001_目的


「まずいことになった」


 ブレッグは今、自分の住居――もとい、ぼろぼろの山小屋に戻ってきている。


 小屋はブレッグがこの地へ引っ越してきたときに購入したもので、最初は雨漏りはするは隙間風は吹くはで人が住める状態ではなかった。


 それを、時間をかけて少しずつ修繕していき、今ではやや狭いが快適に過ごせるようになっていた。


 小屋に使われている木材なんかは古いままだが、むしろそれがいい味を出しているとブレッグは思う。


 そんな狭くて古い小屋に似つかわしくない存在が今はいる。


 木製の椅子にちょこんと座っているフィオラだ。


「どうすればいいんだ……」


 ブレッグは新鮮な肉を目の前にして項垂れる。


 それは先ほどの魔物の肉であり、フィオラが再び召喚した巨大な腕によって小屋まで運んできたのだった。


 解体はフィオラの手伝いもあり、普段から狩猟していたブレッグにとっては何も問題がなかった。


 そう、問題があったのはその先だ。


「この肉、硬そうだし、臭みも強そうだよな」


 山に生息している動物を捌いて調理したことは何度もあるが、魔物は別である。


 魔物は駆除する対象であって、食料として認識したことは一度もない。


 それなのに、フィオラを引き留めたいという欲望に駆られ、つい出まかせを言ってしまった。


 いや、完全な嘘を口にしたというわけではない。


 魔物の肉を人が食べても問題ないという知識はあったが、その肉が旨いという話をブレッグは聞いたことがなかった。


 ――こんなものを食べさせるくらいなら、食べられないと嘘をついておけばよかった。


 中途半端に期待させてから落とすよりはいいだろう。


 ――正直に言って楽になろう。小屋にはまだ保存食が残っているから、それを使えば料理の一品や二品くらいは作れるはずだ。


 振り向いてリビングに視線を向けると、これから出てくる料理が楽しみなのかフィオラは少しそわそわしている様子で小屋を隅々まで観察している。


 大して面白いものはないが、フィオラにとっては山小屋での食事が珍しい経験なのかもしれない。


 ブレッグの視線に気が付き目が合うと、彼女は微笑み小さく手を振ってくれる。


 ブレッグも同じように小さく手を振って返すが、その表情はやや硬くなっていた。


 すかさず、何かあることを察知したフィオラは気に掛ける。


「どうかしたの?」


「その……ちょっと調理に時間がかかりそう……で」


「そういうことね。私は大丈夫、全然待ってられるわ。魔物の肉なんか食べたことないからすごく楽しみなの」


 ――そんな表情で見つめないでほしい。


 目を細めてブレッグを見つめるフィオラは、初めて食べる料理を楽しみにしているようだった。


 もしかしたら、魔物の肉が食用に向いていないことなんてフィオラは知っていたのかもしれない。


 しかし、ブレッグが『食べられる』と答えてしまったせいで、魔物の肉を美味しく食べられる特別な調理方法があるのだと思っている可能性すらある。


 ――こんなに期待されたら最終手段のすり替えは使えないか。


 こっそり用意していた兎の肉を引き出しの奥に仕舞う。


「やるしかないよな」


 覚悟を決めたブレッグは再び魔物の肉と向き合った。


 さっきの魔物との戦闘で分かったことが一つある。


 それは、窮地に追い込まれるほどブレッグは実力が発揮できるということだ。


 そして、今がその窮地であることに違いなかった。



 **********************************



 ブレッグが運んできた皿を見て、フィオラの琥珀色の大きな瞳はより一層輝きを増す。


 皿の上にはソースのかかったステーキと、付け合わせの香草が盛り付けられていた。


「――美味しそう」


 二人分の皿をテーブルに並べたとき、ブレッグの目に見慣れない物が写る。


 それは、フィオラに向き合うように置かれたアンティーク調の椅子だ。


「あれ? この椅子は?」


「ふふ。ブレッグが料理を作っている間に用意したのよ。ちょっとした恩返しってところかしら」


「いつの間に……」


 ブレッグは魔物肉の調理に集中しているあまり、フィオラがプレゼントを用意していたことに気付いていなかった。


 ちなみに、この小屋に客人が訪れたことなど一度もなく、招き入れるつもりもなかったため椅子は一つしか用意していない。


 そして、その椅子はフィオラに座ってもらっているため、ブレッグはそこら辺に転がっている丸太でも持ってこようと考えていた。


「さ、座ってみて」


 ブレッグは洒落た細工が施された背もたれを掴んで椅子を引き、ゆっくり腰を下ろす。


 椅子の作りは非常にシンプルだが、それ故に頑丈であり座っていて安心感があった。


 さらには肘掛けまでついており、長年使っていた――今はフィオラが座っている椅子よりも座り心地が良い。


 よく見ると継ぎ目が見当たらないことから、フィオラの魔法によって作られたのなのだろうとブレッグは推測する。


「どう?」


 たった一つの贈り物で物思いに耽るブレッグに対し、フィオラは首を傾げて不思議そうにしている。


「あ、座っていて居心地が良いよ。素敵な椅子をありがとう」


 素直な感想を伝えると、フィオラの口元から笑みがこぼれる。


「そう。気に入ってくれてよかったわ。あまり時間がなかったから簡素なデザインになってしまったけど」


 時間があったらどんな素晴らしい椅子が出来るのか気になるが、それは一度頭の片隅に置いておく。


「これから大切に使わせてもらうよ。さてと、冷めないうちに食べようか」


「ええ、早く食べましょう。実はもうお腹が空いて限界なの」


 空腹であることが恥ずかしいのか作り笑いで誤魔化そうとしている。


 フィオラの空腹感はブレッグも薄々気付いており、これ以上お預けするのは残酷とさえいえた。


 用意したナイフとフォークをブレッグが握ったとき、フィオラは両手を合わせて一言。


「いただきます」


 まるで祈りを捧げているかのような所作に、それを初めて見たブレッグは目を見張る。


 ――宗教? いや、もしかしたら貴族たちの作法という可能性もあるか。


 ブレッグは比較的に無知な部類の人間である。


 幼少期は村という小さなコミュニケーションで過ごし、青年期は街へ出たが一人でいる時間を好んでいた。


 そのため、自頭が悪いわけではないが、貴族や宗教といった興味の薄いものに対する知識は皆無であった。


 次はどんな動作をするのか内心気になっていると、フィオラはナイフとフォークを器用に使い一口大にカットした肉を口に運んだ。


 何事もなくて少しあっけなく感じると同時に、緊張感が押し寄せる。


「口に合うかな? 初めて作る料理なんだけど」


 唇の端っこにソースをつけたフィオラは小さな口を動かしてよく味わう。


 初めは不思議なものを食べているかのように戸惑った表情をしていたが、だんだん笑顔が溢れ出す。


「うん、うん。美味しい」


 その言葉が聞けてブレッグは安堵する。


「……よかった。まずかったらどうしようかと思っていたんだ。味見するの忘れてたし」


 普段は絶対に忘れない味見という重要な項目を見落とすほど、料理中は気が張り詰めていた。


 それこそ、緊張を通り越して気が動転していたと言っても過言ではないほどに。


 しかしながら、そんな小さなミスはあったものの、命を救ってくれた恩人に対して少しでもお返しが出来たことに嬉しく思う。


 ステーキを味わいながらナイフとフォークを動かしていることから、お世辞ではなく本当に気に入ってもらえているようだった。


「美味しいから安心して。というか、仮に美味しくなかったとしても、そんなこと言わないと思うけど」


 最期に不穏な一言が差し込まれ、ブレッグは少しドキッとする。


「そうなのか?」


「ふふ、そうよ。気になるのなら自分で確認してみたら?」


 フィオラにそそのかされるように、ブレッグもカットした肉を口に運んで出来栄えを確認する。


 味覚に集中するため目を閉じて嚙みしめていると、肉から溢れ出した汁とソースが舌の上で混ざり合う。


 白状すれば、濃いめの味付けをしたソースと大量にぶち込んだ香草で味を誤魔化しているだけだ。


 しかし、肉の臭みと合わさった結果、癖は強いが意外と悪くないものがそこにはあった。


 ――なるほど。フィオラの最初のリアクションの意味が分かった気がする。


 ブレッグとフィオラは黙々と料理を口に運び、魔物肉のステーキというあまり聞きなれないものを堪能する。


 すると、食事を続けながらフィオラはボソッと呟いた。


「実はね、ここ一週間は何も食べてなかったの」


「え!? 一週間?」


 そんな人間がいるなんてことをブレッグは聞いたことがない。


 突飛な話に手が止まる。


 目の前にいるのはブレッグでは想像もつかないほど偉大な魔法使いであり、不可能はないのかもしれないが――


「そういう魔法でもあるのか? 食事を取らなくても腹が減らない、みたいな」


