色褪せた世界でフィオラは微笑む

nao

000_出会い


「はっ……はっ……」


 青年は走る。


 鬱蒼と茂った森の中をただひたすらに。


 己の使命を果たすため、一度も振り返ることなく目的地を目指していた。


「早く……助けを……呼ばないと……!」


 青年の脳内を少女の姿がよぎる。


 脳内の彼女は優しく微笑んでおり――


「うぉ!」


 ほんの一瞬だけ気を取られていた彼は、何かに躓いてよろけた。


 とっさに両腕を大きく振ってバランスを取り戻し、立ち止まる。


「はぁ……はぁ……危なかった……」


 転ばなかったことに安堵しながら、近くに生えていた立派な樹木に手を付いて呼吸を整える。


 急ぎすぎていたあまり、体力の限界が近いことに青年は気付けないでいたことが原因だ。


 肩で大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


 何度か繰り返していると、脳に酸素が行き渡り思考が鮮明となっていった。


 ――立ち止まっている暇はない。早く街へ行かないと。


 青年が顔を上げ再び走り出そうとしたとき、心の中で何かが引っかかる。


 『街に着いたら原色機関という組織に連絡して』


 強敵を相手にたった一人で立ち向かっていった少女が青年に残した最後の言葉。


 その使命のために青年は先程まで走り続けていたが、冷静になって考えてみれば不自然な点が多い。


 ――待てよ。その機関とやらに連絡したところで、助けは間に合うのか。


 出先機関などが存在するなら間に合う可能性はあるが、青年は聞き覚えのないその機関が支部を持っているようには思えなかった。


 ――そもそも、彼女の名を借りたところで、ただの一般人が取り合ってもらえるのか。


 そして、自問自答を繰り返した青年はある結論に辿り着く。


「……そうか……あれは俺を遠ざけるための……嘘だ」


 かつて、青年が少女を逃がすために嘘をついたように、少女も同じ嘘をついていたのだと気づかされる。


 次の瞬間、青年は今まで走ってきた道を大急ぎで戻っていた。


「なんで、もっと早く気付かなかったんだ……頼むから……死なないでくれ……!」


 蓄積していた疲労を無視してがむしゃらに走り続ける。


 鉛を巻き付けたように手足の動きは鈍くなり、息も絶え絶えになりながら一刻でも早く少女の元へ向かおうとする。


 山の道はお世辞にも走りやすいとはいえない。


 地面に空いた窪みが突如現れたり、道を遮るように伸びた樹木の枝が青年を妨害する。


 それでも、危険を顧みずに全力で走り続けた。


「は……ぁ……はっ…………」


 どれほど走っただろうか。


 思考に酸素を回す余裕がない青年は蔦に覆われた民家を横目で捉える。


 それは目印でもあり、少女との距離が近づいていることを意味した。


「あと……少し……!」


 残り僅かな体力を振り絞り、懸命に脚を動かす。


 そして、ついに青年の黒い瞳に少女の姿が小さく映り、青年の心臓は跳ね上がるように強く鼓動した。


「くそっ!」


 そこにいたもう一人の人物――白髪の女性に少女の首は掴まれ、絞め上げられている。


 少女の脚は宙に浮いており、全身が力なく垂れ下がっていた。


 白髪の女性は少女に何かを話しかけているようだが、距離が離れているため青年の耳には届かない。


 ひとしきり話し終え、少女を眺めていた女性は口角を吊り上げ怪しく微笑む。


「うっ……」


 あまりの不気味さに青年は気圧されるが、脚を止めることはなかった。


 ――こっちに気付いていない今、やるしかない。


 恐怖心に包まれ、青年は心も身体も限界を迎えていた。


 それでも彼を動かす原動力は少女を助けたいという純粋な気持ちだった。


 肺に残っている少ない空気を振り絞り、少女の名を叫ぶ。


「フィオラ!!」




 **********************************




 草木の生い茂った森の中、厚手の手袋を装着し籠を背負った青年が歩いている。


 頭上では高々と成長した樹木が陽を遮っており、昼間であるにも関わらず薄暗い。


 しかし、じめじめした陰鬱な雰囲気はなく、気持ちの良い爽やかな風が森の中を駆け巡っていた。


「あぁ、癒される。やっぱりこっちに生活拠点にして正解だった」


 人目を気にすることなくやや大き目の声量で呟く。


 そんな青年の見た目を一言で言い表すなら『普通』だ。


 黒目黒髪で身長は平均的。


 力仕事が多いため少しは身体が引き締まっているが、この程度の筋肉量を持つ人間はいくらでもいる。


 これといった特徴はなく、街の人混みに紛れたら一瞬で姿を眩ませることが出来るだろう。


 唯一の他と異なるのは彼の装備品だろうか。


 青年が身に着けているものはどれもが無骨で、雑な縫い目には慣れない裁縫を努力した形跡が残っている。


 青年は耳を澄まし、森の住民たちの声を聴きながら歩み続ける。


 自由に飛び回る小鳥のさえずり。


 遠くの茂みで一生懸命に生きる昆虫の鳴き声。


 獲物を探している小動物が雑草をかき分けながら進む足音。


 風に揺られて葉の擦れ合う音。


 そんな、森の鼓動ともいえる数多の生命の音色が青年を包み込む。


「独りぼっちで面倒なことも多いけど、誰にも邪魔されない生活は最高だな。というか、都会には二度と戻りたくないくらいだ」


 上機嫌な青年はいまこの瞬間を堪能しながら目的地を目指して歩き続ける。


 蜘蛛の巣や植物の蔓に行く手を遮られるたび、手に持ったナイフで切り拓きながら進む。


 その足取りは軽く、まるで未開の地を探検している少年のような気分に浸っていた。


「お、もう到着したか」


 青年が辿り着いたのは自然が作り上げた広場だ。


 ここでは、樹木が等間隔にバランスよく生息しており、葉と葉の隙間から暖かい陽が差し込んでいる。


 地面には苔が生えており、苔の上を手のひらサイズの小さな動物がちょこちょこと走り回っていた。


 青年の存在に気付いたその小動物は急停止し、大きな耳をまっすぐ立てて大きな瞳で男を凝視する。


 すぐに走り出して青年の前から姿を消すが、青年は何事もなかったかのように小動物を見送った。


 小さな生物とはいえ、一人で自給自足している青年にとっては貴重なタンパク質である。


 普段であれば先程の小動物も食料として捕獲していたが、この日の青年の目的は別にあった。


 腰を曲げて地面に注視しながら周囲を探索していると、樹木の根っこ付近であるものを見つける。


「こんなところにも生えていたか。今年は豊作だな」


 青年がしゃがんで手を伸ばしたのは小さな丸い傘を持った白い植物だ。


 皮の手袋を装着した手で群生しているその植物を纏めてもぎ取ると、背負っていた籠の中に投げ入れる。


 籠の中には様々な種類の植物が入っており、既に半分ほどは埋まっていた。


 周囲に自生していた植物の採取が終わると、隣の木の根元へ移り採取を続ける。




 **********************************




 青年の名前はブレッグ。


 没個性的な容姿の彼は元冒険者であり、三年前までは街で依頼を受けて生活していた。


 依頼の内容は街の周辺に現れた魔物の討伐が主だ。


 魔物とは魔力を帯びた生物のことであり、多くの場合は狂暴で人間に危害を加えることがある。


 そんな魔物を討伐する冒険者は常に危険と隣り合わせで、命を落とす者も少なくなかった。


 そして、様々な状況に対応できるよう、役割の異なる冒険者同士でパーティーを結成することが定石とされていた。


 例に漏れずブレッグもパーティーに所属し、後方から魔法で支援するという役割を担うこととなる。


