。私には火傷一つ負わせられないわ。何がしたいの?」
――俺だって抵抗しても無意味なことは理解している。ただ、フィオラを置いて逃げることが出来ないだけだ。
残り少ない魔力の全てをつぎ込まれた炎は燃え盛る。
「弱っている今ならわからない」
「そういうものかしら。まぁ、気が済むまで試してみたら?」
「言われなくても!」
覚悟を決めたブレッグはたった数歩の距離にいるシオンを見つめ、目標を定める。
――万に一つでも可能性があるとしたら、あれだ。
それは、袈裟切りにされた大きな切り傷。
傷口にぶつける形で投げ込む算段だった。
「はぁぁあああ!!!」
張り上げた声は恐怖心を隠して自身を鼓舞するするため。
大きな一歩を踏み込んだブレッグは、勢いに任せて火球を投げつけようとする。
そのとき、ブレッグの視界に入ったのは意地悪な笑顔。
手元から火球が離れるより先に、素早く近づいたシオンは間合いの内側に入り込んでいた。
そして、内緒話でもするように、耳元で小さく囁く。
「こういうのは好き?」
ブレッグとシオンは恋人同士が手を手を繋ぐように握り合う。
「なっ……!」
当然、間に挟まれている火球は暴発し、二人の手は炎に包まれた。
轟音とともにブレッグの顔を熱波が襲う。
「がぁっ!!あああああぁあ!!!!」
意識が朦朧とする激痛の中、辛うじて目に入ったのは焼け爛れた右腕だ。
真皮らしき白いものが所々露出しており、自分の腕とは思えない。
絶叫するも肺の空気は全て出きっており、それでも声にならない叫び声を上げ続ける。
「いい叫びね。なんだか、変な趣味に目覚めてしまいそうだわ」
「あ、あつ……い……」
シオンの戯言なんか耳に入っていないブレッグは俯いて痛みに堪える。
そんな彼の顎に手の甲で触れたシオンは、無理やり顔を上げさせた。
視界に入ったのは重度の火傷を負った腕。
「目を逸らしてはだめよ。まだ終わりではないのだから」
心の底から感じる恐怖心に歯が震えてカチカチと音が鳴った。
そして、平地に響き渡ったのは複数の骨が折れる音。
「ぐあああぁああぁぁ!!!!」
あまりの激痛に思わず涙が零れる。
ブレッグの右手は人差し指から小指までが手の甲にぺったりとくっついていた。
伸縮の限界を超えた手のひらの皮膚は裂け、傷口からは砕けた骨の一部が露出している。
「うふふ。痛い?」
再び俯いてしまったブレッグに対し、わかりきっている質問を投げかける。
額から尋常ではない量を汗を流し、歯を強く食いしばっているブレッグはなんとか意識を保っている状態だ。
質問に答える余裕などあるはずもない。
「あら? 聞こえてないのかしら?」
ドスっという重い音。
ブレッグの胸にシオンの半分しか握れていない拳が食い込む。
「がはっ……!」
走るだけで激痛に苦しんだ傷を直接殴られ、激痛に襲われると同時に息苦しさを覚えた。
ぐりぐりと深く食い込み続けるシオンの腕をブレッグは掴む。
「どう……して……こんなことを」
一思いに殺すことは簡単なはずだった。
シオンの理を使えば人を一人くらい消し去ることは容易であるし、怪力を使って首をへし折ることだってできる。
「どうして?」
不意を突かれたかのように、きょとんとしたシオンは考え込む。
胸に食い込んでいた腕の動きが止まり、ブレッグも手を離した。
そして、腰の後ろ側に隠していた短剣へと左手を伸ばす。
「人を痛み付けて……楽しいのか……?」
「楽しくないわ。でも、不思議だけど、あなたが叫び声を上げるたびに気が晴れていくの。言ってみればストレス発散?」
「妬んでるんだな、俺のことを」
「はぁ?」
眉をひそめたシオンは明らかに不機嫌になっていた。
この時点で、ブレッグは肉体的に不利ではあるが、精神的には対等な立場にいた。
「面白いことを言うわね。褪色者ですらない、なんの力も持たない弱者が!」
シオンの右手はブレッグの首を掴む。
親指と薬指と小指のたった三本しかない指で、ブレッグの首を折ろうと締め上げる。
骨はミシミシと鳴り圧迫により骨折してしまいそうだ。
しかし、指が足りていないおかげで血管と気道には隙間があり、即座に気絶することはなかった。
「枯れ枝のように脆い骨。私があと少し、ほんの少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうね。それで、さっきの発言を取り消すつもりはないの?」