 もしもそんな夢のような魔法が存在するなら、是非ともご教授願いたいとブレッグは期待する。


 口に運んだ肉を飲み込んでからフィオラは答えた。


「えっと、正確にはないけど、私は食事の代わりに光合成してたわ」


 『こうごうせい』とは何のことをいうのか、学び舎に行ったことのないブレッグは理解できなった。


 なんて返答すればよいか悩んでいると、フィオラが助け舟を出してくれる。


「ごめんなさい。あまり聞きなれない言葉よね。要するに、植物みたいに太陽の光からエネルギーを吸収しているってことよ」


「なるほど……?」


 ――植物みたいにって言われても、それすらわからない。というか、植物って光を吸収するのか。


 初めて耳にすることばかりであり、フィオラの話について行くことが難しい。


 前提とされている知識が丸っきり足りていないことを痛感する。


「興味あるの? 食事の必要はなくなるけど、普通にお腹は空くわよ」


「興味はあった、けど諦めるよ。俺にはまだ早いみたいだし」


 根本原理を理解できていないのに、その発展形である魔法を使いこなせるはずがなかった。


「それは残念ね。やっと弟子一号が見つかったと思ったのだけれど」


「……弟子を探しているのか?」


 心が揺れる。


 ブレッグが冒険者として活動していた時に最も強く望んだ存在が『師匠』だ。


 魔法を学ぶためには多額の授業料が必要であるため、今まで全て独学で学んできた。


 そのため、手探り状態で進むしかなく、初級魔法すら習得するのに大変な苦労を経験していたのだ。


 今からでもフィオラに魔法を教えてもらえれば、冒険者として復帰できるかもしれない。


 しかも、こんなに強くて可愛らしい師匠はいないだろう。


 意を決したブレッグが言葉を発するより早く、フィオラは口元に手を添えて小さく笑う。


「ふふ、冗談よ。弟子が欲しいのは本当だけど、時間がないから相手してあげられないもの」


 フィオラの言葉が冗談だったと知り、魔法を教えてもらえるかもしれないと期待していたブレッグは開けた口をそっと閉じる。


 そして、フィオラの弟子になりたかった気持ちを隠すように、ブレッグも冗談交じりで言葉を返す。


「……なんだ、冗談だったのか。少し期待したよ」


 内心では落ち込んでいたブレッグだったが、すぐにこれでよかったのだと思いなおす。


 一度諦めたことを未練たらしく追い求めない方がよいのだと。


 それに、才能の欠片もない自分が彼女の弟子になるなんて、思い上がりも甚だしい。


「もしかして、本当に私の弟子になりたかったりした?」


 ――ばれた。


 フィオラはブレッグの些細な表情の変化に気付いている様子だった。


 冗談を見抜けなかったブレッグとは異なり、フィオラは人の心を読み取る力にも長けているようだ。


 沈黙してしまったブレッグに対してフィオラは言葉を投げかける。


「気を悪くしたなら謝らせて。そんなつもりはなかったの」


 フィオラの顔から笑顔は消え、申し訳なさそうに目を伏せる。


「いや、いいんだ。本当に何とも思っていないから」


「でも……」


 ばつが悪そうな顔をしているフィオラは簡単には食い下がろうとはしない。


「俺は今の生活に満足しているし――」


「ねぇ、ブレッグが良ければだけど、私に推薦状を書かせてもらえない?」


「……推薦状?」


 今まで送ってきた人生の中で全くと言ってよいほど縁のない単語に、ブレッグは思わず聞き返す。


 パーティーから追い出されたことはあれど、誰かから推薦されたことなんて一度もない。


「私、友達は少ないけど、知り合いならたくさんいるの。その中には魔法の先生をしている人だっているのよ」


 平らな胸を張って自慢気に語る。


「ブレッグの師匠にするなら誰がいいかしら。実践重視で力をつけたいなら領域守護者なんかがいいわよね。それとも、基礎からしっかり学びなおすなら……」


 勝手に話が進んでいることに危機感を覚えたブレッグはフィオラを制止する。


「あのー。ちょっと考える時間をもらってもいい?」


 思考を巡らせていたフィオラは驚いた表情でまっすぐ見つめる。


「え、ええ。もちろんいいけど……嫌だった?」


「嫌じゃないし、推薦状を書いてくれるって言ってくれてすごく嬉しかったんだけど……」


 自身の複雑な心境を表すのに適切な言葉が思い浮かばず口籠る。


 推薦状を書いてもらうということは、フィオラの弟子にはなれないことを意味していた。


 そして、ブレッグはフィオラだからこそ、彼女の弟子という存在に憧れを抱いていたのだ。


 フィオラが紹介してくれる人物なら素晴らしい師匠であると確信しているが、それでも何か心に引っかかるものがあった。


「……そうよね。話を急に進めすぎていたわね。もし師匠を探したくなったら、出来るだけ早く私に手紙を送って」


 フィオラはそう言いながらポケットから取り出した小さい紙をブレッグに渡す。


 その紙には住所らしき地名が記載してあった。


 ここに手紙を送ればフィオラと連絡が取れるということだろう。


「ありがとう。感謝するよ」


「ふふ、大したことしてないわ。というより、まだ何もしてないといった方が正しいかしら」


 魔法に関する有識者とのコネクションを作ってくれると口約束しただけでも、十分何かしてもらっているように思える。


 そのため、ブレッグは思い浮かんだ言葉を口にする代わりに、心の中でフィオラにそっと感謝する。


 自然と微笑みが零れたブレッグに対し、フィオラも微笑み返す。


 出会った頃にあった変な緊張感はいつの間にか解れてきていた。


 初対面の相手には聞きにくいことも、初対面ではなくなった今なら聞ける。


「ところで、こんな山奥に来た理由って聞いてもいい? フィオラみたいな凄腕の魔法使いが来てもやることないと思うんだけど」


 出会った当初から気になっていた疑問だ。


 散策がしたかっただけ、というわけではないだろう。


 フィオラほどの魔法使いが派遣されるということは、それだけ深刻な事態が発生しているということである。


 地元住民のブレッグも気づいていない何かがこの山に起こっているのかと思うと不安になる。


 今は正常でも未来で事件が起こる可能性だってある。今回の魔物がその序章だって可能性も。


 思い詰めてしまったブレッグは、テーブルの上で手を組み考え込む。


 そんな深刻そうにしているブレッグとは対照に、フィオラは頬に人差し指を当てながら軽く話す。


「うーん、教えても全然問題ないのだけど。逆に聞いてみてもいい? どんな理由があって私がこの山に来たと思う?」


「え?」


 突然始まったクイズ大会に戸惑いながらも、それらしい答えをひねり出す。


「例えば……国からの極秘の依頼とか? そうだな、それこそ重犯罪者がこの山に逃げ込んで、そいつをフィオラが探しているとか」


 一番可能性が高そうな答えを導き出せたブレッグはフィオラの反応を伺う。


「ん~。まぁ、そんな感じよ」


 なんとも曖昧な返答が返ってきた。


 そして、気が張り詰めていないフィオラの様子から、危険なことは起こっていないのだと察する。


「人を探しているという一点に関しては正解かな。今日はある人に会いに来たの」


「ある人?」


 目的が人探しであるということはわかったが、次はその人が何者か興味が沸く。


 フィオラが直接足を運ぶほどの人物とは誰か。


 そんな人物がこんな田舎で生活しているとは思えず、全く見当もつかないでいた。


「どこから話始めたらいいかしら」


 フィオラは窓越しに緑で溢れる外の世界を眺める。


 そして、風に吹かれて揺れる木々を琥珀色の瞳で捉えながら話始める。


「ねぇ、異界と交信できる魔法使いの噂は知ってるわよね」


「異界……悪いけど知らないかな。世間とは関りが少なくて」


 山から出ようとしないブレッグにとって、世間の情報を仕入れる機会は非常に限られている。


 最後に人と会ったのも一か月以上前であり、噂や流行といった話には疎かった。


「え? そうなの?」


 窓を見つめていたフィオラは急にブレッグの方を向き、目を丸くしながら確かめる。


 そして、ブレッグが二回小さく頷くと、フィオラはぼそっと呟く。


「……おかしいわね」


 そんなフィオラの態度に、ブレッグはある違和感を覚えた。


 ――噂話を知らないくらいでそんなに驚くのか?


 確かにブレッグは世間知らずであることを認めるが、こんな山奥で暮らしている人間なら知らなくて当然ともいえよう。


 洞察力の高いフィオラならそのくらいの事は気付けるはずだ。


「あ、話を中断してしまってごめんなさい。……ちゃんと最後まで話しを続けるわ」


「お願いします」


 魔法使いの端くれとはいえ、異界に関連する魔法使いという未知の存在にブレッグは興味を持っていた。


「私も色んな人から教えてもらったんだけどね、その魔法使いは異界にいる人間と話をさせてくれるらしいの。それも、身体的特徴を伝えるだけで誰でも呼び出してもらえるみたい」