 ブレッグがパーティーに加入してから一年が経過したころ、天性の才能を持ち合わせた優秀な冒険者が同じパーティーに加入してきた。


 これにはメンバー全員が大喜びしたものだ。


 というのも、パーティーの評価が上がれば要人の護衛といった、より安全でより高額な依頼を受注できるようになるためである。


 いつ命を落としてもおかしくない現状から抜け出すために、星の数ほどいる底辺冒険者たちは常に努力していた。


 しかし、半年もしないうちに上位の冒険者パーティーからスカウトがかかりいなくなってしまう。


 それも一度だけではない。


 優秀な冒険者がパーティーに加入し、いよいよ護衛の依頼を受けられそうかとなる度にスカウトされていなくなってしまう。


 やがて、メンバーは固定され、同じような依頼を受ける日々を送るようになる。


 死に物狂いで魔物を討伐し、もらえる金銭が銀貨五枚だ。


 宿で一泊するために銀貨二枚、食費で銀貨一枚、装備の整備に銀貨一枚、残りは雑費で消えてなくなる。


 ――そんな毎日。


 停滞した環境に長期間置かれていれば、パーティー内で不和が生じるのは当然の流れだったのかもしれない。


 ある日、いつものように言い争いをしていると、『パーティーの足を引っ張っているのは誰か』という話になった。


 今考えれば全員の実力不足が原因であるとはっきり言えるが、その日は違った。


 ブレッグを除く全員が口を揃えてブレッグの魔法が役に立っていないと文句したのだ。


 ブレッグ自身も魔法の才能がないことは自負している。


 所詮は少し魔法が使える一般人止まりであり、得意としていた幻視の魔法も嗅覚の鋭い魔物相手に役立つことはなかった。


 最終的に、リーダーの提案によりブレッグをパーティーから追放して優秀な魔法使いを呼び込むこととなった。


 全ての責任を押し付けられて解雇を言い渡されたわけだが、当時のブレッグは不思議と怒りが沸いてこなかった。


 街の中で機械的な生活を送ることに辟易しており、やっと息苦しい環境から抜け出せるのかと思ったら心がすっきりしたのだ。


 この後の流れはとても円滑だった。


 とんとん拍子にパーティーから離脱する準備が進み、ブレッグの冒険者人生はあっけなく終了した。



 **********************************




 人との関りにうんざりしたブレッグは、残してあった僅かな貯金で人里離れた山小屋を購入した。


 他人に頼れないため苦労することは多かったが、小屋の修繕や工具の自作なんかもやってみたら存外楽しく感じられた。


 街で生活していた頃と比べて金はないが、その代わりにストレスの原因となるものも存在しない。


 ブレッグは森の中を見渡したあと、収穫物の入った籠を苔むした地面に降ろす。


 そして、籠の中を覗き込んだブレッグは自然と笑みがこぼれた。


「うんうん。けっこう採れたんじゃないか。これだけあれば、しばらくは食料に困らないな」


 ブレッグの黒い瞳には山盛りに積まれている様々な種類の山菜が映っていた。


「よし、帰るか」


 土で汚れた手で膝を押さえて立ち上がり、来た時より重くなった籠を背負う。


 帰路に就いたブレッグは全身汗まみれであり、土や木の葉で衣服を汚していたが、どこか満足気な表情をしていた。


「今日は生でしか食べられるものから手を付けるか。乾燥させて日持ちするものは大切に取っておかないとな」


 帰り道を歩きながら今後の予定を口にして思考を整理する。


 ブレッグにとって食糧事情は最も重要な課題だった。


 後先考えずに食料を食べた結果、冬に食糧難で喘いだことがある。


 寒空の中、何も口にせず過ごした三日間は地獄そのものであり、ブレッグの中で非常に苦い経験として記憶していた。


「そうだ、漬物に挑戦してみてもいいか。これだけあるんだし、今後のためにも知識を増やしておきたいよな」


 貴重な食料を無駄にする可能性はあるが、成功すれば食糧難からさらに遠ざかることが出来る。


 新しい挑戦に意気込みながら険しい森の中を歩いていると、どこかで枯れ枝の折れる軽い音が耳に届いた。


 その瞬間、ブレッグは歩いている姿勢のまま時間が止まったかのように全身の動きを止める。


 そして、音がした方向にゆっくり視線を向けると、雑木林の向こう側で大型の生物がのそのそと歩いていた。


 腰の高さまで生い茂る雑草のせいで、その生物の全身を捉えることはできない。


 少ない情報から把握できたのは、厚い毛皮に覆われ、太い手足を持っていることくらいである。


 とはいえ、この森の生態系を完全に把握しているブレッグには大まかな予想がつく。


「……魔物か」


 小さい声で呟くと、その生物はブレッグの存在に気付くことなく歩き去っていった。


 ひとまず脅威が離れて行ったことに安堵するが、これで安全になった判断するには早い。


「どうしたものか。いつもなら仕留めるところだけど」


 現在、ブレッグが立っているこの場所は生活の拠点にしている山小屋からそう遠くない。


 そのため、この魔物が腹を空かせたら山小屋を襲うことだって考えられる。


 昼間ならまだしも、夜中であればブレッグも命を落とす危険があった。


 早急な判断が求められているブレッグは結論を出す。


「とりあえず追い払うか」


 今のうちにあの魔物を威嚇しておいて、この山から遠ざけておこうというのがブレッグの考えだった。


 仮に、魔物が襲ってきたりしたら仕留めてしまえばよい。


 危険な生物は日が出ているうちに討伐しておくべきである。


 ブレッグは背負っていた籠を近くの木の根元に移動させると、足音を殺しながら魔物が消えて行った方向に歩き出す。




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「うそ……だろ。なんだよ、あれ……」


 樹木の影に隠れているブレッグは魔物に感づかれないよう細心の注意を払いながら観察を続ける。


 四足歩行で歩いているその魔物はくすんだ灰色の深い毛皮に覆われており、手足には大きくて鋭利な爪が備え付けられていた。


 そして、何よりも一番の特徴はその巨躯だ。


 両手を地面につけた状態ですら魔物の視線の高さはブレッグと変わらなかった。


 唯一幸運だったのは、この巨大な魔物が動物の死骸を食らうのに夢中になっていることだ。


 死骸の腹部に顔面を突っ込み、肉を食い千切るだけでなく骨も豪快な音を立てて嚙み砕いていた。


 頑丈な牙が生えそろった口の周りを血で濡らし、窪んだ眼孔の奥で丸い瞳を鋭く光らせるその姿はまさに化物と呼ぶのが相応しい。


「有り得ない……無理だ……」


 目の前にいる魔物と同じ種族はいままで何度か討伐したことがある。


 しかし、そのサイズはどれも小さく、元冒険者のブレッグが魔法を放てば簡単に仕留めることが出来ていた。


 だが、今回は状況が違う。


 あの屈強な腕でぶん殴られれば、一撃で腹を引き裂かれてしまうだろう。


 ブレッグが強く握りしめている矮小なナイフでは何の役にも立たない。


 いや、例えどのような武器がこの場にあったとしても仕留めることは不可能に違いなかった。


 目の前にある死骸のように食い散らかされている自分の姿を想像したブレッグは背筋が凍りつく。


「早く逃げよう……。あんな化物と戦えるはずがない。街へ行って駆除の依頼をしないと」


 街を嫌っているブレッグだが、今はそんなことを言ってられない。


 これはブレッグだけの問題に収まらず、いつか必ず人的被害が起こることを確信していた。


 今も食事に夢中になっていることを確認すると、ブレッグは中腰になり、ゆっくり後ずさろうとする。


 一歩後退したその時、突然、魔物が低い唸り声で威嚇を始めた。


「グルウゥゥ……」


 木の影に隠れていたブレッグの身体は反射的に硬直する。


 ――見つかったか!?