「取り消した……ところで……事実は……変わらない……」
「強情な人。一応聞いてみるけど、なんでそう思うのかしら?」
「フィオラから……信頼されている……俺が……羨ましいんだ」
「ふふ……あははははは!!」
天を仰ぐように胸を張って大笑いするシオン。
ひとしきり笑い終わると、ブレッグに対して鋭い視線を向けた。
「その信頼に応えられなかったのは誰? 情けないことこの上ないわ」
「まだ……終わって……ない」
「終わりよ。クリスタも死んだし、フィオラも気絶している。この状況をブレッグ一人で打開できるわけないでしょ」
シオンは周囲を見渡す。
腹に大きな風穴を開けられたクリスタは口から大量の血を流して絶命しており、フィオラは樹木にもたれ掛かったままピクリとも動かない。
「この場に立っているのは私とブレッグだけ。あとはあなたを殺せば私の悲願は叶う」
「それなら……殺してみろ……」
安っぽい挑発。
だが、シオンはその挑発に乗ったのだろう。
首を掴むシオンの手は周囲の空間に歪みを生じさせる。
「まるで死にたがりね」
「俺は……必ず……フィオラを……助ける」
「はぁ。来世ではもう少し身の丈をわきまえなさい。出来もしないことを口にしている人間はみっともないわ」
聞き覚えのある言葉を発したシオンは、ブレッグに微笑みを向ける。
「さようなら」
空間の歪みが強くなり、空気から光の粒子となって分解が始まったその時――
ブレッグは隠し持っていた短剣でシオンの手首を切り飛ばした。
「え?」
シオンから切り離された手はゆっくりと宙を舞う。
ブレッグが握っていたのは刃こぼれのある使い古された短剣だ。
所々錆が浮いたその短剣では、一般人相手でも手首を切り落とすことは厳しいだろう。
しかし、現実として、事実として、シオンの手を腕から分断していた。
「うそ……」
手首から先を失ったシオンは呆気にとられており、大きく開いた目で切り口を見つめている。
シオンの動揺を好機と捉え、ブレッグでは心臓に向かって刃先を伸ばすが、なんの躊躇もなくシオンは前腕で受け止めた。
「くっ……そぉ……!」
刃は前腕を貫くが、柄が腕に引っかかる。
短剣に全ての体重を乗せて押し込もうとするが、石像のようにびくともしない。
ブレッグの焦りは額を伝う汗となって現れる。
早く止めを刺さなければ、シオンの手によって殺されてしまうことは確定していた。
「はああぁぁああ!!」
ブレッグの筋肉は限界を超え悲鳴を上げるが、それでも全身全霊の力で短剣を押し込み続ける。
全く変わることのなかった心臓と刃先の距離が、少しずつ近づいていき、胸に到達して一筋の血液を流す。
「ああぁぁぁ!」
一心不乱に短剣を押し込んでいたブレッグの脳裏にフィオラの微笑みが映る。
走馬灯のように流れる景色の中で、彼女は優しく笑っていた。
そんな笑顔もここでブレッグが死んでしまっては永遠に失われる。
「…………はぁ……はぁ……」
だが、力を出し切っても刃が心臓に届くことはなかった。
握力を失いかけ、まともに短剣を握ることもできない。
辛うじて短剣を落とさないように持っているだけの状態だった。
「惜しかったわね。何が起こったのかわからないけど、それはあなたを殺してからゆっくり考えましょう」
いまだに繋がれている二人の手。
ボロボロになったブレッグの右手と傷一つないシオンの左手が顔に近付く。
ブレッグの視界に映ったのは歪み始めた世界であり、シオンが理を発動させる前兆でもあった。
そのとき、強烈な咆哮が鳴り響く。
「ガァァアアア!」
シオンの左手に噛みついたのは、鋭い牙の隙間から大量の血を流す異形の怪物――クリスタだった。
ブレッグの顔に接近していたシオンの左手は引き剥がされる。
「……しぶとい。大人しく死んでしまえばよいのに」
「フゥー……フゥー……」
腹に空いた大きな孔から血を流しながらも、ブレッグを殺させまいと必死に抵抗していた。
そして、シオンの魔手が遠ざかったブレッグは強く歯を食いしばり、震える腕で短剣を再び押し込もうとする。
「痛ましい姿でよく頑張るわね。ブレッグも、クリスタも」
「…………」
「何があなたたちをそこまでさせるの?」
「信じてる……から……」
それを聞いたシオンは冷ややかな視線をブレッグへ送る。
「ふーん。とても素敵な言葉。そして、愚かな人間ほど好んで使う言葉でもあるわね」