「そんなことが可能なのか?」


 至極当然な質問を口にする。


 『異界と交信する魔法なんて可能なのか』という疑問もあるが、ブレッグが一番気になったのは特定の人間を探し出す方だ。


 ブレッグが生活しているこの国だけでも数えきれないほどの人間がいる。


 異界にどれだけの人間がいるのか知らないが、身体的特徴だけでその人物を探し出すことは不可能に近いだろう。


「さあ。私も噂の内容を全て信じているわけではないわ。口頭で広がった情報なのだから正確性に欠けているはずよ」


「確かに」


 フィオラが話していたから簡単に信じていたが、これはただの噂話に過ぎないのだと自覚する。


 偽りは含まれている方が自然であり、そもそも異界と交信できる魔法が存在しなかったとしても驚くべきことではない。


「それでね。ここまで話せばわかるかもしれないけど、噂の魔法使いを探して辿り着いたのがこの地よ」


「なるほど。だから俺が噂を知らないことをそんなに驚いていたのか」


「ええ。地元住民なら何か知っているかもって期待していたから」


 話し終えたフィオラは可愛らしい外見にそぐわず深いため息をつく。


「はぁ。結構大変だったのよ。噂が爆発的に広まったせいで発生源を見つけるのに苦労したから」


 ブレッグはフィオラの心境に強く共感する。


 努力と結果が釣り合わないことなど往々にしてあることだが、ここまで大きく空振りをしたら愚痴だって言いたくなる。


「それは……お疲れ様です」


 まるで仕事終わりの先輩に労をねぎらうかのように接する。


 ブレッグにとってのフィオラは年下でもあり、先輩でもあり、友人でもある複雑な間柄になっていた。


「というか、噂が広まったのはそんなに早いのか?」


「たった数週間で大陸全土よ。今では知らない人の方が少ないと思うけど」


 ――大陸全土。規模が大きすぎて把握しにくい。


 人口も大陸の広さも雰囲気でしか理解していないブレッグには、正確にとらえることはできなかった。


「きっとこの世界では死が身近にあるのが一因ね。事故や事件で突然亡くなってしまった人に対して、伝えきれなかった言葉がたくさんあるのよ」


 大切な人を失った経験は幸いなことにまだないが、見たり聞いたことなら何度かあった。


 それに、この日だってフィオラに助けてもらえなければ、あっけなく死んでいたことだろう。


「つまり、大陸中の人間がその魔法使いを探していて、最初に辿り着いたのがフィオラってことか」


「私の予想が合っていればだけどね」


 弱弱しく笑うフィオラはその自信があまりないようだった。


 しかし、フィオラとは異なり、この時のブレッグには自信で満ちていた。


「絶対に合っているよ。フィオラはいままで俺が出会った中で最高の魔法使いだから」


「……ふふ、なにそれ。でも、ありがとね」


 冗談と思われていたかもしれない。


 しかし、大した根拠のない励ましでもフィオラに届いていたことは確かなようで、声色が少し明るくなっていた。


「そうだわ。最近変わったこととか、どんな情報でもいいから教えてもらえないかしら」


 フィオラはテーブルの上に身を乗り出してブレッグに質問する。


 突然距離が縮まったことに驚いたブレッグは反射的に後ろのめりとなるが、何もなかったかのように平然と顎に手を添えて考え出す。


「えっと、変わったこと……ね」


 思い当たる節はない。


 強いて挙げるなら、異常なまでに巨大な魔物と遭遇したことくらいだが、これはつい先ほどの出来事であり除外する。


 フィオラの証言では数週間で噂が広まっており、逆算すると少なくとも一ヶ月以上前には『何か』が起こっているはずなのだから。


「特に思いつかないかな。……あ、そういえば、ガフナス村の人たちからはもう話を聞いた?」


「村人がいるの? ここに来てから初めて出会ったのがブレッグだったから、その村の人たちには会ってないわね」


「なるほど」


 現在食事を取っている山小屋から一時間ほど歩いたところに、ガフナス村という小さな集落が存在する。


 彼らは街へ行って食材や資材を調達しているため、ブレッグよりも多くの情報を持っているはずだ。


 ――村長に話を聞いてみればわかることもあるかもな。


 ブレッグと村人たちの関りは薄いが、決して劣悪というわけではない。


 そっとしておいてほしいというブレッグの意思を村人たちが尊重し、互いに程よい距離感で付き合っていた。


 実際、村人たちが魔法の力を借りたい場合は、年老いた村長がわざわざこの山を登りブレッグに依頼しに来ていた。


 そして、ブレッグもできる範囲でその願いに応えており、対価として調味料など入手しにくい物をを頂いていた。


「噂の魔法使いに関して俺が知っていることは何もないし、ひとまずガフナス村に行ってみるのは?」


「すごく良いと思う。今は情報が足りていないから、もっと聞き込みをしたいわ」


 フィオラは薄緑色の鮮やかな髪を揺らしながら頷き、次の行動指針に従う意思を見せる。


 しかし、ブレッグの視線はテーブルの何もないところを見つめ続けており、傍から見ても考え事をしているのは明らかだった。


「何か気になることがあるの?」


「……少しだけ。もし新しい魔法使いが来たなら、挨拶に来てもいい気がして」


 村人たちにとっての魔法使いとはなんでもこなしてくれる便利屋のような存在であり、欠かすことのできない重要人物である。


 そして、異界と交信できるほどの魔法使いが来たなら、ブレッグのもとに少しくらい情報が届いてもおかしくはなかった。


 ブレッグがそう思い込んでいるだけという可能性もあるが――


「もしかしたら、何か事情があるのかもしれないわね。例えば、村人たちに匿ってもらっているとか」


 フィオラの憶測にブレッグは納得する。


 それなら、噂という形で情報が流布されたことと、村人が魔法使いの情報を秘匿していることに合点がいく。


 ブレッグが眉に皺を寄せて考えていると、パチンと手を叩く軽い音が耳に入る。


 顔を上げると、両手を合わせて頬に触れながら微笑んでいるフィオラ。


「ま、行ってみればわかるわよ」


 気の抜けるような明るさに、ブレッグは自分の表情が和らいでいくことを感じる。


 憶測に憶測を重ねるよりも、村へ行き実際に合って話を聞いてみたらよいのだ。


 そして、フィオラが村へ行くということは、ブレッグにも新しい役割が生まれるわけで――


「あ、そうだ。道案内は必要だったりする?」


 わざとらしさが現れないよう、『ふと疑問に思ったんだけど』という雰囲気を出しながら話しかける。


「えっと。ここからけっこう歩くのかしら? それなら案内があると助かるわね」


「了解。じゃあ、食事が終わったら村に行ってみよう」


 待ってましたと言わんばかりに返答する。


 しかし、これはブレッグにとって非常に思い切った発言だった。


 女性に対して行動を共にしようなんて提案をしたのは初めてのことで、顔には出さないが心臓は張り裂けそうなほど強く鼓動していた。


 失敗があるとすれば、拒絶されることを恐れて回りくどい言葉を選んでしまったことだ。


「……それってつまり、ついて来てくれるってこと?」


「あーいや、無理にとは言わないし、俺も村に行く用事があるから、ついでだし道案内しようかなと」


 一言、『君の力になりたいから』と言えないところがブレッグの人間性を表していた。


 そして、本当は用事なんてものは何もないが、恩着せがましい人間だと思われたくなくて適当なことを口にする。


「……どうでしょう?」


「ふふ。ありがとう。親切なのね」


 フィオラは全てを包み込むような優しい笑顔でにっこりと笑う。


 心臓が跳ね上がるような感覚を覚える。


 絶世の美女と言っても過言ではないフィオラの笑顔には見る者を魅了する力があると改めて実感したのだった。




 **********************************




 ブレッグを先頭に二人は森の中を歩いている。


 緩やかな下り坂になっている獣道であり、少し手を伸ばせば樹木や雑草に触れられるほど自然に囲まれていた。


 しかし、鬱蒼で窮屈な森に感じられないのは、それぞれの生物が互いに適切な距離を開けて自生しているからだろう。


 恐らく、長い年月をかけて繁殖と淘汰を繰り返した結果、現在の状態で落ち着いたのだ。


 まるで、近づきすぎないよう互いに気を使っているブレッグと村人たちのようにも思えた。


 深く深呼吸しながら森の雰囲気を堪能する。


 ――落ち着く。


 雑草特有の青臭くも新鮮な匂いが鼻腔をくすぐった。


 ――いや、やっぱり気が重くなってきたかも。


 この後に大人の付き合いが待っていることを想像してしまう。


 村長も村人も優しい人たちばかりだから、困っているフィオラの力になりたいと言ってくれるはずだ。


 しかし、問題はその先にある。


 村に対して貸しを作るということは、近いうちに返さなければならない。


 例え村から面倒な頼み事をされたとしても、それに答える義務というものが生じる。


 普通の人間なら当たり前のことだが、人との関わりを極力減らしていたブレッグには重くのしかかっていた。


 ――やめよう。いまは目の前のことだけに集中していればいい。


 なにも面倒な頼み事がくると決まったわけではない。


 不確定な未来を憂鬱に思っていても無駄というものである。


 少しだけ沈んだ気持ちを紛らわせるため、背後を歩いていたフィオラに声を掛ける。


「あと少しで村に着くよ」


 返事が返ってこない。


 ――無視してるわけじゃないよな。


 山小屋での食事を通して少しは親しくなれたと思っていた。


 それが思い込みではないことを再確認してから、もう一度声を掛けてみる。


「何かあったのか?」


 そう言いながら振り向くと、少し離れたところにいるフィオラはいた。


 地面を注視しており、足場として安定している木の根っこや石を探しながら、ピョンピョンと一歩ずつ進んでいる。


 ――そっか。悪いことしたな。


 土だって乾燥している箇所は砂となり、下り坂では簡単に足を取られて転んでしまうだろう。


 さらに、地面に転がっている折れた木の枝や、視界を邪魔する背丈の高い植物といった障害物もある。


 いつもの調子でスタスタと歩くブレッグについて行くことが、フィオラにとっては難しいことであると気づかされる。


 距離が開かないよう一生懸命ついてきていたフィオラは、ブレッグの足が止まっていることに気付くと顔を上げた。


「あ、ごめんなさい。歩くの遅かったわよね」


 謝るつもりだったのに先に謝られてしまい、どんな反応をすればよいか思考する。


「いや。謝るのは気遣いができなった自分の方だよ。ここら辺は地形も複雑だし歩きにくかったね」


 フィオラに謝罪したブレッグは空を見上げると太陽の位置を確認する。


 日は傾き始めたばかりであり、日没にはそれなりの余裕がありそうだった。


「うん。もう少しゆっくり行こうか。まだ――」


 ブレッグが顔を下ろすと、その横をフィオラが通り過ぎて行った。


「え?」


 驚いきながらもフィオラを目で追っていくと、地面に半分埋まった石の上で彼女は立ち止まる。


「ありがとう。でもね、このくらい全然大丈夫よ」


 振り向いたフィオラは微笑みながらこう付け加える。


「それにね、ガフナス村で早く話を聞きたいの。私が前を歩くからついて来てもらえる?」


