第9話 終電

 大学の3回生のころの話だ。先輩の院生の学会発表に付き添い、終わった後に慰労会ということで飲みに参加した。2次会にも行って、3次会では教授のおごりで、少しお高めのバーというものを始めて体験した。

 ぐでんぐでんになった先輩をタクシーに放り込んで教授も見送った私は、少し遠いが最寄りの駅から電車で帰ることにした。酔い覚ましにも、歩いて30分ぐらいの距離は都合がいい。幸い、終電にも間に合いそうだった。

 駅はローカル線の小さな所で、駅員も帰っていたので実質的には無人だった。

 しばらく待っているうちに電車がホームに滑り込んできた。そこそこ人が乗っている。スーツ姿のビジネスマン、ビジネスウーマン、作業着姿の若い男、派手なシャツを着た職業不明の中年男性、水商売風の美人。他にも、学校の制服を着た高校生らしき数名、品の良い老婦人、抱っこひもで赤ん坊を抱えた若い女性など、普通なら終電に乗りそうにない人もいた。

 スマートフォンをいじっている人、音楽を聴いている人、本を読んでいる人、居眠りしている人、ただ何となくどこかを見ている人。それぞれが、思い思いの方法で、列車での移動時間を潰している。

 眼前でドアが開いて乗り込もうとしたとき、車内の人々が一斉にこちらを向いた。

 本当に文字通り「一斉に」だった。老若男女を問わず、読書をしていた人も遠くを見ていた人も、席に座っていた人も立っていた人も、すべての人々の顔が、完全に同じタイミングで私の方を向いた。

 全員が眉一つ動かすこともなく、こちらを見続けている。こちらを見続ける数多の顔には、何の表情も浮かんでいない。まさに「ガン見」という言葉そのままに、瞬きさえしない。抱っこひもの中の赤ん坊でさえ、母親と全く同じ表情でこちらの方を見ている。

 恐ろしくなって他の車両のドアへと向かったが、人々の視線は私を追いかけてきた。

 前側の車両へと移動したものの、そこの人々もこちらを見ていた。前の車両と同じように、年齢も性別も職業も関係なく、乗っている全員がこちらを見ている。最初にドアが開いた時からこちらを見ていたらしく、窓を通して視線が追いかけてきた。

 視線に追われながら電車に沿って前に進んでいくと、運転席から人影が上半身をのぞかせた。運転手が、ドアを閉める前の安全確認をしている。

 運転手は笑っていた。顔全体で。目は中の乗客と同じようにこちらをガン見しながら、両方の口角が吊り上がり、歯をむき出している。車内に目を戻すと、乗客は相変わらずこちらを凝視していた。今度は全員の口元が運転士と同じように吊り上がっている。車内いっぱいの、歯をむき出した笑い。それがすべてこちらを向いている。

 完全にその場から動けなくなっている私の目の前で、電車のドアが閉まった。凝視してくる乗客を乗せたまま、終電はホームを出て行った。列車が完全に見えなくなるまで、乗客たちはこちらを見続けていた。

 10分ほど経って動けるようになると、駅から離れて漫画喫茶で夜を明かした。

 それから、終電には乗らないようにしている。

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