 ここで気付かれてしまっては一巻の終わりだ。


 全力疾走で山を下れば逃げ切れる可能性もあるが、あの太くて逞しい下肢が相手では望みも薄い。


 今更になって、ブレッグは自身の危険察知能力が低すぎたことを後悔する。


 飛び立つ鳥や草陰に向かって走り出す小動物は一匹もおらず、彼らは既にこの場を脱していたのだ。


 すぐにでも走って逃げてしまいたい気持ちに駆られているブレッグだったが、恐る恐る木の影から顔を出して魔物の様子を伺う。


 そして、目の前で起こっている予想外の光景に目を丸くした。


「は? なんで……」


 信じられないことに、魔物が吠えて威嚇している先には人がいた。


 魔物の凶悪な風貌にばかり目が行き気付いていなかったが、確かにそこには人間がいたのだ。


 いや、もっと正確に言えば大木に寄りかかってすやすや寝ている少女だ。


 フードの付いたローブで全身を覆っており胸の位置に花の装飾が飾ってある。


 ローブが落とす影によって顔をはっきりと見ることはできないが、寝顔が可愛い少女だった。


「どうしてこんな場所に人が……」


 誰も寄り付こうとしない山奥の森で人間に会うということなんて一度もなかった。


 巨大な魔物が突如出現したことも異常事態だが、この森で眠っている彼女もまた異質な存在だった。


 すぐ近くまで魔物が近づいているというのに少女は目を覚ます気配が全くない。


 姿勢を低くした魔物は威嚇を続けながら、少女を中心に弧を描きながら少しずつ近づく。


 ブレッグの頬を冷や汗が伝う。


 このままでは確実に魔物の餌食となってしまうだろう。


 かといってブレッグが出て行ったところで何ができるというのだ。


 魔物が少女の側面まで移動したとき、後ろ脚で立ち上がりひと際大きな唸り声を上げる。


「ゴアアァアアア!!!」


 鼓膜が破れるのではないかと思うほど大きすぎる声量が、周囲の空間を振動させるのを肌で感じ取る。


 そのとき、少女がやっと目を覚ます。


「ふわあぁあ」


 少女は気だるげにゆっくり上体を起こすとのんきに欠伸する。


 ごしごしと目を擦る彼女は現在の状況を飲み込めていない様子だ。


「んー……」


 両手を上げて伸びをすると、深く被ったローブの隙間から細く滑らかな薄緑色の髪が覗く。


 ブレッグはそんな少女の可愛らしい振る舞いをただ眺めていることしかできなかった。


 緊迫したこの場で迂闊な行動をとれないという言い訳もあるが、実のところはただ思考が停止していた。


「あー、良く寝た。少し横になっただけなのに、うっかり昼寝しちゃった」


 寝起きのやや低い声すら庇護欲を掻き立てさせる魅力があった。


 だがしかし、当たり前のことではあるがそんな魅力は魔物にとって何の意味もなさない。


「ウウゥゥ……!」


 今にも襲い掛かろうとしている魔物は少女との距離をさらに詰める。


 そして、寝ぼけまなこな少女はやっと臨戦態勢の魔物と目を合わせる。


「……ん? クマ?」


 少女が首をかしげた次の瞬間、魔物は地面を力強く蹴りついに襲い掛かった。


「グルルァ!!!」


 大きく開けた魔物の口は少女の頭部を丸ごと嚙み砕こうとする。


 非常に鋭く尖った剝き出しの牙が少女に届こうかという間際――


「早く逃げろ!!」


 ブレッグの掛け声と同時に、少女の眼前で魔物の頭部が業火に包まれる。


 少女の白い肌を赤々と照らす炎の勢いは凄まじく、中心にいた魔物はあまりの熱気に飛び退く。


「グァァ……グウゥ……」


 炎を振り払おうと魔物が暴れている隙に、ブレッグは再び至近距離で魔物の顔面に火球を叩きつける。


 これこそがブレッグが使える数少ない魔法の中で最強の攻撃。


 解説してしまえば、ただの火球を勢いよく投げつけるだけ。


 大したことないのは重々承知しているが、有象無象にいる下位冒険者のうちの一人であるブレッグにはこの程度が限界だった。


 とはいえ、毛皮に炎が燃え広がっている様子から、この魔物には効果があるようだ。


 少女と魔物の間に割って入ったブレッグは、両手の上に炎を出現させて次の火球を準備する。


 ――たった一発で倒せるはずないよな。奴が倒れるのが先か、俺の魔力が切れるのが先か。


 このまま火球を叩き込み続ければもしかするかもしれないと淡い期待を抱く。


 手のひらの上で燃え上がっていた炎は次第に球体へと形を変える。


 準備を整えたブレッグが魔物に向かって一歩踏み出したとき、背後から一本の指でつつかれた。


「あのー……」


 少女の透き通った声が背中越しに聞こえてくる。


 すぐ近くで魔物が暴れているにも関わらず、その声はとても落ち着いており焦燥や緊迫といった言葉とは無縁といった様子だ。


 それよりは、初対面の相手への接し方がわからずにおずおずと尋ねているみたいだった。


 少女は未だに現状を把握できていないのだとブレッグは判断する。


「時間を稼ぐから、走り出すんだ!」


 ブレッグは振り返ることなく背後にいる少女に指示する。


「え? う、うん! でも一人で……」


「いいから早く!!」


 この期に及んでまだ何か喋ろうとする少女をブレッグは遮った。


 きつめの口調で言ってしまったことをすぐに後悔するが、そんな感情は無理やり振り払う。


 後悔や反省なんてものはこの場から生還してからでも遅くはない。


 どうやって生還するかという一点にのみ、今は思考を集中させる。


「……わかったわ」


 言いかけた言葉を飲み込んだ少女は承諾すると走って逃げ出した。


 すぐに足音は離れて行き聞こえなくなる。


「よし、あとは――」


 少女が逃げ切れるまで、この魔物の注意を引き付けるだけだ。