 そう言うと、兎が飛び跳ねるようにピョンピョンと下り坂を再び歩み始めた。 


 フィオラの下り坂を下りる速度は意外と早く、徐々に慣れてきているようだ。


 逆に置いて行かれそうになったブレッグは急いでフィオラについて行く。


 そして、フィオラの背中に追いついたとき、思い浮かんだ疑問を投げかけてみる。


「ところでさ、フィオラは異界の魔法使いを探して何をしたいんだ?」


 軽快に飛び跳ねていた足がピタリと止まる。


 突然停止したフィオラに合わせてブレッグも急いで足を止める。


 そして、なかなか答えが返ってこないことにブレッグは焦りだす。


 ――やってしまった……。聞かれたくない質問だったってことだよな。


 まだその段階には至っていないのだと自分なりに理解する。


「知りたい?」


 人の顔が見えないことがこれほどまでに恐ろしいは知らなかった。


 問い返されたブレッグだったが、フィオラの顔が見えず言葉の真意を読み取れずにいた。


「いや、その、無理にとは……」


「ふふ、両親と話がしたいのよ」


 横顔を見せたフィオラは優しい微笑みを浮かべている。


 しかし、どこか寂し気で悲しい気持ちを押し殺しているように思えた。


 考えてみればそれは当然のことで――


「それって……つまり、フィオラの両親はもう……」


 『異界』とは死んでしまった人間が行く場所のことを指すのかと思っていたブレッグは、余計な詮索をしてしまったことを反省する。


「ごめん」


「え? どうして謝るの?」


 両眼を大きく開いて琥珀色の瞳を丸くしている。


「もしかしてだけど、何か勘違いをしていない? 両親は死んだりしていないわよ」


「でも、両親は異界にいるってことじゃ……ん?」


 フィオラはこの世界にいるのに、両親だけ異界にいるということになる。


 さらに、双方とも存命という話だ。


 どうすればそんな状況になるのか理解できずブレッグは混乱した。


 頭を悩ませているブレッグの様子を見たフィオラは小さく笑う。


「逆よ。死んだのは私の方」


「どういう意味? まさかアンデッド……のはずはないよな」


 死者がアンデッドとして蘇ることはある。


 過去に何度も戦ったことがあり、冒険者時代はアンデッドのおかげで飯にありつけていたとすら言える。


 しかし、知性の欠片も感じさせない彼らとフィオラが同種なんてことは、天と地がひっくり返ってもありえないだろう。


「今はちゃんと生きてるわよ。前の世界で死んで、生まれ変わったらこの世界にいたってことね」


「……生まれ変わり?」


「あ、この世界では褪色者って言った方が伝わるかな」


 褪色者という言葉に聞き覚えはない。


 というより、別の世界から生まれ変わった人間が存在するということを初めて知った。


 神から転生したと自称して信仰を集めている『自称生まれ変わり』なら見たことがあるが、ブレッグはそんな話を信じるようなメルヘンチックな考えの持ち主ではなかった。


 しかし、フィオラが話すのであれば別だ。


 彼女こそ前世では神や英雄に近い存在であり、だからこの世界では普通の人間とは比べられないほどの力を持っているのだと説明されれば納得できてしまう。


「生まれ変わるなんて、そんなこと可能なのか?」


「私も原理はわからないわ。でも、私はここにいるわけだし、他にも褪色者は存在するのよ」


「それって、フィオラみたいな力を持った人間が他にもいるってことだよな」


「えっと、能力は千差万別だけど、私が知っているだけでも二十人以上はいるわね」


「……全然知らなかった」


 別に全てを知っていると思っていたわけではない。


 ただ、自分の知っている世界が狭すぎたのだと思い知らされただけだ。


「あ、それで、両親に話したいことって?」


「ふふ、他の人が聞いてもあまり面白くないわよ」


 フィオラは遠くに聳え立つ名も知らぬ山を見つめる。


 遠くでの世界で暮らしている両親のことを考えているか、その表情からはあどけなさを感じさせた。


「お父さんとお母さんに伝えたいの。『私、この世界で元気に生きているよ。安心していいよ』って」


 フィオラほど偉大な魔法使いがなんのためにこんな山奥に来たのかと考えていたが、なんてことはなかった。


 ただただ、悲しんでいる両親のことを想っての行動だった。


 誰かからの依頼等であれば、どこかで身を引こうとブレッグは考えてた。


 しかし、こうして彼女自身の願いを叶えるためだとわかり、彼女の力になれることをより一層強く願う。


「なんて言っているけど、実は両親がまだ生きているかわからないのよ。私が死んでからかなりの時間が経過しているんだもの」


 フィオラは笑顔でそう語る。


 成就する確率は限りなく低いと分かっている様子だった。


「せっかくブレッグには協力してもらっているのに、無駄だったらごめんなさいね」


 ブレッグは胸の内に何か込み上げてくるものを感じる。


 無駄であると頭では理解していながら、それでも諦めることができない願いをフィオラは追い求めているのだ。


 ブレッグの人生の中で、そこまで一生懸命になれたことは一度もない。


 無駄なことは遠ざけてきたし、努力を積み重ねてきたことでも簡単に諦められた。


 諦めることができないほど強い願いを持っているフィオラのことが羨ましくもあり、妬ましくもある。


 そして、願いを持てない自分の代わりに、フィオラの願いを大切にしたいと思えた。


 だから、たとえ叶うことがなかったとしても――


「やれることは全部やってみた方がいいと思う」


 その瞬間、フィオラからは笑顔が消え、隠されていた本当の感情が露わになった。


「……どうして?」


 理由を聞かれたブレッグは何か良い建前を急いで考える。


 本音を打ち明けて本当の自分を曝け出したら拒絶されるのではないかという恐怖心があった。


「それは……」


「もう何年間も別の世界とコンタクトを取る方法を探してきたの。そして見つかった唯一の手掛かりが噂話よ」


 今までフィオラがしてきた努力はブレッグにはわからない。


 しかし、噂話という細すぎる糸を手繰って山奥に来てしまうくらいだ。きっと想像すら難しいだろう。


「ねぇ、ブレッグは異界の魔法使いが実在すると思う?」


 空気が重く感じる。


 フィオラから悪意を感じているというわけではない。


 ただ、この質問に対して安易な気持ちで答えてしまってはいけない気がするのだ。


「俺は……」


 唾を飲み込み、意を決する。


「実在すると思う。実在しなかったとしても、俺がその魔法使いの代わりになれるよう努力するよ」


 少しの沈黙の後、フィオラから笑いが漏れる。


「ふふ。そうなのね。それなら、私以上に凄い魔法使いにならないといけないわね」


 その笑顔は紛れもなく心の底から笑っているものだった。



 **********************************



 ガフナス村とは、山と山の間にある比較的小さな窪地に作られた集落である。


 村には三十人ほどの人間が住んでおり、村長の家を中心として、すり鉢状に民家と畑で囲むように配置されていた。


 下り坂も緩くなり、多少は整備されて歩きやすくなった道をフィオラとブレッグは歩いている。


「見えたわ。あれがガフナス村ね」


 フィオラが樹木の間を指差すと、そこには茅葺屋根の民家があった。


 ブレッグが生活している小屋と比べたら立派ではあるが、街にある平均的な家よりは小さくて古びていた。


 洗濯紐に干してあるくすんだ色の服や置きっぱなしになっている農具からは、良くも悪くも生活感を強く感じさせる。


 そして、その民家は間もなく村に到着する目印でもあった。


「そういえば、手土産とか用意してなかったけど大丈夫かしら」


「気にしなくていいと思うけど」


 『俺も貰ってないし』なんて野暮な考えは急いで頭から消す。


 村の人たちは皆が協力的で優しい人たちばかりだ。


 それに、いざとなれば頭を下げてフィオラの力になるよう頼めばよい。


 村で発生した問題を何度か魔法で解決したことのあるブレッグの頼みなら、簡単には断れないはずである。


「でも、せっかく村を訪ねるんだから、何かあった方が……」


「あ、それなら、フィオラの魔法で村の仕事を手伝ってあげるとかは?」


 例えば、井戸の古くなった滑車を作り直すだけでも凄く感謝されるだろう。


 フィオラがブレッグのために作った椅子は見事なもので、それを応用するのは難しくないように思える。


「なるほど。いいわね、それ」


「じゃあ、村長と話すときに、それとなく提案してみるよ」


「ありがとう。頼りに――」


 その瞬間、何かを感じ取った様子のフィオラは立ち止まった。


 急に止まったものだから、追い越してしまったブレッグは振り返る。


「何かあった?」


 返事は返ってこないが、フィオラの様子から『違和感を感じ取った』ことは間違いなさそうだった。


 フィオラは身体を大きく動かさず、最小限の眼球の動作や嗅覚から周囲の状況を把握しようとしている。


 魔物を相手にしても全く警戒しないフィオラを知っているブレッグは自然と肩に力が入った。


「どうしたんだ?」


「……」


 返事はなく、常に優しく微笑んでいる彼女の態度とは思えない。


 フィオラが何を警戒しているのか知る由もないが、せめて説明くらいはして欲しいと思う。


 ブレッグがフィオラの肩に手を伸ばそうとしたとき、まるで何かに憑りつかれたかのようにフィオラは突然走り出す。


「え?」


 ブレッグは走るフィオラを目で追いかけるが、その加速は凄まじく瞬く間に視界から消えてしまった。


 ――本当に何があったんだ。


 数秒考えてみたが当然の如く答えは出ない。


 となれば、次に考えなければいけないのは、フィオラを追いかけるか否かだ。


 ――あの様子はガフナス村に向かったってことだよな。


 ここから先は一本道であり、無理やり草木を掻き分けて進んだりしない限りは村へ到着する。


 ――それなら、村のことを良く知っている自分がいた方がいい……よな? 緊急事態の時は村長の家を案内することだってできるし、村人と話をするときもより潤滑になる……はず。


「……早く追いかけないと」


 もとより選択肢は一つしかなかったが、合理的な理由で自分の行動の正当性を補強したブレッグは全速力で走り出す。


 道に伸びてきている木の枝が体に当たろうとも速度が落ちることはない。


 フィオラから少しでも離れないように自分が走ることのできる限界の速度を維持する。


「はっ……はっ……」


 リズムよく呼吸を続けながら走り続ける。


 その速度は全く落ちることなく、むしろ体が温まったことで徐々に加速していた。


 一般的な魔法使いは筋力や体力よりも知力や魔力を重視する傾向が強く、ブレッグのように呼吸を乱さず走れる人は少ないだろう。


 これだけ強靭な足腰を手に入れられた理由は、山小屋での不自由な生活にある。


 薪が切れれば木を伐採して小屋まで運び、小腹が減れば山菜を探しに山をうろつく。


 さらに、毎日欠かすことなく湧水を汲みに行き、一日の生活に必要な量の水を運搬しなければならない。


 そんな生活を三年間も続けていれば、体力がつかない方が不思議といえる。


 軽快に走り続けていると、前方に太陽の光が当たる道が目に入った。


 ――村の道だ!


