第8話 イノシシ
私が通っていた大学は山のすぐ近くにあった。近年は山に入る人が少なくなったせいで、日本全国の山でイノシシやシカ、クマの数が急激に増加し、人里にも現れて問題になっている。大学近くの山地も同じで、動物が街に現れて警察や猟友会が出張ることがしょっちゅうあった。
大学の構内でもイノシシを見かけることがあった。実験農場では、イノシシが入ってこないように、夜は絶対に施錠しろと注意書きがされている。私自身もイノシシを見かけることは何度かあったが、幸いにも距離が離れていたし、こちらから近づくことは絶対になかった。
ただ、一度だけ至近距離で出会ってしまったことがある。その時のことは今でも忘れられない。
あれは春先で、何かの用事で大学を出るのが10時を過ぎてしまった時のことだった。夕飯は帰りにどこかで食べようと考えながら門へ向かっていると、前方から動物が歩いてくるのが見えた。犬よりもかなり大きく、蹄の音がする。だが、馬よりは小さい。すぐにイノシシだと気づいた。それがまっすぐ、こっちへと向かってくる。
とっさにどうしようかと考えた。あれが何かの拍子で突進してきたら、とても逃げられるものではない。人間よりもよっぽど足が速く、小回りも利く。体当たりされても噛みつかれても、怪我は避けられない。運が悪ければ殺されてしまう。
後ろを向いて走るのは怖かったので、ひとまず脇に避けて道を譲った。なるべく離れるために道の端まで寄り、すぐに走り出せるように身構えておく。
イノシシはこちらを認識しているのかわからないほど悠々と、よどみなく歩いてくる。近づくにつれ、私はイノシシの毛にいくつもの禿げがあるのに気が付いた。年老いているせいかと思ったが、すぐに
このイノシシは禿げが体中に広がっており、ずいぶん重症だった。人間ならば死ぬことはないが、犬やタヌキなら命にかかわることで知られている。もしかすると、こいつも長くはないかもしれない。横を通り過ぎていくイノシシを見ながら、私はそんなことを考えていた。
イノシシは最初と同じスピードで、私の横を通り過ぎようとしていた。近くで見ると、その大きさに驚かされた。体重は100㎏を優に超えているだろう。
ふと、人の声が聞こえた気がした。かゆいとか、そう言った気がする。誰かが近くにいるのかとあたりを見回したものの、私以外の人間はいなかった。
イノシシの方を向くと、そいつの脇腹あたりにある大きな禿げが目に留まった。そこには相当数のダニが入っているらしく、皮膚が分厚く角質化して、歪な盛り上がりができていた。
そう思った時、脇腹の盛り上がりが〝ぐぬり〟と動いた。横向きの裂け目が二つ生じて大きくなり、中から濡れた白いものが姿を見せた。下に別の裂け目ができて、ぱくぱくと開閉した。
「かゆい」
脇腹のしゃべる腫れ物を気にするでもなく、イノシシはゆっくりと歩き続け、どこかへと姿を消した。
その日の夜は体を入念に洗って、布団には乾燥機をかけた。
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