第11話 アイロン掛けは2万7000m上で⑤

 誠は秋子に“命じられた”とおり、宇宙服と生命維持装置を装着し終わると、操車場へと向かった。秋子は先に来ており、ニコニコと笑いながら手を振ってくる。

 これが意中の人であれば幸せな瞬間になるだろうが、自分を脅迫してきた変人であると考えると、げんなりするしかない。

「悪いけど2番のローバーを申請して来て。荷物積んどくから」

 そう言って、2層の立体駐車場に停められているローバーの一つを指さす。地球で使われているサンドバギーとよく似た車で、キャビンがないので乗るには宇宙服を着る必要がある。

 車を借りるための申請端末のところまで行くと、操車場の管理官が目ざとく見つけて声を掛けてきた。

「おや? 美人さんとデートか?」

「あの人との“デート”は無料運転手を意味します」

 誠の言葉に、管理官は声を上げて笑った。秋子の才能と変人ぶりは、この基地で働いている者であれば大抵は知っている。知らなければそれは新入りか、離れた部署の人間かの二択だ。

「おっさんにこき使われるよりゃいいじゃないか」

「変な人の変な思い付きに巻き込まれる方も、いい加減怖いですよ」

「あのお嬢さんと仲良くしていたら、いろいろと便利なんじゃないのか?」

「仲良くしていないとひどい目に遭いますね」

 管理官はまた笑い、手続きを終えた誠の背に、若いモン同士楽しんで来いと声をかけた。あのおっさんは何か勘違いしていないかと思ったが、ややこしくなるのでやめておくことにした。

 ローバーのところに行くと、秋子はすでに荷物を積み終えて、当然のように助手席に座っていた。誠も運転席に座って認証パネルに手を当てると、ロックが解除されてバッテリーが起動する。そのまま車両用エアロックへと入り、外に出るために空気が排出されるのを待つ。

「で、何しに行くんです?」

 排出完了の音声と共に外に続くドアが開くのを見ながら誠が利くと、秋子はバイザーの向こうでにこやかな笑みを見せた。

「アイロン掛けに行くの」


 エクストリーム・アイロニングとは!

 文字通り極限エクストリームな条件の下でアイロン掛けを行うエクストリーム・スポーツの一つ!

 山や崖の上、砂漠や雪原やジャングルのど真ん中、あるいは海の中へと到達し、平然とアイロン台を出して涼しい顔でアイロンがけを行うことが、このスポーツの基本である。

 求められるのは、舞台となる場所までアイロンなどの道具一式を携行して到達する体力と技術。そして、極限状況であっても平然とアイロンをかけられる精神的強さ。

 エクストリーム・スポーツの“動”の興奮と、アイロン掛けという“静”の要素が組み合わさった、精神と肉体の両方に活力をもたらす競技である。

 イギリスのロッククライマーで「スチーム」の異名を持つフィル・ショー氏が、1990年代後半に、自宅の裏庭でアイロンのかけ方を工夫していた際にルームメイトに何しているのかと尋ねられ「エクストリーム・アイロニング」と答えたことから、このスポーツは誕生した。

 ショー氏は1999年6月、蒸気が出るほどに奮起して、このスポーツを広めるための世界遠征に旅立った。そして、エクストリーム・アイロニング事務局と、エクストリーム・アイロニング・ドイツ支部が設立されることになり、2002年には世界大会が開催され、その後も定期的に続けられている。


 エベレストのベースキャンプ(標高5000m)でも、タンザニアのキリマンジャロの頂上(標高5859m)でも、アルゼンチンのアコンカグアの頂上(標高6959m)でもアイロンがけが行われた。

 南極の流氷の上、グランドキャニオンの上、深度100mの海中、火災で寸断された道路の上、垂直の断崖にロープでへばりつきながら、峡谷に渡されたロープにぶら下がりながら、洞窟の中で、紛争地域のど真ん中で、戦車の上などでもアイロンが掛けられている。エクストリームな場所だけでなく、スキーをしながら、馬に乗りながら、ジェットスキーをしながら、タクシーに引っ張られながら、スカイダイビングしながら、パラグライダーに乗りながらなど、エクストリームな状況でアイロンをかける競技者もいる。