 そして、森を抜けると樹木の葉で作られた天井が消え、ブレッグは直射日光に晒される。


 瞳孔が大きくなっていたブレッグは強すぎる光を浴びて顔をしかめると、走るのをやめて歩き出す。


 眼が太陽光に慣れるとすぐに、周囲を見渡してフィオラの姿を探した。


「村には着いたけど……フィオラはいないか。どこまで行ったんだ」


 ブレッグが辿り着いたのは、村の端にある段々畑のあぜ道である。


 農作物が風に揺られたり、地面を這っている虫を小鳥がついばんでいたりと、とても長閑な光景が広がっている。


 死角となって見えていない場所――農作物の影などを注意深く見てみるが、フィオラどころか村人の姿すら見えない。


 ――誰かいればフィオラが向かった方向とか聞けたんだけど。


「しょうがないか。ここら辺にはいないみたいだし、それなら村長の家を目指さないと」


 この村に何かが起こっているのなら、フィオラは必ず村長のもとに辿り着くはずである。


 それなら先回りしておいて、フィオラという人物がこの村にいることを村長に説明しておこうという考えだ。


 小走りに村の中心へと向かいだしたブレッグの足取りは軽く、依然としてどこにいるかもわからないフィオラを探してキョロキョロと周囲を見る。


 軽快に走っていた時、突然の鈍痛に襲われてブレッグは足を止めた。


「ぐぅ、いった……!」


 その場に立っていることさえ辛くなり前傾姿勢をとると、全身から噴き出すように汗が流れ出した。


 額を流れる汗は止まらず、鼻先から滴り地面を濡らす。


 原因は一つしかない。


「薬……切れたのか」


 フィオラの前では強がっていたが、胸の傷は想像以上に深刻だった。


 痛みの程度からして、何本かの肋骨が損傷ことは明らかである。


 それなのに全力疾走で森を駆け抜けたのだ。


 薬の効力が失われた今、耐えがたい痛みに襲われているのは当然の結果と言える。


「はぁ……はぁ……」


 予備の薬を持ち合わせていないブレッグに出来ることは、ただ痛みに耐えることだけだった。


 せめてもの対処として、肺が大きく膨らまないよう肩を使って浅く呼吸する。


 とはいえ、呼吸を変えた程度で痛みが完全に取り除かれるなんてことはなく、数刻前と同じように苦悶の表情を浮かべていた。


「……行かないと」


 胸を手で押さえながら顔を上げたブレッグは恐る恐る一歩を踏み出す。


 鈍痛から激痛に変わっていた痛みに襲われるたび眉に皺を寄せるが、歯を強く食いしばって耐える。


 全身を流れる汗は止まらないが、せめて肋骨に振動が響かないよう一歩一歩ゆっくりと進み続けた。


 ――この村に何かが起こっていることは間違いないんだ。


 フィオラの反応には理由があることを確信していたブレッグは周囲の観察を続ける。


 すると、畑に隣接するように建てられた一軒の民家が近づいてきた。


 他と大して差がない、この村では一般的ともいえるやや古びた民家だ。


 ブレッグの小屋を一回り大きくした程度であり、二人から三人が住めるサイズ感である。


 それでも、人の少ないガフナス村で十分な大きさと言えるのかもしれない。


 この民家が空き家という可能性もあったが、もしも誰かに出会えれば情報を入手できる貴重な機会でもあった。


 室内は薄暗くて太陽の光を窓ガラスが反射しているため、室内の様子を遠目に確認することはできない。


 ――気は引けるけど、少し中の様子を見てみよう。


 他人のプライバシーを侵害する行為をブレッグは最も嫌う。


 しかし、万が一、ガフナス村に脅威が近づいているとなれば、そんな悠長なことは言ってられない。


 風が吹くたびにカタカタと音を立てる窓へブレッグは近づいて聞き耳を立てる。


 ――人の気配は……ないか。


 声や生活音は聞こえてこなかった。


 この時点で民家に人がいる可能性は低いが、念のため窓に付着していた土埃を手で振り払ってから室内を覗き込む。


 ――怒られたらなんて謝ろう。


 今のブレッグの姿を見られたりしたら、泥棒や不審者と思われるかもしれない。


 そうならないためにも、一目見て誰もいなければ速攻でこの場を離れるつもりだった。


 そして、いざ窓ガラスに黒い瞳を近づけたその瞬間、ブレッグの身体は硬直して身動きが取れなくなる。


 ひと際強く吹いた風が草木を揺らし、ブレッグに警告するかのようにざわつく。




「……うそ、だ」




 まばたきすら忘れるほど衝撃的な光景に、口から漏れ出した微かな声は震えていた。


 室内を満たしていたのは『血』だ。


 壁には飛沫した血液が、床には大きな血だまりが、室内の至る所に血液がべっとりと付いていた。


 人間一人分の血液を絞り出して振り撒いたと言っても過言ではないほどのおびただしい量。


 液体は既に乾燥しており、黒に近い赤――本能的に忌避してしまう色へと変色している。


 何よりも悍ましいのは床に点々と落ちている赤い物体だった。


 どうしても、それに焦点を合わせることが出来ないブレッグは、血液によって木目の浮かび上がった壁を見つめたまま硬直している。


 木目から視線を外せばより恐ろしいものが目に入る気がして、眼球を動かすことすら恐怖に感じていた。


「うっ……」


 建付けの悪い窓の隙間から漂ってきた鉄の匂いが吐き気を催す。


 呼吸を止めたブレッグは反射的に窓枠から顔を遠ざけた。


 あまりに酷い臭いから涙目になるブレッグだったが、幸運なことに室内から目を離すことができて身体の硬直が少し解ける。


 「早く……この場から、離れないと」


 それは、病人のようにか細くて弱弱しい声だった。


 関節が固定されて棒のようになっていた脚に意識を強く集中すると、少しづつ動き出す。


 脚と地面は接したまま、引きずるようにしながら後退して民家との距離を取る。


 絶対に窓だけは見ないように地面を見つめながら、一歩ずつ下がり続けた。


 やがて、敷地から脱出できたブレッグは、民家に背を向けて深呼吸を繰り返す。


「はぁ……はぁ……」


 極度の緊張感から予想以上に体力を消耗していたのだと気づかされる。


 ――どうして、なんで、誰が……


 ブレッグが知る限りでは、ガフナス村は差別や事件とは無縁の村だった。


 村人同士が協力し助け合う、一言で表せば平和の象徴のような村。


 やや排他的な面も持ち合わせていたが、それは自己防衛のためである。


 これほど残虐な事件が起こる理由なんて何一つ思いつかない。


 呼吸が整ったブレッグは村全体をざっと見渡す。


 ――それより、さっきから人の姿が全く見えていないということは既に……


 最悪の事態が頭をよぎる。


 もとから人の少ない村ではあるが、畑で農作業をしている人も見えないというのは明らかに異常だった。


 その事実に気づいたブレッグは村の静けさが恐ろしくなる。


 風の止んだ今、砂を踏みしめるブレッグの足音だけがやけに大きく聞こえた。


 ――早くこの村から逃げないと。いや、フィオラと合流するのが先か。


 大きく息を吸いこんでフィオラの名を叫ぼうとするが、すんでのところで思いとどまる。


 ――駄目だ。殺人犯がどこにいるかもわからない。このまま声を上げたらそいつを呼び寄せるかもしれない。


 血痕は乾いていたが、だからといって殺人犯が遠くにいるという根拠もない。


 殺人犯が村に潜んでいるとしたら、フィオラだけを探すことは不可能である。


「今はこの村から離れ――」


 そのとき、キィという木材同士が擦れあう高い音が鳴り、ブレッグの鼓動は跳ね上がる。


 首だけ振り向くと、音の発生源は畑を挟んだ隣の民家だった。


 真っ直ぐ開くことのできない古びた扉は、耳に残る嫌な音を発しながらゆっくりと開いて途中で止まる。


 次の瞬間、民家の中から扉の端を掴んだのは血で濡れた細くて華奢な指だった。


 その指が掴んだ箇所の木材は血で染まり、扉を伝って一筋の線となる。


 そして、なかなか開こうとしない扉を力強く何度も乱暴に押すと、扉はミシミシと叫び声を上げた。


 ――まずい、まずいまずい! 早く逃げ出さないと!


 正体のわからない相手と接触することは、この状況においてリスクでしかないとブレッグは判断した。


 だが、それと同時に自分の身体に違和感を覚えたブレッグが脚へ視線を落とすと、肥大した太腿の筋肉が強張っており小刻みに震えていた。


 ――あ、足が動かない。動け。動いてくれ。今だけでいいんだ……。


 扉の曲がる音はだんだんとバキバキいいだし、その時は着実に近づいていた。


 ついに痺れを切らしたのか、民家の中から蹴りが繰り出され、扉は木端微塵になりながら吹き飛ばされる。


 土煙が舞う中、姿を現したのは琥珀色の瞳を持った少女だった。


 その少女の表情は暗く冷たく、瞳の奥には明確な殺意が込められている。


 怒りや悲しみは混在していない純粋な殺気のみが彼女を周りを包み込み、まるで暗夜が訪れているかのように錯覚させる。


 背筋がぞっとするほど重い雰囲気を放つ少女は村の中心に向かって歩き出した。


「フィオラ……なのか?」


 消え入りそうなほど小さな声に反応した少女は振り返り、ブレッグの存在に気づ付く。


 それと同時に瞳には明るさが戻り、表情は柔らかくなっていった。


「あ、ブレッグ」


 フィオラはローブの袖をパタパタと揺らしながら小さく手を振る。


 その姿を目にしたブレッグは糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。


「え! どうしたの!?」


 フィオラは駆け足で近づいてくると、ブレッグの肩を優しくさする。


「大丈夫? 何かあったの? 怪我とか?」


 反応はない。


 放心状態で力の抜けていたブレッグだったが、フィオラがうっすらと涙を浮かべていることに気付いてはっとする。


「ごめん。フィオラに合えたら力が抜けちゃって」


「え、それだけ? ……本当に?」


「本当に」


 頷くブレッグの言葉が信じられないのか、フィオラはブレッグの周りを一周して全身を軽く確認する。


「はぁ。びっくりしたのよ」


 と小さな声でため息交じりに呟く。


 フィオラから差し出された手をブレッグは掴むと、膝に手を添えながらゆっくり立ち上がった。


「フィオラ、君に聞きたいことがあるんだ」


「……この村に起こっていることでしょ? その質問をするってことはブレッグも見たのね」


「じゃあフィオラも?」


「ええ。ここの民家でも二人分の遺体が見つかったわ」


 冷静に告げるフィオラとは対照的に、ブレッグは口を開けたまま放心状態となっていた。


「そんな……」


「たぶんだけど、この村を訪れた部外者が村人たちを殺していったのよ」


「どうしてそんなことを……。みんな親切で優しい人ばかりなのに」


「きっとそうなのよね。だから、何も疑わずに家へ招き入れたのかもしれないわ」


 困っている人には施すことがこの村では当たり前であり、そうやって小さなコミュニティ内で村人たちは共存していた。


 それが最悪な形で事件を引き起こしたとしかいえない。


「酷い、酷すぎる。人の善意につけこんで……」


「私もそう思う。だから、これまでに犯した罪を全て償わせる。絶対に」


 道の先を漠然と見据えるフィオラの瞳には殺意が垣間見えるが、次の瞬間には消えていた。


「あのね、ブレッグはこの村から逃げてくれない?」


「は? どうして?」


「危険だからよ。それ以外に理由はないわ」


 フィオラはきっぱりと言い切る。


 しかし、二つ返事で了承できるほどブレッグも大人ではなかった。


「……いや、俺が言うのも変だけど、フィオラの近くにいた方が安全なんじゃないか。殺人犯が村を離れている可能性もあるわけだし」


「それは……そうかもしれないけど……」


 上手い返しが見つからないのか、煮え切らない様子で『でも』とか『ええっと』とか呟いている。


 結局何も思いつかなかったフィオラは、ブレッグに近づき鋭い視線で見つめる。


「ついてきたら死ぬかもしれないわよ。その覚悟はあるの?」


「ついて行かなくても死ぬ可能性はあるわけだし。それに、フィオラには命を救ってもらっただろ。いつだって覚悟は決めてある」


 初めて自分の本音を口に出せた気がしたブレッグは清々しい顔をしていた。


 しかし、ブレッグの覚悟を聞いたフィオラの表情はだんだんと重くなり――


「……わかったわ。それなら一緒に行きましょう」


 ――あれ? 予想した反応と違う。 普通ならこういう時、喜んでくれるはずだけど。


 人付き合いの浅いブレッグでもそれくらいのことは理解している。


 内心でブレッグが戸惑っていると、フィオラは村の中心に向かって歩き出した。


「村長の家ってこっちであってるのよね」


「え、ああ。そうだけど」


「早く行きましょう。これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかないわ」


 スタスタと歩いて行ってしまったフィオラを、ブレッグは胸を押さえながら追いかける。


「ところで、胸の怪我は大丈夫なの?」


 背中にも眼がついているのではないかと思わせる発言に、ブレッグの表情は固まる。


 フィオラは通り過ぎる民家を警戒していて、背後のブレッグの様子は見えていないはずだった。


 ――直感が鋭すぎないか。


 危機が迫っていることで感性が鋭くなっているのかもしれない。


 ブレッグの胸の怪我が想像以上に深いことを悟られれば、小屋へ強制送還されることは間違いないだろう。


 ――ここは、気付かれないように真実を織り交ぜて誤魔化すか。


「薬が切れて痛んできたけど、歩くくらいなら余裕だよ。痛みも少しずつ引いてる気がするしね」


 と言いながら姿勢を正して額の汗を拭くブレッグは、いつフィオラが振り向いてもいいように備える。


「……そう。でも、何かあったら言うのよ。ブレッグも怪我人なんだから」


「もちろん。その時は甘えさせてもらうよ」


 安堵のため息をついていると、ブレッグの視界にあるものが入った。


「さっきから気になっていたんだけど、その手についている血はどうしたんだ?」


「あ、これは……。ちょっと気になることがあったから遺体を調べさせてもらってたの」


 フィオラは血で汚れることなど気にせずローブでその手を隠す。


 追加の説明を期待していたブレッグはフィオラの言葉を待つが沈黙が流れるだけだった。


「えーっと、何かわかった?」


「……いいえ。何も」


 ――さっきから何か様子が変だよな。これ以上聞かない方がいいのか?


