第4話 風呂は2億3000万km彼方に④

「まずは水ね」

 風呂に入る宣言をした翌日。誠が仕事場の一つにしている無人機オペレーションルームに現れた秋子は、開口一番にそう言った。

 誠の仕事は採掘用機械の管理だ。オペレーションルームで機械の働きぶりを管理し、必要なら遠隔操作を行う。定期的に機械の整備や部品交換をしてやるのも彼の役目だった。

 誠が座っているコンソールの画面には、部品を修理して試験運転をさせている採掘ドローンのカメラ映像が映っている。ドローンが送られているのは、氷を採掘するのに使っている坑道の側坑にあたる部分だった。氷を採る範囲を拡大しようとの案が出ており、このドローンはその調査もかねてここに送られている。


「秋さん、仕事は?」

「そんなもん終ってるに決まってるでしょ。私のティラピアとナマズとトマトとナスが病気したことあった?」

「まあ、そうですけど。で、何をしろと?」

「氷採ってほしいの。側抗の試験採掘なら多めにとっても平気でしょ」

「早速風呂の準備ですか」

 それにしても、今がちょうど氷を勝手に取っても問題がないタイミングであることを、いつどうやって知ったのか。自分の仕事とは関係がない分野の計画が完全に頭の中に入っているらしい。

「その通り。普通のバスタブに並々と一杯って感じで100㎏――地球での重量でね。魚とか野菜に使うのと同じタンク、6番に入れといて。私がろ過処理するから」

「まあ、いいですけど」

 誠はコンソールから採掘の指令をドローンに送った。対象鉱物の種類と大まかな手順を指定してやれば、あとは機械が判断して採掘を行ってくれる。誠の仕事は、それがちゃんとうまくいっているかどうかを見守り、異常が生じた場合は対処することだ。機械がやり始めればあとは見ておくだけでよくなる。

「じゃあ、お願いね」

 言い残して、秋子は姿をくらました。


 その日の午後。機械作業室でロボットの部品を交換していた誠とアレックスのところに、大きな黒いものを持った秋子が現れた。

「どっこいしょっと」

 そう言って秋子は担いできたものを床に下した。直径1m程度、高さが20cmほどの、つぶれたドラム缶とでもいうべき物だった。

 実際にこれはドラム缶と同じ使われ方をする道具で、炭素繊維を主にした素材でできている。大きさの割にはかなり軽量で、火星では女性でも楽に運べる重さだ。

「秋さん。オチが見えてきましたよ」

「何やってんだ?」

 誠は秋子の意図を理解したが、アレックスには分からない。日本人でも分かる人間の方が少なくなっている。

「分かってんなら話が早いわ。通電して」

「はいはい」

 誠は棚の一つから通電器を取り出した。電源をバッテリーにつないで、通電器から伸びるコードを「つぶれたドラム缶」の縁にある端子に接続する。

 電源を入れると、風船に空気を送り込んだ時のようにつぶれたドラム缶が元の形へと復元された。炭素繊維と形状記憶合金を組み合わせた素材で作られたこの容器は、一定の電圧で電流を通すことで元の形にしたりつぶしたりできる。劣化に強い上に、軽くて省スペースなので、宇宙開発の現場では鋼鉄製のドラム缶よりも広く使われている。


「秋さん。分かってると思うけど、それを直火にかけるのは無理ですよ」

 立ち上がったドラム缶を見て満足そうにする秋子に、誠は釘を刺した。

「おいおい、マジか。それがバスタブかよ」

 使い道に気付いたアレックスが呆れて見せる。

 ドラム缶風呂では水を入れた缶を直接火にかけて湯を沸かすが、炭素繊維ドラムは直接火にかける使い方を想定した造りになっていない。熱の伝導が悪いのだ。

 その上、火星基地での火の取り扱いは厳しく管理される。

 万が一火事で焼け出されれば、空気もない極寒の世界に放り出されることになる。酸素がなければいずれ鎮火するが、その時には人間が呼吸する酸素もなくなってしまう。ひとたび火事が起きれば、そのまま酸素不足で全滅という事態さえ起りえるのだ。

 火星では一切の喫煙はできないし、電子タバコでさえ良い顔はされない。溶接などの高熱を扱う作業は、完全密閉が可能な耐熱エリアでのみ許可されている。誠たちがいる機械工作室がまさにそうだった。

「そりゃ百も承知よ。とりあえず、これはここに置かしてもらうけど、いいでしょ?」

「まあ、それぐらいいいですけど」

 やったね。そう言いながら秋子は嬉しそうに出て行った。

「水は用意して、バスタブはこれ。で、どうやって湯を沸かすんだ? IHヒーターと鍋ってわけじゃないよな」

 アレックスが誠に聞くが、誠もまだ見当がつかなかった。

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