第13話 アイロン掛けは2万7000m上で⑦

「理解できない」

「僕も無理だ」

 話を聞いたアレックスの感想に、誠は全面同意した。普通はそれ以外の感想は言えない。

 理解できたら負けた気がする。そう言いながら、アレックスは関節部を覆うカバーのボルトを緩め、挟まっているシートを引っ張り出した。落ちてくるシートを誠が受け止め、畳んで隅の方に置いておく。

「まあ、あの人らしいエキセントリックさっつうか、イカレ具合っていうか。何目指しているんだ?」

「最終目標が何なのかはわかんないけど……。なんか次はオリンポス狙っているとか言ってたよ。超絶的困難を乗り越えた先で、平然と日常動作をやるのがこのスポーツだとかなんとか」


 オリンポス山。ギリシャ神話の神々12柱が住まうとされる山から名づけられた、火星で最も高い山だ。火星には海がないので“標高”は測れないが、ふもとから測ると高さは2万7000mになる。火星の平均地表面からなら2万5000mだ。

 高さだけで言えば小惑星ベスタのレアシルヴィア・クレーターの中にある山に100m程負けているが、それでも太陽系内では2位だ。

 地球で最も高い山は標高8848mのエベレストだが、ふもとからの高さで見ると、一位の座はハワイのマウナ・ケアになる。海底からそのまませりあがって陸地になっている火山で、標高だけで見ると4000mと少しだが、ふもとである海底からの高さが1万m以上になる。

 だが、オリンポスの高さはその3倍近い。高さだけでなく、体積も大きい。勾配がすさまじくなだらかなせいで、裾野から山頂までの距離は200km以上ある。比率で言うなら超ペタンコの山なのだ。そして、外縁部は高さ5kmほどの崖になっている。

 オリンポスに登ろうとすると、高さ5kmの切り立った崖をよじ登った後、東京の都心から八王子市までの距離の坂道を上り続ける必要がある。もちろん酸素はない。

 ただでさえ火星の大気は薄いのに、ここまで高度が高くなれば宇宙空間と大差がない。ロケットエンジンを使った乗り物でないと、山頂に降り立つことは不可能と言っていい。


 そうした場所なので、いろいろな会社が技術的挑戦として陸路での有人登頂を狙っている。NUTもその一つで、計画を進めているところだ。秋子はこれまでのアウトドアの経験を利用して、遠征隊の中に紛れ込もうとしている。

 目標は初登頂ではなく、「初アイロン」なので、第一次隊でなくても構わないと考えているらしい。いずれにしろ、あのアイロン台と改造アイロン、ブラウスとハンカチは何とかして持っていくつもりだろう。

「本当に何を目指しているんだろうね」

「人生を楽しんでるってのは確かだな。さて、これで直った。チェックしてくれや」

 アレックスがカバーを戻し、ケーブルを外して身軽に飛び降りた。誠が制御システムから診断プログラムを走らせると、マニピュレーターは一通りの動きを行った後、折り畳まれて天井に格納された。診断ログにはエラーなしの表示が出る。

「機械は俺たちが整備してやれば、ちゃんと関節が曲がるようになる。秋子はメイが上に乗っても曲がらない」

 運動不足ってことは、ないはずなんだがねえ。そう言いながら外に出た。地球で見るよりもかなり小さい太陽は、地平線の向こうに隠れかけている。アレックスは無線を管制室につないで、マニピュレーターが直ったことを報告した。

「こちらボーン。マニピュレーターの異常解消。防護シートが関節に引っかかっていただけでした。これから戻ります」

『了解。もう暗いから気を付けて帰ってこい』


 さて、帰りますかと言いつつ、行きと同じように工具を抱えて後ろに乗り、誠がハンドルを握る。

「しかしよお。アイロンは別としといて、南極で山登るとか、クロカンレース完走するとか相当なアスリートって感じだけど、それでも柔軟性とか運動センスとかはないんだな」

「まあ、一流アスリートでも絶対に股割りできるわけじゃないし」

「そんなもんかね。小柄な人って、そういうのに強そうな気もするけど。いや、あれだ。胸が邪魔してそれ以上曲がらないってならともかくなあ。オリンポス山とは言わんまでも、だいぶなだらかだろ、あれ」

「おいおい」

 しかし、シャツを着ているときの秋子の胸を思い出せば、“なだらか”のワードだけは否定できなかった。

「いや、胸は関係ないな。あの角度で曲がらないんなら、問題があるのは胸の方じゃねえ。腹の部分だな」

「それはいくらなんでも失礼でしょ……」

「だってさあ、よくいうだろ? 体力がある奴って普段からよく食うんだけど、運動できない状況になっても同じように食べちゃって一気に太るって話。あの人も食べるの好きだろ? 腹に障害物が入っているから曲がらない、なんてな」

 そこまで言って、アレックスは自分の言葉に笑ってみせた。それに対し、誠はあまり楽しいとは思えなかった。万が一秋子の耳に入ったらと思うと、今のセリフは聞かなかったことにして記憶から消すのが正解だと思えてくる。

 “弱み”云々の話は抜きにしても、彼女なら死体の一つや二つはきれいに消してしまう方法などいくらでも思いつくからだ。


 外が完全に暗くなる前に基地にたどり着き、ATVごとエアロックに入った。空気が吹きこまれ、内部が人間の生存できる状態へと切り替えられていく。

「修理完了です。本部に、発送の際は梱包材の留め付けをチェックするように報告してください。それが原因でした」

『了解だ。ご苦労だったな』

 内部への扉が開き、誠とアレックスは室内へと戻った。

『ああ、それとだ。ヘルメットはまだかぶっておけ』

「はい?」

『無線がオンのままだったぞ』

 その言葉に、誠とアレックスは凍り付いた。

 まずいと思う間もなく、アレックスの背後に冷たい殺気が迸った。振り向くよりも早く、後ろから伸びてきた腕が腰に回され、体の前でがっちりと組まれて胴体を締め付ける。

フン!」

 気合い一声と共にアレックスが床から引き抜かれ、のけぞるようにして後ろへと投げられる。ブリッジした状態になった秋子の姿が見えたと思った時には、鈍い音と共にアレックスが後頭部から床に激突した。

 丸まったままひっくり返されたイモムシのような状態のアレックスを抱え、秋子は完璧なブリッジ姿勢を維持している。どこからともなくメイが現れ、床を叩いて3カウントを取った。

 カウントが終わると秋子がさっと立ち上がり、メイがその右手を取って高々と掲げた。

「勝者! 小川秋子~!」

 秋子が(なだらかな)胸をオスのゴリラ並みに張って、ガッツポーズをして見せる。その顔がぐるりと誠の方を向いた。

「あのアイロンさ、実は持ってきてんのよ。一緒に笑ってたら、あんたの頭に掛けるとこだったわ」

「……僕は笑ってないです」

「オリンパスに登るときは、一緒に来てくれるわよねえ?」

「善処します」

 いつぞやと同じように、かわいらしく毒を含んだ笑みを残し、秋子はメイと共に去っていった。

 誠は何となくみじめな気持ちを抱え、宇宙服を脱ぐために装備室へと向かった。

 後には、アイロンを掛けられたかのように床にのびたまま放置されているアレックスが残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

火星の秋子 氷川省吾 @seigo-hikawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