 人の心に踏み入ることを大の苦手とするブレッグは悩みあぐねる。


 ブレッグは超えてはいけない心の線を一度も踏み越えたことがなく、それ故にどこまで近づいて良いのかも判断できないのだった。


 ――この緊急事態に聞くことでもないけど、何か大切なことのような気もする。


 フィオラの直感がそうさせたように、このときのブレッグの直感も何かを感じ取っていた。


「答えたくないなら、答えなくていいんだけど――」


「ブレッグ、私の後ろを離れないで」


「え?」


 急に立ち止まったフィオラは村の奥を見据えていた。


 発言を遮られたブレッグが背中に視線を向けるより早くフィオラは走り出す。


 一つ変わったことは、ブレッグがついてこれるように速度を緩めていることか。


 ――配慮してくれてるからついていける。でも、胸の怪我が……。


 だんだんと強くなる痛みから目を背けるように強く目を瞑る。


 ――今はフィオラについて行くことだけに集中するんだ。


 平たんな道かつ村が静まり返っていたため、足音を頼りにフィオラの後ろを走ることは難しくなかった。


 民家を数件通り過ぎたかというところでフィオラが足を止め、それに合わせてブレッグも減速する。


 そして、目を開けてしまったブレッグは、目の前に落ちているモノを不幸にも見てしまう。


「なんだよ、これ……」




 それは、人の服を着た肉塊だった。


 正確には、血で真っ赤に染まった服を纏っている肉の塊。


 不思議なことに皮膚や骨は見当たらず、鮮やかな色の肉と内臓が剥き出しになっている。


 袖の近くに落ちている五枚の爪が、肉塊が元は人間であったことを証明していた。




 ブレッグは胃から込み上げてくるものを抑え込むように手で口を覆う。


 日頃から動物を狩っていたブレッグにとって、動物の肉も内臓も見慣れたものである。


 それが、人間のものであると認識しただけで、これほど強烈な吐き気に襲われるとは思っていなかったのだ。


「おぇ……」


 ブレッグの異変に気付いたフィオラはローブを広げ、ブレッグの視界からそれを遮る。


「あまり見ない方がいいわ」


 そういうフィオラの視線は肉塊のある方を向いており、状態を詳しく観察しているようだった。


「ふぅ……ふぅ……」


 吐き出さないようにゆっくりと呼吸を整えているブレッグの心に浮かんだのは一つの感情だった。


 ――情けない。


 肉体的にフィオラより劣っていることは仕方のないことだとブレッグは考えていた。


 しかし、精神的にも劣っているとなると話は変わる。


 何事からもすぐに逃げる癖のついたブレッグは意志の弱さを自覚させられたのだ。


 そんな自分のことを嫌悪しながら、ブレッグはフィオラの横顔を見つめる。


「フィオラは……大丈夫なのか?」


「私は慣れてるから」


 淡々と答えるフィオラの心情をブレッグは読み取れない。


 ただ、彼女の横顔がどこか寂しそうに見えたのは間違いなかった。


「ブレッグ、ちょっとだけ目をつぶってて」


「あ、あぁ」


 指示されたブレッグが素直に瞼を閉じると、耳に入ってきたのはフィオラの歩く音。


 それに続いて、ぐちゅぐちゅといった不快な音が鼓膜をなぞる。


 頭では拒んでいても、搔き立てられた想像力を止めることはできない。


 瞼の向こう側で起こっている出来事を理解してしまったブレッグは背筋が震えた。


 ――フィオラの方が嫌な思いをしているんだ。これくらい耐えられなくてどうするんだ。


「もう目を開けていいわよ」


 恐る恐る瞼を開いたブレッグは、蔦が肉塊を覆っていることに気付く。


「まだ温もりがあったわ。被害に遭ってからそれほど時間が経ってないはずよ」


「それはつまり……」


「殺人犯が村に潜んでる可能性が高いってことね。早く行きましょう」


 再び走り出したフィオラの後ろをブレッグはついて行く。


 再会したときはフィオラの指先だけに付着していた血が、今では手のひら全体を包むように濡れている。


 ――俺はフィオラより年上だし、なにより男だ。……それなのに、フィオラだけが手を汚して、何もできない自分が恥ずかしい。


 フィオラの小さな背中を頼もしく感じていた自身を恥じ、ブレッグは拳を強く握りしめる。


 ――実力不足が悪いと思ったことは一度もないけど、ここまで苦しい思いを味わうことになるとは思わなかった。


 ここまでの出来事を振り返っていたブレッグはあることを思い出し、反射的にフィオラに問いかける。


「そういえば、魔法使いの噂は関係ないのか?」


 そもそもの話、なんの変哲もないガフナス村が噂になるということ自体が異常といえた。


 噂の中心人物である異界の魔法使いが犯人ではないとしても、何かしら事件に関係するのではないかとブレッグは考察する。


「……わからないわね。でも、細胞から分解されたみたいに筋線維もボロボロだったし、こんなことは普通の魔法じゃ説明が付けられないのは確かよ」


「なるほど。殺人犯が只者じゃないってことはわかった」


 ブレッグの語彙力ではフィオラの説明は難解といえた。


 それでも、何とか理解しようと脳内でフィオラの言葉を繰り返していると、フィオラが足を止めて指さす。


「ねぇ、あれが村長の家じゃない?」


 ブレッグが急いで顔を上げると、確かにそこにはひと際大きな民家が存在していた。


 周りの民家と比較すると年季が入っており、補修が繰り返された壁からは長年にわたって手入れされていることが窺える。


「もう着いたのか。あれが村長の家であってるよ」


 警戒しながら村長の家に辿り着いた二人は、遠目に室内の様子を観察しながらゆっくり近づく。


 人の気配はなく、他の民家と同様に静まり返っていた。


 フィオラが扉に手を掛けた時、ブレッグはフィオラと扉の間に手を差し込み待ったをかける。


「どうしたの?」


 フィオラは不思議そうにしながらブレッグの顔を覗き込む。


 ブレッグは見えないはずの扉の奥をじっと見つめながら石のように固まっていた。


 そして、決心がついたブレッグは唾を飲み込みフィオラに視線を向ける。


「俺に、先に入らせてもらえないか?」


「……その言葉、本気なの?」


「自分が何を言ってるのかわかってる」


「命の保証はできないわよ」


「それも承知してる」


 睨んでいるといっても過言ではないほど鋭い眼差しを向けられたブレッグは一瞬怯む。


 しかし、それでも頑なに扉の前から離れないでいると、フィオラは小さくため息を吐き出した。


「はぁ、わかったわ。ブレッグなら村長の顔だって知ってるし、きっと家の構造も知ってるってことよね」


「……話が早い。というか、そんなにすんなりと受け入れて貰えるとは思ってなかった」


「覚悟を決めた人の気持ちを蔑ろにしないわ。それから、わかってると思うけど少しでも異変を感じたらすぐに私の後ろに逃げるのよ」


「うん。もちろんそうする」


 フィオラとバトンタッチしたにブレッグが扉と相対する。


 目の前の扉を開くことが怖くてたまらないブレッグだったが、フィオラが背後にいることで背中が暖かくなったかのような錯覚を覚えた。


 ――後ろにいるのがフィオラじゃなかったら、こんな役を引き受けようとしなかったよな。


「それじゃあ、開けるから」


 ブレッグが扉の取っ手を掴んだ時、背後から弱弱しく小さな声がかけられる。


「絶対に死なないでね」


 しかし、ゆっくり開く扉の向こう側に集中していたブレッグに、その言葉が届くことはなかった。




「特に変わったところはない……みたいだ」


 玄関から見える範囲に異常はないため、慎重に室内の様子を観察する。


 人が争った形跡や誰かが土足で踏み入った足跡などはなく、軽く見渡した限りでは怪しいところもない。


 そのとき、フィオラは玄関であるものを発見して拾い上げる。


「ねぇ、これって村長の……」


 フィオラが手にしたのは所々継ぎ接ぎが施された小さな靴だ。


 当然ブレッグはその靴に見覚えがあり――


「たぶん、村長のものだと思う。こんな靴を履いていた気がする」


「それなら、村長は室内にいるのね」


「でも、物音がしてないってことは……」


「まだ決めつけるのは早いわ。もしかしたらどこかに隠れてるのかもしれないでしょ」


「……その可能性はあるか」


 ブレッグは土足のまま恐る恐る室内に足を踏み入れ、どこかの部屋にいるかもしれない村長の姿を探す。


 そして、広間に入ったブレッグは早くも村長の姿を目にする。


「あ、あぁ。そんな……」


 後ずさったブレッグはフィオラとぶつかりよろめいた。


「どうしたの?」


「……村長が」


 ブレッグは肉の塊となってしまった村長を振るえた指でさす。


 椅子の上には肉塊が、床には零れ落ちた内臓があり、その両者を長細い器官が繋いでいた。


「……ごめんなさい。全て私の責任だわ」


 肉塊を見つめるフィオラの眼は焦点が外れており、何か思い詰めている様子だった。


「フィオラは何も悪くない。全て悪いのは村人たちを無差別に殺して回っている殺人犯だろ」


「違うのよ……そうじゃなくて……私が――」


 そのとき、室外から足音が聞こえてきた。


 素早く屈んだフィオラをブレッグも真似し、二人は息を潜める。


 フィオラはブレッグの眼を見ながら唇に人差し指を当て、ジェスチャーの意味を理解したブレッグは頷く。


 姿は見えないが、音の間隔から歩いていることは把握できた。


 ――たぶん、俺たちが今まで歩いてきた道を歩いてるな。


 壁越しでも足音の位置は把握できたため、その位置に合わせて壁を目で追う。


 足音は少しずつ近づいて来ており、ついに開けっ放しになっていた扉の手前で足を止める。


 緊張のあまり呼吸も瞬きも忘れてブレッグは扉を凝視していた。


 そして、『誰か』が顔だけ出して室内を覗き込む。


 逆光のため顔は見えない。


 しかし、影の形から長髪であることは明らかであり、次の瞬間に女性であることが確定する。


「フィオラ?」


 たった一言であるが、琴の音を連想させるような聞いているだけで心地よい声。


 フィオラの美声に負けじと劣らない美しい音色であり、比較して優劣を決めることすら咎められた。


 緊張が緩和したブレッグは喉の奥に滞留していた空気を吐き出す。


 ――フィオラの知り合いか?


