第5話 風呂は2億3000万km彼方に⑤

『ID1856-11875。アキコ・オガワ。エアロック解除』

 管理システムが秋子のIDを認識し、エアロックのドアを解除した。赤褐色の砂ぼこりとともに、宇宙服を身に着けた秋子が入ってくる。

 背中には30リットル入り袋ほどのサイズがあるコンテナを、バックパックフレームに乗せて背負っていた。

 誠にドラム缶を復元させた翌日、秋子は午前中いっぱいを野外作業に使う申請を取っていた。

「欲張りすぎたな。火星でもこんだけ運ぶと重たいわ」

 そう言って、担いできたコンテナを降ろし、床からせりあがってきた外部採取物用エアロックに投入した。エアロックが閉じて、中身を採取物用レーンに運び入れる。

 荷物を降ろすと次のエアロックに入り、バックパックフレームと宇宙服を脱いで洗浄ロッカーへと入れた。


 着替え終えると、その足で入退室管理室へと直行した。今日の当番をしていたジャックが、コンソールを見て首をかしげている。

「秋子、何を持って帰ってきたんだ? 石……、だよな?」

「見ての通り石。玄武岩。あの中に一杯」

 画面にはふたを開けられたコンテナの中身が映っている。まさにまごうことなき石がぎっしり詰まっていた。大きさはどれも小ぶりなメロンぐらいで、形は不均一。地球上では70kg以上になる量だった。

「集めんの大変だったのよ。いい感じのサイズの奴があんまりなくて」

 そう言いながら配送システムを操作し、荷物の行き先を洗浄室・資源サンプルエリアの順に設定した。洗浄エリアでは水の代わりに高圧で液化した二酸化炭素を使って土埃と有害な金属類を洗い流す。きれいになった石は資源サンプルエリアで受け取れる。

「いったい何に使うんだ?」

「あれで風呂沸かすの。今夜は待ちに待った風呂だぜ!」

 機嫌よく鼻歌を歌いながら、意味が分からないままのジャックを残して管理室から出て行った。


「ドクター、ティラピアの様子ですけど……」

 その日の夕方。作物栽培と魚類養殖を行う生産ユニットに入ったアントニオは、そこまで言って動きを止めた。

 魚を養殖するための密閉水槽がいくつか立ち並ぶ場所の真ん中に、セメントなどを入れる大きなトレーが置かれ、中に黒いドラム缶が突っ立っていた。隣には台車に乗せられた水用タンクとポンプ、そして野外で機材を覆うのに遮蔽シートが置かれている。

 この部屋を仕事場にしている秋子はというと、脚立に乗って水槽に水を供給するための配管にロープを結ぼうとしている最中だった。

「お、トニオさん。いいところに来た。ちょっと手伝って」

 秋子はアントニオを呼んでロープの端を手渡した。

「ちょっとこれを、配管の補強リブのところに結び付けて。ちょっと高くて届きにくくてさ。反対側も同じようにして欲しいの」

「はあ……」

 言われるままにアントニオがロープを渡すと、秋子は遮蔽シートを広げた。シートの端には、地面に打ち込んだペグに引っ掛けて固定するためのフックがいくつもつけられている。それをカーテンフックのように使ってロープに引っ掛け、ドラム缶の前に垂らした。

「……これは、一昨日おっしゃっていたお風呂ですか?」

「そう。火星初の風呂。で、何の用だっけ?」

「ああ、そうでした。明日のお昼にティラピアでペスカトーレを作ってみようと思っているんですが、使えそうな個体はは育ってますか?」

「ペスカトーレ。良いわね。4番水槽の大きい子が3匹使えるわ。じゃあ、これからお湯沸かしてくるから、それまでに取っといてね」

「お湯ですか……」

 意気揚々と出ていく秋子に何をどう言っていいのかわからず、残されたアントニオはティラピアを取る網を手にした。

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