 どこまで時間を稼げるかわからないが、一分もあれば十分だろう。


 魔物を常に注視していたブレッグは炎が消えかかっていることに気付く。


「どこまでやれるか……」


「グアァァ!」


 視界を取り戻した魔物はブレッグに殴りかかり、それを間一髪のところで回避する。


「くっ!」


 食らっていたときのことは想像しない。


 大きく避けすぎてしまったせいで崩れてしまった態勢を急いで建て直す。


 隙は今しかない。


「はあああぁぁ!!」


 踏み込んだブレッグは、がら空きになっていた魔物の横っ腹に右手の火球を叩きつけた。


 腹部は激しい炎に包まれ、魔物は太い腕を振り回して再び炎から逃れようとする。


 少しずつ後退していく魔物に対して今度は左手の火球で追撃すると、腹部で燃えていた炎はさらに強く燃え上がった。


「はぁ……はぁ……」


 ――これだけ連続して魔法を発動したのはいつ以来だっけ。


 冒険者として活動していた全盛期ですら、一日に二、三発が限度だった。


 その限界は既に超えており、さらに次の火球の準備を始めようとしている自分にブレッグは驚く。


 ――きっと少女がいたからだな。


 いまブレッグが逃げ出してしまっては、あの少女が襲われてしまう。


「まだ……もう少し……」


 魔力の欠乏により強い倦怠感に見舞われるが、意に介さないで両手に火球を構える。


 そのとき、視界が一瞬ホワイトアウトしたブレッグはふらつく。


「あ……れ?」


 酸欠の魔力版とでもいえようか。


 咄嗟に足を開き重心を落としたことで、倒れることなく中腰の姿勢で持ち堪える。


「はぁ……くそ……」


 こうべを垂れて肩を揺らしながら矢継ぎ早に呼吸していると、草を踏みにじりながら走る重い音がブレッグの耳に入る。


 はっとして顔を上げると、そこには血走った眼で突進してくる魔物の姿があった。


 炎が自身の身体を焼き焦がしていることなんて気にも留めていない。


 巨体であるにも拘わらずその足は異常に速く、次の瞬間にはブレッグの眼前に迫っていた。


「しまっ――」


 回避行動は間に合わなかった。


 火傷を負った魔物の頭部がブレッグの腹部に思いっきり激突する。


 メキメキといった鈍い音と共にブレッグの体は宙に浮かび上がり、勢いよく突き飛ばされた。


 今までの人生で一度も経験したことがないほど強烈な突進だった。


 周囲の光景が数回転したところで地面と激突し、そこからさらに何回か転がると樹木に背中をぶつかる形で停止した。


 巨大な肉の塊を受け止めた樹木は枝を揺らし、数枚の葉が舞い落ちる。


「ぁ……ぅ……」


 くの字の姿勢で悶えているブレッグは身動きが取れず、人の声とは思えないほど小さな声で悲鳴を漏らす。


 骨なんかは何本折れていても不思議ではなかった。


 それどころか、折れた骨が内臓に突き刺さっていたり、衝撃によって内臓が破裂している可能性すらある。


 すぐに呼吸ができないことに気付くと、息苦しさから苦悶の表情を浮かべた。


「はっ……はっ……」


 突進により圧し潰された肺は空気を求めて息を吸いこもうとするが、一向に肺は膨らまない。


 口を大きく開けて出来るだけ多くの空気を口内へ取り込むが、喉元を通過することなく口内で滞留するだけだった。


 パニックに陥りかけていたブレッグは、服の胸元に手を当てると強く握りしめる。


 そのとき、追い打ちをかけるように胸に激痛が走った。


「っぐぅ! ……かはっ!」


 激痛によって呻き声を上げた時、幸運なことに肺の機能は回復し新鮮な空気を取り込むことに成功する。


「はぁ……はぁ……」


 胸が膨らまないよう浅い呼吸で息を整える。


 ――死ぬ。殺される。


 ゆっくり、しかし迅速に腕で体を持ち上げると、震える足で片足ずつ立ち上がろうとする。


 思うように力が入らず手間取るが、樹木に都合よく生えていた枝を掴み二本の脚で立ち上がった。


「いっつ……!」


 強く歯を食いしばって胸の痛みを堪えながら、魔物と再び相対する。


 そんな、満身創痍なブレッグの瞳に入ってきたのは再び突進して来ている魔物の姿だった。


 燃えていたはずの炎は完全に鎮火しており、火球を打ち込んだ部位の毛皮も焦げてはいたが致命傷とはなっていない様子だった。


「ここまで……か」


 察するしかなかった。


 所謂、詰みという状況。


 樹木に肩を預けているブレッグは立っているだけで精一杯であり、魔物の攻撃を回避する力は残っていない。


 ――こんな終わり方だったのか。


 思い返せば、何も成し遂げられない人生だった。


 死ぬ気で努力することもできず、人生の夢を見つけることもできず、さらには人を愛することもできず、最期まで半端者だ。


 挙句の果てには、他者から悪意を向けられることが怖くなり、誰も人が住んでいない山奥で生活を送ることになる。


 その結果がこれだ。


 あと少し、魔法の練習をしていたら目の前の魔物を退けられたかもしれない。


 あと少し、山を下りて他者と交流していたら魔物の情報を得られていたかもしれない。


 今更後悔したところで遅い。


「……でも、あの子が逃げられたなら十分か」


 彼女は自分よりも価値のある人間であることをブレッグは確信していた。


 彼女だけでも生き延びることができたなら、こんな人生にも意味があったのだと思える。


「ふー……」


 ブレッグは全身の力を抜く。


 膝を地面に着け、腕をだらりと垂らす。


 すぐそこまで迫っている魔物は、腕を振り上げて確実に息の根を止めようとしていた。


 ――せめて、苦痛なく逝かせて欲しい。


 死を覚悟し、そっと瞳を閉じる。