 名を呼ばれたフィオラの方へ視線を向けると、彼女の瞳にはあの時と同じ殺意がこれ以上ないほど込められていた。


「お、おい、フィオラ!」


 周囲の空間に充足した魔力がフィオラの薄緑色の髪を持ち上げ漂わせる。


 臨戦態勢はとうに過ぎており、魔力が貯まりきった瞬間に魔法が放たれることは確実だった。


 残された猶予は短い。


「待ってくれ! 向こうに敵意は――」


 ブレッグがフィオラに向けて手を伸ばしたところで時間切れ。


 フィオラの内から放出された魔力は衝撃波を伴いながら爆発的に拡散してゆく。


 同時に民家の壁や床に使われていた木材が曲がりだし、急成長したかのように伸び続ける。


 そして、民家の中を埋め尽くすほど大量の樹木が、玄関から覗き込んでいた一つの影に対して襲い掛かった。


 玄関側にある壁を全て吹き飛ばすほどの力に、凄まじい轟音と振動が轟く。




「……ここは」


 地面に横たわっているブレッグは空を流れる雲を目で追う。


 ――さっきまで直前まで室内にいたはずなのにどうして。


 樹木がフィオラの知人を襲うまでの一部始終を見ていたが、ブレッグにとっては非常に短い時間で理解が追い付いていなかった。


「いってぇ……!」


 地面に叩きつけられたせいなのか、胸がひどく痛む。


 ブレッグが胸の傷を押さえたとき、腹の周りをぐるりと巻いている植物に気付く。


「蔦?」


 近くの森では一度も見たことのない、太くて丈夫そうな植物だ。


 不思議なことに、その植物はみるみるうちに枯れてしまい、灰のようにボロボロになって崩れ落ちた。


「フィオラが逃がしてくれたのか」


 そう考えるのが妥当なところだろう。


 樹木の魔法で攻撃するのと同時に、蔦の魔法でブレッグをこの場所まで逃がした。


 複数の魔法を同時に扱うことの難易度の高さを知っているブレッグだったが、フィオラなら可能であることを認める。


 そんな枯れた植物の跡を目で辿ると、遠く離れた場所に村長の家を見つけた。


 ――だいぶ遠くに飛ばされたんだな。


 室内にはフィオラがいるはずだったが、室内を埋め尽くす樹木と漂っている粉塵のせいで姿を確認できない。


 そのとき、空から覗き込んだ『誰か』がブレッグに影を落とす。


「あなたはフィオラのお友達?」


 琴の音のような美しい声は、何事もなかったかのように声色を変えずに優しく問う。


 今も影になってはいるが、距離が近づいたことでしっかりと顔を捉えられた。


 それはそれは美しい、端正な顔立ちの妙齢の女性。


 全てを吸い込みそうなほど黒い瞳と、肩の下まで伸ばした鉛白の長髪を持ち、レースの付いた黒いドレスで蒼白の肌を包み込んでいる。


 白と黒の継ぎ接ぎで構成されている彼女は生と死を体現しているみたいで、不思議な魅力を持ち合わせていた。


 高名な絵画と遭遇したとき自然と目が離せなくなるように、ブレッグは目の前でにっこりと微笑んでいる女性と見つめ合う。


「フィオラと一緒にいたわよね?」


 彼女の言葉から感情は読み取れない。


 しかし、答えなければ質問が終わらないことを察したブレッグは一呼吸置いてから答える。


「たぶん……俺は友達だと思ってるけど」


「やっとあの子にも友達ができたのね。嬉しいわ」


 ブレッグの返答を聞いた女性は再びにっこりと笑う。


 先程の笑顔と違う点は心の底から喜んでいるように見えることだろうか。


 そんな奇妙な雰囲気を纏っている彼女に対し、ブレッグはどこか親しさを感じていた。


「よかったら名前を聞かせてもらえないかしら?」


「ブレッグ。……えっと、君は?」


「私はシオンよ。よろしくね、ブレッグ」


 と、ここまで話していて、ブレッグは未だに自分が寝転がっていることに気付く。


 上体を持ち上げようと地面に肘をついたブレッグは胸の痛みに襲われる。


「うっ! いった……!」


 予想していた痛みとはいえ、それを上回ってきた激痛に煩悶する。


「怪我をしているみたいね。かなり深刻そうに見えるけど、一人で立ち上がれる?」


「大……丈夫。大したことはないから」


「強いのね。あなたみたいな男の子がフィオラを守ってくれれば私も安心できるわ」


 ――俺がフィオラを守る。そんな日がいつか来るならいいけど。


 立ち上がったブレッグは両手を背後で結んだシオンと向かい合う。


 実際に立ち上がるまで気付かなかったが、シオンの身長は女性としてはかなり高い部類だった。


 胸を押さえて前屈みになっている今のブレッグよりはシオンの方が背が高く見える。


「えっと、シオンさんはどうしてガフナス村に?」


「うふふ、フィオラの友達なんだから、よそよそしい呼び方はしないで。シオンでいいわ」


「それじゃあ……シオンはこの村で何を?」


「そうねぇ、どこからどこまで話そうかしら」


 思い出話に花を咲かせるかのようにニコニコしているシオン。


 しかし、ブレッグは緊張感から顔の筋肉が強張っていた。


 ――シオンが殺人犯だとは思えない。だけど念のため、彼女の反応で殺人犯かどうかを見極めよう。


 シオンは少し悩んだ挙句、ブレッグの問いに対して平然とこう答えた。


「私にもいろいろな事情があるのだけれど……。一言で説明するなら、異界の魔法使いを探しに来たのよ」


 嘘を口にすることが多いブレッグの直感は告げる。


 ――嘘だ。


 ブレッグに根拠はないが、自分の直感が正しいのだとこの時は理解できていた。


 そして、シオンの嘘に気付いてしまった自分の動揺が伝わらないよう、表情を必死に取り繕う。


 ――異界の魔法使いを探していることは事実だと思う。けど、もっと重要なことを隠している気がする。なにより、俺が求めていた言葉を返して、無理やり納得させてしまおうという意思を感じる。


 嘘をつく能力に関してはブレッグの方が一枚上手だった。


 そして、シオンの嘘が意味するところはただ一つ。


 ――つまり……この村の人たちを殺したのはシオンだ。


 ブレッグが事実に辿り着いたとき、背後からフィオラの叫び声が届く。


「ブレッグ!! 逃げて!!!」


 振り向くとそこには顔の青ざめたフィオラが。


 焦りと恐れが滲み出ている琥珀色の瞳は、ブレッグがいかに危険な状況に晒されているかを物語っていた。


 十歩も歩けば手の届くその距離が、今のブレッグにはとても遠く感じる。


「何をそんなに怖がっているのかしら? 私はブレッグとお話をしていただけなのに」


 その場を掌握していたのはシオンだった。


 ブレッグとフィオラは迂闊な行動がとれず身構えることしかできない。


「うふふ。なんだか私が人質を取ってる悪者みたいね。フィオラの所に行っていいのよ」


 シオンの漆黒の瞳を見つめたブレッグは嘘をついていないことを理解する。


 しかし、だからといって足を動かせるかは別問題だ。


 反応を見せない二人に対して呆れたのか、小さくため息をついたシオンは数歩後ずさる。


「どう? これでいいかしら?」


 その瞬間、姿勢を低くしてフィオラはブレッグの前に素早く飛び出す。


 まるで親猫が子供を守るかのように、ブレッグのことを小さい背中で隠す。


「そこまで警戒しなくていいのに。それに、フィオラが守らなければいけないほどブレッグは弱くないと思うわよ」


「……煩い」


 シオンの言葉に初めて反応を見せたフィオラ。


 フィオラはシオンのことを恨み憎しみ嫌っていることは誰が見ても明らかだったが、当の本人は嬉しそうに微笑む。


「あぁ、やっと口を利いてもらえたわ。久しぶり再開だというのにずっと無視されて辛かったのよ」


「……だからなに?」


「なにってこともないけれど……」


 フィオラの厳しい態度にシオンは目を伏せると、両者の間に沈黙が流れる。


 しばらくして、何か思い出した様子のシオンは顔を上げた。


「あ! そういえばね、フィオラと会えたらお話したいことが沢山あったのよ」


「私とあなたが何を話せばいいの? 今更話しをしたところで変わることは何もないわ」


 苛ついている様子のフィオラは語尾が強まる。


 何かの拍子に手を出すんじゃないかと思うほど緊張感は高まっており、まさに一触即発の状況だった。


 しかし、それでもシオンは明るい表情で話を続けようとする。


「色んな場所を旅してきたのよ。面白いことも辛いことも悲しいこともあったの。それをフィオラに伝えようと思って……」


 フィオラに対して話しかけているにも拘わらず、聞き手のフィオラを無視しているシオンの態度は常軌を逸しているといえた。


「そうだわ。昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んで欲しいな……なんて」


「――やめて!!!」


 耳をつんざくような大声にブレッグは鼓膜を痛める。


「どうして? 昔は仲よく一緒に過ごしたじゃない。私のことを本物の姉のように慕ってくれて……嬉しかったわ」


 空を見上げながら思い出を懐かしむようにシオンは笑みを浮かべる。


 次の瞬間、目で追えないほどの素早さで走り出したフィオラは、シオンに強烈な後ろ蹴りを入れた。


 それは、ブレッグが素人目に見てもわかるほど完璧な蹴りであり、上体を反らしてまっすぐ伸びた脚は体重が綺麗に乗っていることを意味した。


 当然、目を逸らしていたシオンは回避することもできず、凄まじい速度で吹き飛ばされる。


 地面と水平に吹き飛ぶシオンだったが、即座に左手で地面を掴み受け身を取りフィオラを睨みつけ一言。


「……姉に向かってなんてことをするの?」


 凄みの利いた低い声に、ブレッグは思わずたじろいでしまう。


 自分が睨まれているわけではないことを理解していても、本能的に恐怖を感じるのだった。


 シオンに対して堂々と向かい合っているフィオラに怯えている様子などは微塵もなく、眉間に皺を寄せて睨み返している。


「私は全ての責任を取ってあなたを殺すわ。あなたが私の姉だというのなら、これが妹の最後の務めよ」


「殺す? フィオラが私を? ……うふふ。あははは!」


 突然大声で笑い出したシオン。


 呼吸が乱れるほど大笑いし、左手で腹を抱えながらも笑い続ける。


 そんな彼女の様子を見ていたブレッグは一つの言葉が脳裏を過る。


 ――気が狂っている。


 身を捩って笑うシオンはあふれ出た涙をそっと拭った。


「ははは……さっきの言葉は、ふふ……冗談よね? フィオラが私のことを殺そうとするはずがないもの」


 笑い終わると深呼吸し、上擦った声でフィオラに問いかける。


「それに、私の知っているフィオラはもう少し賢かったはずよ。それとも、私が機関を離れている間に強くなったとでも言いたいのかしら?」


「さあね。でも、例え刺し違えることになったとしても、その覚悟はできているわ」


 極めて真面目に答えるフィオラに、シオンも声のトーンを落とす。


「……まさか、本当に私のことが嫌いなの?」


 第三者であるブレッグから見てもわかりきっていることをシオンは震えた声で口にする。


 もしかしたら本人も薄々気付いているのかもしれないが、現実を受け入れたくない気持ちが強いのだろう。


 黙って睨み続けるフィオラの反応に、シオンの表情から力が抜ける。


「そう……なのね」


 全身が脱力してふらついた拍子に、今まで背後で隠していたシオンの右手が露わになる。


 その手が掴んでいたものは、初老の男性の生首。


 悲痛な表情を浮かべたそれは、身に降りかかった凄惨な出来事を物語っているかのようだった。


 強い力で引き裂かれたためか切断面には皮が残っており、シオンの動きに合わせてひらひらと揺れる。


 白髪交じり男は髪を鷲掴みにされたまま、生気のない虚ろな瞳は虚空を見つめ続ける。


「なんだよ……それ……」


 思わず呟いてしまったブレッグ。


 誰に対して聞いたわけではない。


 ただ、シオンが右手で持つ『それ』を認識したくないだけだ。


「あぁ、これ? フィオラに嫌われたくないから隠していたのだけれど……うふふ、意味がなかったわね」


 左手で口元を隠しながら静かに笑うシオンは、まるで恥ずかしい失敗を自虐しているかのようだった。


 そんな、生首を掴みながら平然とした様子で話を続ける彼女に対して、ブレッグの理解は追い付かず口を開けたまま黙ってしまう。

 ブレッグが動けないでいた理由は簡単で、理解できない存在から恐怖心を抱くという初めての経験に何をすればよいのか判断できずにいたのだ。


 口を開けたり閉めたりしてブレッグが言葉を詰まらせていると、生首を自分の顔に近づけたシオンは首を傾げて何かを考え出す。


「そういえば、この人の名前はなんて言ってたかしら。せっかく教えてもらったのに」


 男の顔を色んな角度から眺めて思い出そうとしているシオンに、ブレッグの口から本心が零れ落ちる。


「その人は……シオンの敵だったのか?」


「まさか。夫婦揃ってとても親切で優しい人だったわ。怪我をしていた私に寝床と食事を与えてくれたのよ。うふふ、街に出稼ぎに行っている娘にそっくりだって話もしてくれたわね」


「なら、どうして、殺したんだ……なんで、そんな優しい人たちを殺せる」


 恐怖心はいつの間にか怒りへと変貌しており、重い口調でシオンを責め立てる。


 しかし、ブレッグ程度の人間が怒ったところでものともしない様子のシオンは、笑顔を崩すことなく落ち着いて答えた。


「あまり怖い顔で睨まないでもらえる? 私も村の人たちには悪いことをしたと思っているのよ。だから、こうして埋葬の準備をしていたわけだし」


「は? ……埋葬?」


 ブレッグにとって予想外の言葉だった。


 確かに、生首を持ち歩くことの利点は一つもない。


 埋葬するために運んでいたと言われれば説明はつくのだが、それでも納得することは難しかった。


「えぇ。そうよ。人は死んでしまったら弔わないといけないでしょ。全員を丸ごと埋めるのは大変だから、首から上だけ集めて埋めていたの」


「……理解できない。自分で殺しておいて、可哀そうだから埋葬する? 何を言ってるんだ?」


「ブレッグの主張も一理あるわね。でも、殺さないといけなかった理由が私にもあるのよ」


「なら、その理由を教えろよ!」


 怒鳴り声を上げるブレッグに対し、目を丸くしたシオンは急にクスクスと笑い出す。


「うふふ。ブレッグは普通に聞き返してくれたけど、理由があったら人間を殺していいのかしら?」


「そんなこと……!」


 少なくとも、今まともな発言をしているのはシオンの方だった。


 過去に冒険者として活動していたブレッグは命の軽さを知っている。


 しかし、だからといって誰かが奪ってよいものではないと考えていたし、そう信じたかった。


 たった一日のうちに魔物から殺されかけたり、多くの死体を目撃してしまったブレッグの感覚は麻痺し始めていたのかもしれない。


「からかってごめんなさいね。私が村人たちを殺した理由、それはね……」


 シオンの右手から滑り落ちた男性の生首は地面に転がる。


 そして、自由になった手を真っ直ぐに伸ばして指差した先にいたのは――フィオラだった。




「フィオラは……関係ないだろ」


「あら? もしかして、フィオラから聞いてないの? 私たちの寿命のこと」


 ――寿命?