 ロンドンマラソンで道具一式を背負って参加し、道中で持ってきた衣類のしわをきっちり伸ばしつつ、42.195kmを完走した猛者も存在するのだ。

 日本でも2004年に支部が設立された。2006年7月には、支部の代表である松澤等氏が、25kgの発電機と愛用しているアイロンのセットを背負って富士山に単独登頂し、世界初の富士山頂アイロニングを成功させている。


 指示された目的地へとローバーを走らせる誠の横で滔々と述べると、秋子はいったん言葉を切った。

「そういうわけなのよ」

「何がそういうわけなんですか」

 秋子から話を聞かされても、まことにとっては何やらすごい話ですねとしか反応できない。世の中には変わり者が多数いるが、そこまで気合いが入った変わり者連中は珍しい。

「世の中にはそういう熱いスポーツがあるってこと。そんでもって、私もアイロニストなのよ」

「あー……。つまり、南極最高峰ヴィンソン・マシフに登ったり、ウユニ塩湖を横断したりしたのは、アイロンを掛けるためだったと」

「その通り」

 なんのこっちゃと思いながら、誠はローバーを運転し続けた。起伏がない道を選んではいるが、岩が転がっていないとも限らない。もしも横転したときに、始末書にどう書くことになるのだろうか。アイロン掛けのために外出した際、不注意で岩に接触。おそらく、NUT社どころか火星に進出した企業すべてにとって“注目する事例”になることだろう。

「まあ、今までいろんな人がいろんな場所でアイロンを掛けてきたし、私もいろいろやったわけだけど、地球外でってのは基本ないわけよ。少なくとも知られている限りだと」

「当たり前でしょ」

 宇宙開発が始まってから今日に至るまで、宇宙にアイロン当てが必要な服を持って来た奴などは聞いたことがない。

「で、私が世界初の地球外アイロニストになるの。そこの岩山のふもとで停めて」

 左斜め前方に、忘れ去られたように立つ小さな岩山がある。高さは10mほどだ。ふもとで停めると、秋子はローバーから降りて、荷台から荷物を取り出した。一抱えほどある耐熱バッグだ。

「あの上がいいわね。基地も見えるし」

「僕も行くんですか」

「偉業を成すなら、それを撮影してくれる人がいないと」

 何が偉業なんだよと心の中で突っ込む誠を尻目に、秋子は岩山を登り始めた。地球で山登りをしていたのは伊達ではないらしく、荷物を持ったまま軽々と登っていく。荷物を持てと言わずに自分で持っていくのは、“アイロニスト”とやらのルールなのだろう。


 ほどなくして岩山の頂上に着いた。遠くにNUT社火星基地本部の姿が見える。居住施設はほぼ地下にあるが、産業や運送に関わる施設は表に出ているので、かなりはっきりとその姿が見て取れる。岩山の上を選んだのは、あれを背景に入れたかったのだと、誠は理解した。

「まずセッティングするわね」

 そう言って、秋子はバッグの中から次々と道具を引っ張り出した。一人用の折り畳みテーブルを出して、防護シートをテーブルクロスのように被せる。パウチからは(地球でなら)普通のブラウスを出してテーブルに置き、その隣に灰色のプラスチックフィルムのようなシートを置いた。そしてまごうことなきコードレスアイロン。

 最後にハンディカムを出して、誠に手渡してきた。

「私とアイロン台全部が映って、基地が背景に入るアングルで撮って」

 この人正気か……。口には出さないで、ハンディカムを起動すると、ヘルメットのバイザーの端にウィンドウがポップアップし、カメラの画像がリンクされた。火星の大地、宇宙服、そしてアイロン台。冗談としか思えないシュールな光景だ。映っているのが小川秋子でなければ、合成か何かだと思っただろう。

 火星開拓史上において、おそらくもっとも意味がない記録撮影が始まった。

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