 怖いわけではない。


 ただ、死ぬ瞬間に自分の千切れた腕や血塗れの胴体を見たくはないだけだ。


 ブレッグは瞼の裏に名も知らぬ少女を映し出す。


 ――そうだ。最期に目に焼き付けるのはこの光景にしよう。


 数本の木漏れ日に包まれながら、すやすやと寝ている姿がそこには写し出されていた。


 記憶を思い返しただけの偽物の光景であることは理解しているが、少しは心が安らぐ。


 ――もっと親しくなりたかった。


 恋人どころか友達すらできたことがないブレッグには夢のような話だ。


 だが、死の淵に立たされたからこそ、ブレッグは自分の本当の願いを知れた。


 ――そっか、孤独でいることが本当は寂しかったんだ。


 充実した生活を送っていたと思っていたが、それは思い込みだったのかもしれない。


 ――もう少し、ほんの一言二言でいいから話がしたかった。


 他愛のない会話でも構わない。


 ――あぁ、まだ死にたくない。


 心の中で小さくそう呟いたとき、ブレッグは背後に人の気配を感じる。


「こんなに大きな魔物相手に、一人でよく戦ったわね」


 突然の声に驚いたブレッグが目を開けると、背後から伸びてきた緑色の蔦が頬を掠めた。


 それは凄まじい速度で成長を続け、ブレッグに襲い掛かろうとしていた魔物の四肢を絡めとる。


「グアァ!!」


 蔦の数は増え続け、徐々に魔物の身体から自由を奪っていく。


 一本一本は細くてしなやかだが、見た目に反して魔物がもがいても切れないほど頑丈だ。


「……蔦、なのか?」


 一番最初に思い浮かんだことは、自身の命が助かったかどうかではなく、蔦の姿をした奇妙な植物への懐疑。


 見た目はそこらへんに生えている蔦と変わりない。


 茎の周りに小さな葉が所狭しとついており、よく見ると蔦特有の巻きひげもある。


 しかし、意思を持つかのように俊敏に動く蔦なんてブレッグの知識には存在しなかった。


 蔦と魔物の攻防を見守ることしかできないブレッグが呆然としていると、背後から再び声を掛けられる。


「あれ? 私の声聞こえてる?」


 先程の声が幻聴ではないことに気付いたブレッグが振り向くと、そこには逃げたはずの少女が佇んでいた。


 両手を後ろに回して前屈みになっている彼女は、琥珀色のつぶらな瞳で見つめている。


「……」


 ブレッグの反応はない。


 至近距離で顔を突き合わせ、少女の美しさに心臓が跳ね上がるような感覚を覚えていた。


 端正に整った顔立ちは、幼さを残していながらも見る者を魅了する美しさがあった。


 寝ていたときに被っていたフードはおろしており、陽の光で照らされた薄緑色の髪が光を反射して輝いて見える。


 そして、満開の花をモチーフとして装飾が施されたローブは、少女の可憐さをより一層引き出していた。


「やっぱり聞こえてないのかな? おーい!」


「あ、あぁ」


 咄嗟に出たその言葉にブレッグは言葉の選択を誤ったと思う。


 この状況からして、少女に助けられたという事実は明白だ。


 そんな命の恩人に対して相応しい態度ではないだろう。


 ましてや、絶世の美女にはなおさら。


「――って、いや、違う、そうじゃなくて……」


 言葉を訂正しようとあたふたするブレッグに対し、少女は優しく微笑む。


「よかった。聴覚は正常みたいね。派手に吹き飛ばされていたから心配したのよ」


 笑顔にはまた別の美しさがあり再び目を離せないでいると、少女は魔物に向かって指さす。


 つられてブレッグも魔物に視線を向けると、魔物の四肢を拘束していた蔦はさらに成長しており魔物の全身を覆いだしていた。


「ねぇ、こういう場合はどうすればいいか知ってる? この森のルールとか、地域の取り決めとか。悪いけど、私はここに来たばかりだから知らないの」


 少女はブレッグへ意見を求める。


 『こういう場合』とは人へ危害を加える害獣が出現した状況のことを指しているのだとブレッグは判断する。


「いつもは駆除して……ます」


 少し幼い容姿をした――恐らく自身より年下であろう少女に向かって、ブレッグは無意識のうちに敬語で答えていた。


 比類なき実力を見せられ、つい目上の人と話しているような感覚に陥っていたのだ。


「そうなのね」


 小さく頷いた少女は魔物に向かって歩き出し、ブレッグの横を通り過ぎる。


 そして、ブレッグと魔物の中間の位置で立ち止まると、少女を中心として嵐のように強烈な風が発生し、腰のあたりまですらりと伸びた薄緑色の髪が巻き上がった。


 ――これは、魔力だ。


 普段から魔法と共に生活を送っていたブレッグは察知する。


 それと同時に、個人の魔力を肌で直接感じ取れたという事実に驚きを隠せないでいた。


 ブレッグは冒険者時代に、魔法の才能に恵まれた大量の魔力を持った魔法使いと共に活動していた時期があった。


 すぐに別のパーティーからスカウトがかかり離れて行ってしまったが、目の前の少女と比べたら彼の魔力ですら陳腐に思えてしまう。


 次に、少女は魔物に向かって右手を伸ばすと、小さな手のひらに光の粒子が集まり始めた。


 淡い光を放つ粒子は規則性を持って配置され、ブレッグが気付いたときには巨大な魔法陣を象っていた。


 魔法陣自体は少女の身長と同じくらいの大きさがあり、幾何学模様が幾重にも重なって構成されていた。


 ブレッグは息を吞む。


 魔法陣なんてものは噂で聞きいれた知識でしかなかった。


 下位の魔法使いだったブレッグはそれを見る機会などなく、目の前の現象と噂で聞いた話が一致し魔法陣と結論付けていただけだ。


 そもそも、魔法陣を扱える魔法使いなんて世界に数人しかいないという噂である。


 この世に存在するかもわからないという意味では、伝説上の生物と大して変わらない。