 その言葉にブレッグは胸が締め付けられるような錯覚を覚える。


 もしも普通の人と寿命が異なっていたとして、出会って一日も経っていない相手に話す話題ではないだろう。


 そういう意味ではブレッグが聞いていなくてもおかしくない。


 ブレッグは縋りつくようにフィオラへ視線を送るが、フィオラは相変わらずシオンを睨みつけたままだった。


 ブレッグの動揺を読み取ったのか、シオンは嬉しそうに微笑む。


「ふふ、その様子だと聞いてないわね。きっと、優しいフィオラのことだから、ブレッグに心配させたくなかったのよ」


 その笑みが何を意味しているかはシオンのみが知る所だ。


 しかし、ブレッグの視点では『秘密を共有できないほどの交友関係』を嘲笑されているようで、シオンが憎く思えてきた。


「……寿命については何も聞いてない。 けど、シオンが村人を殺したこととは関係ないはずだ!」


「関係あるわよ。だって、フィオラはもう直ぐ死んでしまうんだもの」


「何を、言って……」


 ブレッグは自分の耳が信じられず聞き返す。


 ――フィオラが死ぬ? そんなの嘘に決まっている。


 シオンは悪戯に嘘をつくような人物ではないことをなんとなく把握していたが、それでも信じたくない気持ちが勝る。


「その髪。だいぶ色が抜けたわね」


 どこか悲しそうに、物憂げな視線をフィオラへ送るシオン。


 もちろんフィオラが返事をすることはなかったが、代わりに薄緑色の髪が風に吹かれてなびいた。


「今の色も素敵だけれど、昔の色も元気いっぱいって感じがして可愛かったわ」


「昔は髪の色が違ったのか?」


「ふふふ、新緑みたいに鮮やかで綺麗な色だったのよ」


 ブレッグの問いに対し、シオンはフィオラの髪から目を離さずに答える。


 今の彼女の瞳には当時のフィオラの容姿が写っているようだった。


 シオンはフィオラへ向けて手を伸ばし、自身の青白い肌と比較する素振りを見せる。


「私たち褪色者は、その名の通り色を失っていくの。歳を重ねるにつれて髪や肌から色素が失われ、少しずつ白に近づいて行くわ。そして、それは肉体の崩壊が始まっている証拠でもある」


 シオンの言葉の意味をブレッグが理解するのに時間はかからなかった。


 しかし、それでも認めたくないブレッグはなんとかして反論を試みる。


「……どうして。だって、フィオラはまだ若いし、少なくとも病人には見えないだろ」


「仕方がないことなのよ」


 そういうシオンはブレッグを諭しているようだった。


「他の世界から生まれ変わってきた褪色者の魂は、この世界の肉体に収まりきらないほど強大なの。それを無理やり押し込んでいるものだから、限界を迎えた肉体は崩壊して死んでしまうわ」


「そんな……」


 シオンの説明を受けたブレッグは激しく落胆する。


 怪我や病気であれば治せる可能性は大いにあった。


 しかし、魂そのものが原因であるなら、どうやって解決しろというのだ。


 一言で表すなら八方塞がり。


 フィオラを救う手立てはない。


「でも、安心して」


 絶望の淵に立たされた心境のブレッグに、シオンはそっと手を差し出す。


 両者の間には距離があるためブレッグがその手を掴むことはできないが、心は少しだけ暖かくなるのを感じた。


 続くシオンの言葉によって、その暖かさは希望へと変わる。


「私はまだ生きているでしょ」


 稲妻に打たれたかのようにブレッグに強い衝撃が走った。


 ――そうだ。シオンのいう通り髪の色が肉体の崩壊を意味するなら、髪が真っ白なシオンはどうして死んでないんだ。


 フィオラの髪の色から死期が目前に迫っているのだとシオンは話した。


 しかし、その話が正しいなら、さらに髪の色が抜けているシオンはとっくに死んでいるはずである。


「褪色者が延命する方法はあるのよ」


 一瞬、シオンの口角が吊り上がったように見える。


 シオンが何を言いたいのか、ブレッグはおおよその見当がついていた。


 それでも、フィオラの命がかかっているとなれば聞かずにはいられない。


「その方法って……」


 待っていましたと言わんばかりにシオンは満面の笑みを浮かべる。


「大したことないわ。他人から命を貰えばいいの」




「もういいでしょ。話すだけ無駄」


 フィオラは右手を水平に伸ばし、地中から何かを掴み取るかのように細い指を軽く曲げる。


 すると、地面から顔を出した小さな芽が、フィオラの掌に吸い寄せられるように螺旋を描きながら急成長を始めた。


 その樹木はフィオラの手元に辿り着くと成長をやめ、次の段階として変化を始める。


 根元は痩せ細っていき、逆に先端は太く逞しくなっていく。


 さらに、樹木特有の凹凸は消えて研磨済みの木材のように光沢を持ち、螺旋状の木目に合わせてうっすらと溝が彫られていった。


 最後に仕上げとして勢い良く引き抜くと、切っ先をシオンへ向ける。


 それは即席で作ったとは思えないほど見事なランスだった。


「結局、村人たちを犠牲にして肉体の崩壊を止めていたってことよね」


「そうなるわね。だけど、残りの村人を使えばフィオラを助けることも出来るわ」


 ランスを持つフィオラの手からギリギリといった強く締め付ける音が鳴る。


「ふざけたことを言わないで! 誰もそんなことは望んでいない!」


「いずれ、死が迫った時に望むようになるわよ。私と同じように」


 シオンのその一言がトリガーだった。


「侮辱……するなぁ!!」


 フィオラの全身から膨大な魔力が溢れ出し、周囲を包み込む。


 それはブレッグのみならず、離れた場所に立っていたシオン、さらには村全体までもが飲み込まれているようだった。


 魔力に呼応した大地は草木が生い茂り、気付いた時には民家の建ち並ぶ村が森に覆われていた。


 前屈みになり力強く地面を蹴るフィオラ。


 次の瞬間にはシオンの側面へと飛び込んでおり、ランスを構えて二歩目を踏み込む。


「はぁぁあああ!!!」


 木材とは思えないほど鋭く尖ったランスの先端は漆黒の瞳を目掛けて進む。


 眼球に触れる直前、身体を大きく反らせて紙一重のところで回避――したかに思えた。


「あら……?」


 突如、シオンの身体は宙に持ち上げられ、逆さ吊りにされる。


 足首に巻き付いていたのは太い蔦だ。


 まるで大の男の二の腕のような太さをしており、植物とは思えないほど逞しい。


 シオンの身体を布切れのように振りまわし、遠心力を付けて草原へと叩きつけた。


 大地を揺らすほどの衝撃に、シオンの身体は跳ね上がる。


 が、即座に生えてきた新しい蔦によって、シオンの四肢は草原に縫い付けられ拘束された。


 ――この場を支配しているのはフィオラだ。


 固唾を飲んで見守っていたブレッグはそう思う。


 村全体を森が包み込んでいることからもわかるように、この空間ではフィオラはどこからでも自由に魔法が発動できるようだった。


 言ってみれば森全体がフィオラの手足となって動いているようなもの。


 圧倒的に有利なフィールドの中、シオンの頭上に立ったフィオラは眼球目掛けてランスを振り下ろす。


「……容赦ないわね」


 首を曲げて回避したシオンは螺旋状の木目を横目にボソッと呟く。


 フィオラは地中に突き刺さったランスを引き抜くと、もう一度振り下ろすが、それも回避されてしまう。


 いくら繰り返そうとも結果を変えることはできないと悟ったのだろう。


 一段と大きく振り上げると、今度は胸部――心臓目掛けて思い切り振り下ろした。


 四肢を動かすことのできないシオンは今度こそ回避する術を持たない。


 ランスの先端がシオンの胸元に到達したとき、バキッという音と共に木片がフィオラの横顔を掠めて飛んで行った。


「次はどうするの?」


 シオンの落ち着いた態度は、フィオラの成長を確かめようとしているようだ。


 折れてしまったランスを投げ捨てたフィオラは飛び退くと、ブレッグの目の前に着地した。


「ブレッグは逃げて!」


 全身が蔦に覆われていくシオンから目を話すことなくフィオラは告げる。


 ――逃げる。フィオラを置いて?


 ブレッグは逡巡していた。


 そして、小さく息を吐きだしてから絞り出すように声を出す。


「俺にも……戦わせてくれ」


「ダメよ。ブレッグがいたら私が全力で戦えないから」


 あれで全力ではなかったことに驚きつつも、『逃げろ』と言われて一人で逃げる気など更々なかった。


 ここで自分の意思を曲げてしまっては、何のためにフィオラを追いかけてきたというのか。


「俺も魔法なら使える。だから、囮でもなんでも――」


「お願いだから! ブレッグはここから逃げて」


 ぴしゃりと跳ね除けられてられてしまう。


 怒っているようなフィオラの口振りに、ブレッグはショックを受けていた。


 それでも逃げたくないブレッグが反論を考えていると、振り向いたフィオラと視線が合う。


 ブレッグの思考は止まった。


 彼女の表情はとても苦しそうで、泣きそうで、それでも強がって弱みを隠そうとしていて――


「私は一人で戦えるから。逃げて。……お願い」


 それは哀願だった。


 ブレッグは己を恨む。


 彼女の隣に立つ資格がないことを。


 一人の少女を置いてこの場を離れなければならないことを。


「……わかった」


 断腸の思いで承諾する。


 これが最善の選択なのだと自分を言い聞かせた。


 ブレッグが一歩後ずさった時、フィオラはもう一つのお願いを付け加える。


「街に着いたら原色機関という組織に連絡して。私の名前を出せば通じるわ」


 それはブレッグにしかできない役割。


 『原色機関』については何も知らないが、必ず探し出すことを誓う。


 使命を負わされたブレッグの心はほんの少しだけ軽くなっていた。


「あぁ、任せてくれ!」


 元気よく返事したブレッグはフィオラに背を向けて駆け出す。

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