「…………」
「そうやって希望を抱いたまま死ぬといいわ」
「そうさせてもらうよ…………でも、今回は俺たちの勝ちみたいだ」
次の瞬間、シオンの身体が短剣に引き寄せられ、心臓に刃が突き刺さった。
傷口からは鮮血が勢いよく吹き出し、周囲の枯草を赤で染め上げる。
シオンの腰に巻き付いた細い腕は背後から押されたことを意味した。
ブレッグはシオンの背後にいる人物へ視線を向ける。
その視線を追うように、シオンも背後を振り向く。
そこにいたのは、シオンの背中に顔を埋めたフィオラの姿だった。
「あぁ……そういうことね。また、騙された」
視線を戻したシオンが森の奥で樹木にもたれ掛かっているフィオラの幻影を見つめると、それは靄のように消え去っていく。
「はぁ、この私が敗北するなんてね。そんな日が訪れるなんて思ってなかった」
「俺たちだって、勝てるとは思っていなかったさ」
「それなら、どうして負けたのかしら。ねぇ、フィオラ?」
「……わからない」
顔を背中に圧しつけながら籠った声で答えるフィオラは憎しみや嫌悪といった感情が消えているようだった。
「なによ、それ。まぁでも――」
シオンはフィオラの腕を優しく撫でる。
「ふふふ、最後にこうやって抱き着いてもらえるなら悪くないわね……もう十分満足したわ。手を離して」
背後から抱き着いていたフィオラは手を緩め、崩れ落ちるようにシオンは倒れる。
枯草の上で仰向けになったシオンはとても大人しかった。
最期の力で道連れにされるのではないかと警戒していたブレッグだったが、その心配は必要なかった。
夜が訪れるかけている空をシオンは静かに見つめる。
輝きの強い星から順々に姿を現し、夕陽は弱まっていく。
「ごほっ……ごほっ……」
咳と一緒に血を吐き出したシオンは自分の胸に突き刺さった短剣へと手を伸ばす。
そして、勢いよく引き抜くと、眼前に持ってきてまじまじと見つめた。
傷口からおびただしい量の血液が溢れ出すが、そんなことは気にしていない様子だ。
「どうして……こんなものをブレッグが……」
柄頭に埋め込まれた琥珀が夕陽に照らされて輝きを放つ。
それは、シオンからフィオラへと渡された短剣だ。
細部にまで手入れが施されており、当時より状態が良いようにも見える。
「そんなに驚くほどのものではないでしょ。あなたが私に渡したのだから」
持ち主であるフィオラが答えると、シオンは儚げに笑った。
「とっくに捨てられたと思ってた」
「……ばか」
俯いたフィオラは素っ気なく言い返す。
「嫌いな人から受け取ったものを、普通はこんな大切に保管しておかないわ。本当に私のことが嫌いなの?」
「大嫌い。……でも、現在のあなたがどうなっていようとも、私の記憶に残っている姉の姿は変わらないわ。思い出が色褪せることはないの」
鋭利な刃で怪我をしないよう、親指と人差し指で刀身を摘まんだフィオラはそっと取り上げる。
「だから、これは私にとって大切なものなのよ。返してもらうわね」
フィオラの手に短剣が戻っていったのを見届けたシオンは満足げな表情を浮かべる。
「……最後に、これだけは言わせて。お願いだから、長生きして。フィオラには……もっと幸せな人生を歩んで欲しかった」
「それは……約束できないわ。出来るだけのことはするけどね」
「……そっか」
「悲しそうな顔をしないの。もしも私がすぐに死んだら、二人とも同じ世界で生まれ変わって、今度は本物の姉妹になればいいだけなんだから」
「ふふ……それは、すごく、楽しそう……」
「そうでしょ。でも、次は私が姉になった方がいいかもしれないわ」
「そんなの……ダメよ……フィオラは、私の、妹なんだから」
ゆっくりと瞳が閉じられ、動かなくなる。
「おやすみなさい。お姉ちゃん」
返事はない。
その代わりに、シオンの死に顔は柔らかい表情をしていた。
これが本当の表情なのだとブレッグは思う。
そのとき、シオンの肉体が崩壊し始める。
指先から灰へと変わっていき、一分もしないうちにシオンは姿を消した。
残ったのは服と灰だけ。
「さて、帰りましょうか」
最期のひと時を見守っていたブレッグの方へとフィオラは近づく。
背筋を曲げてゆっくりと歩く彼女は疲れ切った様子だった。
「終わった……ってことでいいんだよな?」
「ええ、ひとまずは。今後についていろいろと話したいことはあるんだけど――」