「凄い……こんな魔法は初めて見る」


 目の前で貴重な魔法が見れるのかと思うとブレッグは胸が躍る。


 そして、高揚する気持ちと同時に恐怖心も強まりつつあった。


 伝説とほぼ同義の魔法である。


 それが発動された直後に何が起こるのか、ブレッグは想像もつかないでいた。


 今は少女の後方にいるが、この位置が安全なのかどうかもブレッグにはわからないのである。


 一滴の冷や汗を流しながら微動だにせず固唾を吞んでいると、少女は口を開く。


「すぐに終わらせるね」


 慈愛に満ちた声だった。


 優しく、愛おしく、暖かい。


 強張っていたブレッグの表情が少し緩んだ次の瞬間、魔法陣が激しい光を放ち薄暗い森を明るく照らす。


 ――しまった。


 反射的に瞼を閉じてしまったブレッグは、少女の魔法を見逃すまいと無理やり目を開けようとする。


 次第に光は収まり視力が回復してくると、そこには牙の隙間からおびただしい量の血液を吐き出している魔物の姿があった。


 魔物が致命傷を負っている原因、それは腹部を貫いている禍々しくて巨大な腕だ。


 魔法陣から伸びているその腕は樹皮で包まれており、関節の位置からしてこの世の生物とは思えないほど歪な構造をしていた。


 魔物の胴体からゆっくり引き抜かれた腕は鮮血で塗れており、苔むした地面をその血で汚し続ける。


 魔法陣から腕だけが伸びているその異形の存在に目を奪われていたブレッグだったが、ふと魔物へ視線を戻すと胴体に大きな穴を開けて絶命していた。


 魔物の体を覆っていた蔦はいつの間にか枯れており、体の支えを失った魔物は大きな音を立てながら倒れる。


 ――終わった。


 さっきまで苦戦を強いられていたことがまるで嘘のように、あっさりと幕を引いた。


 あの状況から生き残ったことに安堵したブレッグだったが、彼の内面では様々な感情が渦巻いていた。


 大きくため息をつく。


 ――やっぱり、冒険者をやめて正解だったな。


 何十年、何百年、経験を積んだとしても少女の領域に辿り着けないことを悟る。


 あのまま街に残っていたとしても、大した功績を挙げられずに生涯を終えるのだと。


 自身の無能さを軽蔑し、少女の才能に嫉妬を覚える。


 ――違う。こんな顔をしていては駄目だ。命の恩人に感謝の気持ちを伝えないと。


 ブレッグを自分の顔を目一杯強く叩くと、腹部の激痛に耐えながら立ち上がる。


 少しだけ、その瞳には光が戻っていた。


 若干よろめいてはいるものの立つことができたブレッグは少女を探す。


 先程まで少女が魔法陣が展開していた場所には姿がない。


「確か、さっきまでそこに……」


 恐ろしい腕や絶命している魔物に気を取られすぎており、見失ってしまったようだ。


 ブレッグは焦りから落ち着かない様子で辺りを見渡す。


 生きる世界が全く異なる相手だ。


 このまま、二度と会えなくなってしまっても不思議はない。


 むしろ、今回の出来事が子供向けの御伽噺なら、二度と会えない方が自然な流れともいえる。


 幸運なことに、ブレッグが背後を振り向くと、そこには少女の後ろ姿があった。


「あの――」


 言葉を言い切る前に、ブレッグは自ずと口をつぐむ。


 血塗れになった化物のような腕を少女が優しく撫でている。


 ただそれだけの出来事なのだが、なぜだか妨害してはいけないと直感していた。


 少女は魔物の血で服が汚れることなど気に留めていない様子であり、腕に寄りかかりながら樹皮のような鱗に付着した血をそっと拭う。


 腕の方はというと、何も反応していなかったがどこか嬉しそうだとブレッグは感じた。


 絶対に相容れることのない対極に位置する存在が共存しており、その光景にブレッグは心が奪われていた。


 腕に対するブレッグの正直な気持ちとしては、近寄りがたいほど恐ろしくて醜い化物である。


 しかし、少女は外見に惑わされることなく、心を通わせることが出来ているように思えた。


「いつも、こんなことばかりさせてごめんね」


 少女が小さく呟くと、巨大な腕は淡い光を放ちながら徐々に消えていく。


 そして、腕が完全に消失するまで見送った少女は、ブレッグの方を振り返ると小さく頭を下げた。


「さっきは逃げてしまってごめんなさい。その……寝ぼけていたの。本当は私が最前線に立って戦わないといけないのに」


「……え?」


 予想外の言葉に口を開けたまま固まる。


 『弱いならしゃしゃり出ないでもらえる?』くらいの罵倒があってもおかしくないと考えていたが、逆に謝罪されるとは思っていなかった。


 少し間をおいてから反論する。


「いやいや、俺が逃げろって言ったんだし。それに、戻ってきて助けてもらったから、えっと……」


 緊張して言葉が詰まる。


 女性経験がゼロなうえに山奥に来てからはほとんど対人関係がなく、どうやって感謝の気持ちを伝えればよいか戸惑っていた。


 そうこうしていると、少女は暖かい微笑みを向けてくれる。


「それじゃあ、貸し借りはなしってことでいい?」


「あ……はい」


 情けない気もするが、返事をすることで精いっぱいだった。


 ここまでの出来事を思い返してみて余計惨めな気持ちになってしまう。


 自分とは比較できないほど強大な力を持った少女へ逃げるよう指示し、魔物に殺されかけたとき戻ってきた少女に窮地を救ってもらった。


 間違った判断を下したつもりはないが、結果だけを見ると何とも情けない話である。


 ――恥ずかしすぎて胸が痛くなってくる。


 羞恥心から胸が締め付けられる思いだ。


 ふと、ここである違和感にブレッグは気付く。


 ――あれ、本当に痛い?


