第6話 風呂は2億3000万km彼方に⑥
機械工作室の中で、誠は熱処理炉の様子を見ていた。
この炉は普段は3Dプリンターで作成した金属部品を熱処理するために使われている。基本的には部品作成作業に応じて自動で処理されるようにセッティングしてあるが、使っていない間は手動で設定して使うことも出来る。
今回はベアリングやナットではない物を焼いている。自動設定だとエラーが出て即座に停止させられてしまう。
設定した時間がたち、中で焼いていた物がコンベアで搬出されてきた。今日の昼に秋子が拾ってきた石が、400度の高温に熱せられている。まごうことなき焼き石だった。
火星で焼き石を作らされる人間って、今のところ俺だけだよな。
そんなことをつぶやきつつ、誠は高温物取り扱い用のマニピュレーターを使って、焼き石を耐熱バケットに放り込んでいった。そのままバケットを持って、液体取り扱い区画に向かう。
ここには、同じような耐熱バケットに水が貯めて置いてあった。一昨日取ってきた氷の半分だ。残りは秋子が「風呂場」に定めた養殖場に持っていってある。あそこなら水がこぼれても問題がないし、除湿も出来るからという理由だ。
注意しながらアツアツの石が詰まったバケットを水の横に下すと、秋子が作業所に入ってきた。
「どう? 出来てる?」
開口一番にそういって、誠の肩越しに焼き石の様子を確かめる。
「これから沸かします。ちょっと離れてください。危ないかもしんないので」
誠は作業時に使う耐熱長手袋とエプロン、フェイスガードを付け、マニピュレーターを手にした。
熱の塊になっている焼き石を、バケットの水へと一個ずつ、そっと入れていく。熱くなった玄武岩が水に触れるたびに、ジュッいう激しい音がして湯気がでた。
「いいねいいね」
その様子を見た秋子がはしゃぐ。時折かき混ぜながら石をすべて入れ終えると、バケット内の水は沸き立っていた。
「よっしゃ、成功! 風呂場へGo!」
さも当然とばかりに誠に指示する。自分でやってくださいよとは言うものの、いつものようになぜかうやむやになって、誠が運ぶことになった。
煮えたぎる湯と石が入ったバケットを台車に乗せて、養殖場へと運んで行った。秋子は湯がこぼれないように注意しつつも、実に楽しそうにしていた。
途中で女性用の2人部屋に寄り、着替えとタオルを取ってくる。
「あら、お風呂?」
メイが聞くと、秋子は満面の笑みで手を振って見せた。
ティラピア入りのケースを手にしたアントニオと入れ違いに養殖場に入り、誠は湯の入った台車を“風呂桶”の横に止めた。
「じゃあお湯入れて。かき混ぜるから」
秋子は誠にポンプを渡し、自分は長い棒と温度計を手にして脚立に乗った。よく見ると、棒は野菜用の支え棒だった。誠がポンプを動かして、水が半分ほど入っていたドラム缶にお湯を送り込んでいく。秋子は棒で冷たい水とお湯をかき混ぜて温度を一定にしつつ、温度計に目を光らせていた。
やがて、周囲が風呂場の雰囲気をまとうようになり、秋子の合図で誠は湯を送り込むのを止めた。水槽が並ぶだけの養殖場を、温かい靄が満たしている。
「火星風呂、完成! 風呂なしの生活よ、さらば」
湯気を出すドラム缶を前に、秋子がガッツポーズをとる。そしてくるりと誠に向き直った。
「誠ちゃん、ありがと! 多分この感動は分かると思う。入りたかったら石は好きに使っていいから。でも、ここからは男子禁制の世界」
着替えとタオルを持った秋子は、遮蔽シートを引いてマジシャン張りの素早さで自分と風呂を隠した。
「覗きに来たら殺すからねー」
言う端から衣擦れの音がして、ジャンプスーツ、Tシャツ、そして下着までが乱雑に放り出されてくる。
「そういうのは恥じらいってもんを持ってから言うセリフだと思いますよ」
言い返しながら外に出る誠の背後で、湯が跳ねる音が盛大に聞こえてきた。
養殖場を出たところで、今度はメイと鉢合わせした。手には着替えとタオルが乗っている。
「出来たなら入らせてもらうって話になってたのよ。だから水とお湯は大目に取っておいてくれたって。まあ、二人分で限界かもね」
ちょっと申し訳なさそうに言うメイの様子からすると、彼女は誠も風呂に入りたいと言い出すと考えているようだった。
実際のところ、最初は別にそれほどでもなかったのだが、いざ目にしてみるとその魅力は抗いがたくなってくる。明日は俺も氷を大目に取ってこよう。そんな思いが誠の頭に浮かんだ。
火星で風呂に入る。偉業とは言うには微妙かもしれないが、人類史上初めてのことではある。
こうして小川秋子の野望はまた一つ達成され、彼女は「火星で一番風呂に入った女」の称号を手に入れた。
地球から2億3000万㎞離れた場所に、本格的な風呂場が作られるのがいつになるのかは、まだ誰も知らない。
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