第12話 アイロン掛けは2万7000m上で⑥
「皆さんこんにちは。日本出身のアイロニスト、小川秋子と言います。NUT社火星支局本部基地で、バイオマス生産研究部門の上級研究員をしています。
ここは火星のアキダリア平原に置かれたNUT社火星本部基地から、1kmほど離れた岩山です」
そう言って、後ろにある基地の方を指さして見せる。
「今日は風もなくて良い天気なので、外に出てきました。まあ、火星で曇りになるほど雲が生じる日なんてないですが、少なくともダストは舞っていません。地球ならお洗濯日和です。火星では野外に洗濯物を干すと、あっという間にフリーズドライになりますが。
現在、気温はマイナス23℃。湿度は当然0%です」
誠がハンディカムの画像を見ると、ちゃんと気温がレコードされていた。秋子の言葉通りの温度で、火星にしてはそこそこ温かい。
「アイロンは地球から私物を持参しました。火星の環境に合わせて、ちょっと改造しています」
そう言って手にしたアイロンをカメラに向けて掲げた。どこにでもありそうな普通の家庭用コードレスアイロンに見えるが、ところどころにはんだ付けの跡があったりパテが盛られていたり、何か不自然な部品が付けられたりしている。
「クッソ寒い火星でもばっちり熱くなるように、出力をかなり強化しています。スペシャル改造です。良い子はマネしてはいけません。寒いとバッテリーがうまく働かないので、そっちも極低温対応の全固体電池に交換しています」
続いて、取っ手と一体化している水のタンクを取り外して見せる。
「元はスチームアイロンですが、スチームの機能は使いません。というか使えません。水タンクは空です」
タンクを戻し、今度はアイロン台を指さす。
「アイロン台は借用してきた折り畳み式の台です。上に防護シートをかぶせて使います」
続いて、シートの上に置かれたブラウスを手に持って広げた。
「アイロンを掛けるために、地球からブラウスを持ってきました。ずっとしまっていたので、しわと折り目がついちゃってます」
ブラウスを広げると、折り目以外にくっきりとしわが付いている。体積を減らすために真空パックしていたことが原因らしい。
「アイロンって、原理的には熱だけでも十分なんですよね。熱で繊維の分子間力を弱めて、そこに重しをかけてまっすぐにするわけですから。ただ個人的には、やっぱり霧吹きなりスチームなりがあった方がいい感じなんですね。
ただ、火星だとスチームとか霧吹き使おうにも、気圧がゼロだから服にかける前から沸騰して、0℃以下のまま水蒸気になっちゃう。服は一切湿らない。そこで発想を変えました」
ジャジャン。そう言って灰色の薄いシートを掲げて見せる。
「これは植物を育てる水を土壌に固定するために、3か月ほど前に開発した素材から作ったフィルムです。熱を加えると二酸化炭素と窒素、水に分解されます。
作ってはみたけどそれほどいい使い道が見つからなかったんで、お蔵入りになっていました。これを水の供給源にします。それでは、アイロン掛けスタートです」
台にシートを敷いて上にブラウスを広げ、改造されたアイロンを起動した。少し経って十分な温度に達したらしく、ダイヤルを切り替えてブラウスにアイロンを当て始めた。
「方法は地球と同じです。細かい部分から広い部分に。ただし、アイロンは超熱くなっている上に、温度が下がるのもめちゃ速いです。高分子シートもすぐに気体になってしまうので、スピード感が重要です」
アイロンが充てられた場所の下に敷かれているシートが、すぐに白くなって溶けるように消えていく。
「まずはえり。えりを引っ張って伸ばしながら、端から中央にむかって滑らせるようにかけます。内側をかけ終わったらひっくり返し、こんどは反対からも掛けます」
そういいつつ、ガシガシとアイロンを掛けていく。宇宙服姿でアイロンを掛ける女。これは笑うべきなのか称賛するべきなのか、誠には判断が付きかねた。
「お次は肩。角の丸い部分にかけながらやると、キレイに出来ます。このために、台も角が丸い奴を選びました」
左右の方にそれぞれアイロンを当て、えりと肩の境目にも当てる。それが終わると、ボタンがある側を上にして袖を広げた。
「袖は内と外の両方にかけます。終わったら、袖口から肩にかけて滑らせる」
袖口に改造アイロンの先端を当てて丁寧にしわを伸ばすと、今度は肩にかけて大胆にアイロンを滑らせて言った。
「最後は胴体。右前側を上にしてアイロン台に沿わせるように置き、細部から広い部分へ。次に後ろ、最後は左です」
言葉通り、ブラウスの位置を変え、下に敷くシートも交換しながらアイロンを当てていった。
「これで完成! 火星の屋外でもアイロンがけが出来ました。ちゃんとしわも消えています」
ブラウスを自慢げに広げて見せる。確かにしわが消えている。そしてそれが何なんだと言ってしまえばそれまでだが、本当に意味が分からない。
「地球のアイロニストの皆様も、エクストリーム・アイロニングの可能性を突き詰めていきましょう。これほどハードな旅の先にも、アイロン掛けの落ち着いた世界を見出すことができます。それではまた~」
この動画のデータは、補給船が地球に戻るときにホームビデオの一つとしてドライブにレコードされた。地球でどう受け取られているのかは、誠には分からない。
少なくとも、秋子が属している特殊な界隈では話題となっているのだろう。
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