「ぐぅっ!」


「大丈夫!?」


 胸を押さえてうずくまるブレッグに少女は駆け寄る。


 魔物に突進された部位が燃えるように熱く、骨の奥から滲み出てくる激痛に顔をしかめる。


 きっと極限状態で痛覚が麻痺しており、このタイミングで痛みがやってきたのだろう。


 ブレッグが倒れそうになると少女が肩を支えてくれた。


「大丈夫よ、ゆっくり座って」


 風に乗って少女の花のように甘い薫りがブレッグの鼻に届き、胸の痛みが少し和らぐ。


 傷が癒されたわけではない。


 少女とはいえ女性特有の薫りによって再び緊張し、痛覚が麻痺してきたのだ。


 異性とこれだけ近くまで接近し、ましてや肩まで組んでくれたことなど、彼の歴史の中では一度もなかった。


 今まで経験してきた異性との交流と言えば、挨拶や仕事の話くらいだ。


 何回かは挨拶の後に雑談できたこともあったが、すぐに話題がなくなり気まずい雰囲気を作ってしまった。


 そんなブレッグからしたら今の状況は心の許容範囲を軽く超えており、痛みなんてどこかへ行ってしまっても何ら不思議はない。


 少女に支えられながらブレッグは樹木にもたれかかるようにして座る。


「ちょっと待ってね」


 少女はローブについているポケットのボタンを外して中身を漁りだした。


 ジャラジャラという音を発しながら、色んなものが入っているポケットから何かを探しているようである。


 そんな彼女をぼーっと見つめていたいたブレッグだったが、少女の身に纏っているローブがなんとなく目に留まる。


 薄い紫色を基調とした落ち着いた雰囲気のローブだ。


 明るくて優しい少女の性格を映し出しているようであり、とてもよく似合っている。


 さらに、至る所に花のデザインが施されており、細部まで非常に細かく織り込まれていた。


 最初は気付かなかったが、より近くで観察したことで品質の高さが窺えた。


 やがて、少女が青い液体の入った小瓶を取り出すと、そっとブレッグに手渡す。


「飲める?」


 毒々しいほど真っ青なこの液体をブレッグは嫌というほどよく知っている。


 自然治癒力を高める効果と痛み止めの効果が合わさった飲み薬だ。


 傷を癒す効果はそこそこといった程度だが、痛みを止める効果は即効性があり非常に強力である。


 その特性から魔物との戦闘で活躍することが多く、魔物狩りを生業とする者であれば知らない人間はいない。


 決して安価なものではなく、ブレッグが冒険者として活動していた時は依頼の報酬として支払われることもあったほどの代物である。


 ――この液体に何度お世話になったことか。


 ブレッグは小瓶の蓋を開けて勢いよく飲み干すと、昔懐かしい苦さに眉をしかめる。


「ごほっ、ごほっ」


 強烈な苦みと鼻を衝く青臭さに耐えきることが出来なかったブレッグは、腕で口元を押さえながらむせる。


 このとき、咳をしたのに胸から痛みが襲ってこないに気付く。


 さっきは息を吸っただけで叫びそうになったというのにだ。


「どう? よくなった?」


 空になった小瓶をブレッグから取り上げた少女は優しく微笑む。


 感謝の気持ちをしっかり伝えたいブレッグは頭の中で言葉をまとめてから口を開く。


「ありがとう、すごく楽になったよ」


 膝を手で押さえながら立ち上がろうとしたブレッグに、少女は慌てて注意する。


「ちょっとちょっと。痛みは消えたと思うけど、治ったわけじゃないんだからね」


「あぁ、そうだった。怪我が悪化しないよう気を付けないと」


 その言葉に少女は目を丸くする。


 頬に指をあてながら考え事を始める少女に対し、ブレッグの心は身構えた。


 ――何かまずい発言でもしたか?


 ブレッグにとっては当たり障りのない会話のつもりだった。


 当然、他者を差別するような言葉なども含まれていない。


 しかし、魔物をいとも簡単に倒せてしまう少女は常識の外側にいる存在と言っても過言ではなく、ブレッグの常識で物事を推測するのは軽率である。


 何か失礼なことをしでかしたのではと、今までの言動を振り返るブレッグだったが、少女が口にした疑問はもっと単純なものだった。


「ねぇ、さっきから思っていたんだけど……もしかして、冒険者だったりする?」


 初歩的ではあるが魔法を扱え、飲み薬の効能を把握しているとなれば、少女がブレッグのことを冒険者かその類だと考えて当然だ。


 ――なんだ。そんなことか。でも、どう答えるのが正解だろう。


 冒険者として生活することが辛くて逃げ出した話はしたくないと、彼の小さなプライドが訴えかけている。


 かといって少女に嘘をつきたくないという素直な気持ちもあり、両者がせめぎ合う。


 ゆっくり息を吐いて心を落ち着かせたブレッグは正直に話す決意を決める。


 目の前にいる少女が他人を侮蔑するような浅ましい人間だとは思えなかった。


「……実は、昔は冒険者だったんだ。でも、魔法の才能もないし、仲間たちとは喧嘩別れするしでいい思い出はないけどね」


「そう、なんだ」


 愛想笑いを浮かべた少女は返事に困っているように見えた。


 ほんの少し少女の表情が陰っただけでブレッグは罪悪感を覚える。


「ええっと、幼い頃にちょっと努力したら魔法が使えるようになって、神童なんて呼ばれたりしてたんだ。まあ、街へ出てみたら俺みたいな人はごろごろいて、すぐに自分には才能が足りていないってことに気付かされたんだけど。ほんと、世間を何もわかっていないガキだったよ」


 ――何を言っているんだ、俺は。


 少しでも明るい話題を持ち出そうとしたつもりだったが、長い時間を孤独に過ごしたブレッグにはそれすらも難しかった。


 それどころか、脳内で大切に保管しておいた明るい話題の引き出しは、古びすぎていて取っ手が地面に転がっていた。


 結果的にさらに気まずい雰囲気を作ってしまったブレッグは激しく後悔する。


 そのとき、少女は小さな両手をポンと叩いて可愛らしい音を出すと、優しい笑顔をブレッグに向けた。


「あ、でも、さっきの魔法はなかなか良かったわ。魔法の才能がないわけじゃないと思う。知ってると思うけど、魔法は得意、不得意がはっきりと分かれるの。だから、まだ得意な魔法が見つかってないだけなのかもしれないわね」