何かを言いかけていたフィオラは転び、草原に伏す。
「お、おい!」
急いで駆け寄ったブレッグの瞳に映ったのは、弱り切ったフィオラの姿だ。
「ごめんなさい……魔力、使い切っちゃった」
顔を上げることすらできず、うつ伏せになったまま話し続ける彼女は痛々しいほどに衰弱していた。
「そうだ! 薬! 確か、フィオラのポケットに入っていたはずだけど、何かない?」
「ないわ……だけど、大丈夫。休めば、回復……するから」
「でも……」
「……悪いけど、私を村まで運んでもらえる?」
そのとき、冷たい風に吹かれたブレッグは身震いする。
空を見上げると陽は完全に落ちており、すっかり夜となっていた。
一刻でも早くこの場からフィオラを連れ出し、身体が冷えないようにすることがブレッグの次の使命である。
胸のどっかの骨が折れているとか、右腕が使い物にならないとか、そんな事情は関係なかった。
「私、重いかも」
今更些末なことを気にしだしたフィオラにブレッグの緊張は解れる。
「重くないさ。むしろ、今まで運んでいた丸太や水の溜まった桶と比べれば軽いくらい」
「丸太と比べられるのは……複雑な気分」
「ははは。それもそうか」
ブレッグがフィオラに手を伸ばしたとき、視線を感じたブレッグは振り向いた。
「おやおや? もう一人いた気がしたけど、俺の気のせいだったか?」
そこにいたのは、月明かりに照らされた不気味な大男だ。
身長はブレッグよりも頭二つ分は大きく、深く被った帽子の隙間から二人をじっと見つめて観察している。
バラバラになった数人分の指を縫い付け合わせたような歪な手で顎を撫でる。
「お前たち二人が争っていたわけじゃあないだろ。だとすれば死体の一つでも転がっているはずだが」
きょろきょろと周囲を見渡していた継ぎ接ぎ男はシオンの灰を見つける。
「まさか……はぁ。それならもっと早く来るべきだった。殺し合いが終わるのを待ったのは悪手だったか」
「……なんの用だ」
突如として現れた謎の多い男をブレッグは睨みつける。
「用? そんなもの決まっているだろう。死体を回収しに来たんだよ。一つは灰になっちまったが、もう一つはまだ使えるみたいだ」
うつ伏せになって倒れているフィオラが指さされる。
「虫の息だけど生きているようだし、こりゃぁいい死体になるぜ。あ、ついでにお前も死体になっとくか?」
「ふざけるな!!」
「おいおい、俺が冗談でも言ってるように見えるのか? というか考えてもみろよ。あれだけ派手に暴れていたら、俺みたいな人間が集まってきてもおかしくないだろうが」
つまり漁夫の利を狙いに来たと言いたいのだろう。
そして、フィオラとシオンの戦闘を見ても怯えない程度には実力者であり、満身創痍のブレッグが勝利できる可能性はない。
「今は……逃げ、よう」
消え入りそうなフィオラの弱い声がブレッグの耳に届く。
状況を冷静に分析した彼女の判断は正しく、怒りに支配されていたブレッグも少しは落ち着きを取り戻す。
「……わかった」
「二人、なら……なんとか、なる」
『ブレッグなら』でも『私なら』でもない。
『二人なら』という発言はブレッグを心の底から嬉しくさせた。
「だな。絶対に逃げて、生き延びよう」
心が通じ合っている二人に対し、男は申し訳なさそうに割り込む。
「あー、その、言いにくいことなんだが、逃がすわけないだろ。俺を誰だと思っているんだ?」
「知るかよ。継ぎ接ぎ男!」
ブレッグの叫び声と同時に男の足元から蔦が伸び、脚に絡まり拘束する。
「なんだ? この細くて弱そうなもんは。これで動きを止めたつもりか?」
男は脚を動かしてぶちぶちと引き千切る。
「いいや。ほんの少し、俺たちから目を離すだけでいいんだ」
「は? 何を――」
顔を上げた男は驚愕する。
山火事が起こっており、辺り一面が業火に包まれていた。
「うぉわ!」
半歩後退るが、すぐに違和感に気付き口にする。
「――いや、熱くない。それに一瞬で山が全て燃えるなんてありえない」
ブレッグの言葉の意図を理解したのか男は走り出すが、既に二人の姿は消えていた。
「いないってことは逃げたのか。この絶望的な視程で知らない森を走り回るのは……不可能だよな」
大きな溜息は継ぎ接ぎ男の敗北を告げた。
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