アイロン掛けは2万7000m上で
第7話 アイロン掛けは2万7000m上で①
1日の仕事が終わった夕方。長池誠はジム代わりに使われている倉庫でトレッドミルを動かしていた。腕立て伏せやスクワット、レンジなどの各種運動を行った後、ベルトコンベアの上で毎日5km走ることにしている。
運動をしている間は、手足に砂鉄入りのバンドを取り付け、背中には石を詰め込んだリュックサックを背負っている。総重量は体重の約1.5倍にもなるが、誠にとってはこれが普通のことだった。
隣では同僚のアレックス・ボーンがサンドバッグを殴りまくっている。標準的なインファイトボクシングのスタイルで、ジャブやストレート、フックを織り交ぜ、フットワークで左右に動き回りながら打撃を続けている。彼の手足にも重りが付けられ、体の前と後ろに鉄入りのバッグを括り付けているが、動きは普通のボクサーのそれと変わらない。
10分ほど前にウェイトリフティングに使っていたバーベルの両端には、Lサイズピザほどもある厚さ3cmの重りが2つずつ付いているが、誠を含めて誰もが持ちあげることが出来た。
何しろ、ここは火星。重力は地球の4割しかないのだから。
2035年に人類が初めて火星の土を踏んでから、世界各国の企業は勢い込んで資源を求め、一躍火星を目指した。月でヘリウム3と氷を採掘したノウハウを、今度は火星で応用したのだ。ここで足場を固めれば、小惑星帯で氷、各種金属、希少土類を採掘するための拠点を作ることもできる。
誠が就職したNUT社もそうした企業の一つだ。エネルギー事業が中心で、土に含まれる過塩素酸塩や地中からのメタンを利用して、ロケットのプラズマ推進エンジンや燃料電池など、いろいろな機械の燃料を製造している。企業規模が大きいので、それ以外の開発業務も積極的に行っている。
誠らの仕事はメタン採掘源になるポイントでの採掘場建設。建設そのものは運ばれてきたモジュールをロボットが接合するだけなので、誠たちはそれを監督しつつ、ロボットが送ってきたデータを基に計画や設定を調節するのが仕事だ。
土木現場ではないので肉体労働はないが、それでも運動は義務付けられている。
地球外で働く者には体力が重要だ。初期の宇宙飛行士たちは、全員が軍人か元軍人ばかりだった。過酷な打ち上げに耐えて、緊急時にも冷静に対応できる判断力が最重要視されていた。
技術が進歩するにつれて、科学者・技術者としてのスキルの重要度が増したが、やはり一定以上の体力は必要になる。
狭苦しい宇宙ステーションや基地の内部の中で何か月もすごし、緊急時には即座に適切に対処できるようにしておかなくてはいけない。外は水どころか空気すらなく、有害な宇宙放射線が地球の何倍もの強さで飛びまくっている。
病弱な身ではやっていられるわけがない。
ただ、体力が必要な理由はそれだけではない。宇宙ではものすごい勢いで、体が”鈍る”。猛スピードで劣化していくのだ。
体を支える必要がなくなった骨からは急激にカルシウムが溶けだしてやせ細る。宇宙に10か月もいれば、骨の状態は45年分ほど老化したのと同じ状態になる。
体を動かす負担も減るために筋肉も委縮し、結合組織が減って衰える。血を体の上に押し上げる力も必要ないので心臓も力を弱め、おまけになぜか赤血球の数まで減っていく。
血や体液が体の上の方まで上がってくるせいで、顔がむくんで鼻が詰まり、しょっちゅうトイレにもいきたくなって、免疫力が落ちて風邪にもかかりやすくなる。
無重力状態は体の負担を減らすどころか、とんでもない悪影響ばかりもたらす。宇宙はどこまでも人間にやさしくない。
体の劣化を少しでも遅らせるため、宇宙飛行士は毎日3~4時間を運動に費やす。ナノマシンや各種のスマート薬剤で昔よりも体の劣化を押しとどめやすくなったとはいえ、宇宙飛行士の運動時間は変化していない。
何かあればあっという間に死にかねない狭苦しい環境下で、鼻づまりや顔のむくみ、無重力による宇宙酔いに悩まされながら仕事をこなしつつ、起きている時間の4分の1を運動に費やすのだ。体力がなければやっていけるわけがない。
誠たちは宇宙“飛行士”ではないが、やはり仕事は地球でのそれ以上に体力が基本になる。
宇宙空間と違って少しは重力があるが、それも地球の4割だ。体の重さの1.5倍の重りをつけなければ、地球にいる時と同じ効果が得られない。
火星で仕事をしている人間が腕立て伏せをしたりダンベルを上げたりする姿は、アレックス曰く「少年誌のバトル漫画の修行シーン」のような有様を呈することになる。
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