 ブレッグは瞳を開いたまま固まる。


 少女の言葉がにわかには信じがたかった。


「本当に……本当にそう思うのか? 何年間も最下層のパーティーで燻っていた俺に?」


「ええ、もちろんよ。私、こう見えて魔法を見る目はあるの」


 にっこり笑った少女は自信満々にそう言い切った。


 少女の言葉は慰めだったのかもしれない。


 しかし――それでも、自分の魔法が初めて認められたことに、ブレッグは何かを救われたような気持ちに包まれていた。


 その充足感を時間をかけて味わっていると、少女は不思議そうな顔をして首をかしげた。


「どうしたの?」


「いや、魔法を褒めてくれたのは君が初めてだったから」


 少女にとって予想外の言葉だったのか、きょとんとしている。


 そんな彼女と目を合わせ、見つめ合っていると少女は小さく笑い始めた。


「ふふ、褒めただけでそんなに感動してくれるなら、いくらでも褒めるわよ。きっと、あなたの周りにいた人間があなたの才能を見る目がなかったのね」


 目の前にいる少女は年下のように見えるが、魔法という一点に関してはブレッグが今まで出会って来た誰よりも格上といえよう。


 そんな彼女から太鼓判がもらえたとなると、ブレッグは自信に満ちてくる。


「ありがとう。これからは昔みたいに魔法の練習をしてみるよ」


「うん、頑張って。そして、いつか私がピンチの時に助けに来てね」


 彼女がピンチに陥る状況なんて想像できないが、ここは男らしく頷いておく。


 それに少女は笑顔を返して答えてる。口には出さないが『よろしくね』と。


 少女との出会いによって心が満たされつつあったブレッグだったが、ここで肝心なことを忘れていることに気付いた。


「そうだ、君の名前……聞いてもいい?」


「確かに、まだ名乗っていなかったわ。私はフィオライン・ベナイザ・アガー……」


 途中で黙ってしまった少女は、ふっくらと膨らんだ口元に人差し指をあてて少し考えた後に訂正する。


「いえ、フィオラって呼んで。仲が良い人からはそう呼ばれるの」


「……フィオラ」


 自分にしか聞こえないほど小さな声でその名を繰り返す。


 フルネームを聞くことはできなかったが、名前からして少女――フィオラの生きて来た世界はブレッグと全く異なることを思い知らされる。


 ブレッグはラストネームもなければミドルネームもない。


 しかし、庶民にとってはこれが当たり前のことで、逆に名前が長い人物は貴族や王族といった要人だ。


 フィオラはいったい何者なのか、何が目的でこんな人里離れた山奥に足を運んだのか余計に気なってくる。


 だが、そんなことは一度置いておいて――


「俺はブレッグ」


 フィオラと生きている世界が違うからと言って何だというのだ。


 今までの経緯で十分理解していたつもりだ。


 そう思えたブレッグは自信満々に名前を伝えることが出来た。


「そう、ブレッグっていうのね。今日は魔物を倒すのを手伝ってくれてありがとう」


 フィオラは魔物を一人で倒しており、ブレッグは手伝った覚えなどない。


 しかし、フィオラが言いたいことはそういうのではなく、きっと今日の出会いに感謝したいのだとブレッグは感じ取った。


 となれば、次に発するべきブレッグの言葉も自然と決まってくる。


「こちらこそ、魔物に殺されそうなところを助けてくれてありがとう。……いや、本当に、助けてくれなかったら確実に死んでいたよ」


「そうね。でも、何か得られたこともあったんじゃない?」


 ――流石、何でもお見通しだ。


 死の淵に立たされたことで、ブレッグは危険に直面したとき実力を発揮できるタイプの人間だと自覚した。


 逆に言えば、死にそうになるまで追い込まれないと実力を発揮できない、柔弱な人間であるということだ。


 街で魔物狩りをしていたときも危険と隣り合わせではあった。


 しかし、狩る相手を選んで入念な準備をしており、今回のように死にかけたことなんて一度もない。


 もし、その頃に今と同じような経験をできたなら、何かが変わっていたかもしれない。


「自分の本質が少しだけ理解できた気がする」


「それはよかったわね。よく、身の丈に合ったことをしろって言うけど、そもそも自分の身の丈を把握できている人は少ないわ」


 その言葉にブレッグは頷いて同意する。


「自分の強みと弱みを客観的に理解できていれば、次に危険な場面に遭遇してもなんとかなるはずよ」


 そんな場面には二度と遭遇したくないものだとブレッグの本心は呟くが、フィオラの話には一理あった。


 見た目は幼さを残した可愛らしい少女だが、魔力と同様に知力も常人を凌駕しているように思えた。


「わかった。覚えておくよ」


「うん」


 ほんの少しだけ二人の会話に間が開いた後、フィオラは切り出す。


「じゃあ、そろそろ行こうかしら。しばらくは近くの街か村に留まる予定だから、もしも同じような魔物が出現したらいつでも呼んでね」


 ついにその時が訪れてしまったことに、ブレッグは長年感じることのなかった感情が湧いていた。


 誰かと時間を共有することで心が満たされつつあったのだ。


 それに、『いつでも呼んで』と笑顔で言ってくれているが、そんな日はきっと来ない。これが最後の別れに違いなかった。


 当然、そんな胸中を察せられないようにブレッグは表情を変えず答える。


「助かるよ。でも、こんなことは滅多にないからたぶん大丈夫」


「そうなの? こうして実際に出現してるわけだけど……」


 フィオラは細くて整った眉を顰める。


「推測だけど、この魔物はどこか別の山から迷い込んできたんだと思う」


 フィオラは知識に長けているかもしれないが、この山に関してはブレッグの方が詳しい。


「この山に住んでいる魔物はもっと小型だから心配しないで平気。今までもなんとかなってたわけだし」


「まあ、山の住人がそういうなら大丈夫ね」


 山の住人という呼ばれ方にブレッグは釈然としない気持ちとなったが、自分の言葉を信じてもらえた喜びが勝った。


「よしっ。心配事もなくなったことだし、今度こそ行くわ。――またね、ブレッグ」


「……また、どこかで」


 こくりとフィオラは頷くと、ブレッグに背を向けて歩き出す。


 一歩、また一歩と遠ざかっていくフィオラの背中を見つめていると、彼女は歩きながら振り返った。


「胸の傷、早く治るといいわね」


「ありがとう!」


 離れて行くフィオラにしっかり届くよう、大き目の声で返事する。


 フィオラが手を振ると、ブレッグも手を振ってそれに答える。


 やがて、フィオラの姿は森の木々に遮られて見えなくなった。


「はぁ」


 一人になったブレッグは人目を気にすることなくため息をつく。


 孤独の日々が再び始まった。


 とはいえ、孤独が悪いものでもないということをブレッグは知っている。


 全て自分で決めることが出来るし、誰からも干渉されることはない。


 今は寂しさを感じているが、数日経てば消えてなくなる。


 いつものことだ。 


「ねぇ!」


「うぉわっ」


 突然の声にブレッグは驚きを隠せない。


 声がした方向を確認すると、そこには木の影から体を出したフィオラが大きく手を振っていた。


 ――驚かそうとしただけじゃないよな。


 だとしたらそうとう質が悪い。


 そんな邪な心を持った人間ではないと信じているブレッグはフィオラの目的を予想するが、それより早く小走りでフィオラは近づいてきた。


「どうかしたのか?」


「えっと、その、少し聞きたいんだけど」


 肩を小さく丸めたフィオラは指さす。


 その指が示す先にブレッグが視線を向けると、そこにはさっき死んだばかりの魔物の死体があった。


「あれって食べれたりするのかな?」


「え? 食べられるんじゃないかな。たぶん」


 予想外の質問に動揺したブレッグは特に考えることなく答える。


 そんなブレッグがフィオラの方へ視線を戻すと、彼女は琥珀色の大きな瞳をキラキラと輝かせている。


 胸の前で細くて白い両手の指先を合わせており、何を期待しているのかは一目瞭然だ。


 そこで、彼女の求めているであろう言葉をブレッグは投げかけてみることにする。


「食べるなら調理しようか?」

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