side:澪 その3
「すみません。何度も呼び鈴を押したんですが」
「噂をすれば何とやら、か。悪かったね、いらっしゃい!」
「お邪魔します。おじさん、何か手伝えることは?」
背中まで伸びたサラサラの黒髪に、切れ長の黒い目。幼なじみのひいき目で見ても、高嶺の花って表現が最適解の美少女。親は二人とも逢桜総合病院のお医者さんで、学校の成績は中学三年間ずっと学年トップ。天は
逢桜高校でも特待生こと「模範生」になったのに、将来の夢はマッドサイエンティストだと公言する人生n周目の変人、
「助かった……ありがとう、ほぼ終わったから気にしないで」
「そうですか。分かりました」
そんな天才は玄関で黒のローファーを脱ぎ、スリッパに履き替えると、廊下で大の字になっているあたしを見下ろしてこう言い放った。
「澪。パンツ見えてる」
「ぎゃあああああ――!」
あたしの悲鳴をBGMに、お母さんは「バーカ!」と捨てゼリフを吐いて家を出ていった。鈴歌さえいなければこっちも中指を立てて見送るところだ。
程なくして車のドアを閉める音が聞こえ、家の前の側溝がガタガタ鳴る。学校に向かうワンボックスカーを敷地の外に送り出したんだろう。
「ここは『頭打ってないか?』って
「私は生命医科学に興味があるだけで、医者志望ではない。それにバ……澪は健康体ゆえ、仰向けに転倒した程度では問題ないと確信している」
「今、バカって言った? 絶対言いかけましたよねあなた!」
うちはメゾネットタイプのアパートで、水原家とは隣り合わせ。幸いにも、あちらのおじさんとおばさんはまだ夜勤から戻ってきていないみたい。
鈴歌の家は昔からこうで、夜に子供が独りになることを心配したうちの親(正確にはお母さん)が「良かったら、お留守のときはうちでお嬢さんを預かりましょうか?」と申し出たのが事の始まり。
このクソ迷惑なババアのお節介を、鈴歌の親御さんはあっさり快諾。以来、隣のクールビューティーは保護者が留守だと決まって必ず川岸家にやってきて、一緒に食卓を囲む仲になったのだ。
「気のせいだ。ベルナルド、おはよう」
「ワフン【おはよ~】」
「話まだ終わってないんだけどなあ!」
ゆっくり身体を起こすと、弟がリビングのラグに転がったカバンの取っ手をくわえて持ってきてくれた。よっ、やればできる子! 忠犬ベルナルド!
「ありがと、ルナール。離して」
「ウ~……【やなこった!】」
ところが、ちゃんと褒めてから「離して」と言ったのに、相手はうなりながら目をキラキラさせている。あれ? ちょっと待て。何だかイヤな予感がするぞ。
「離しなさい。はーなーしーて。これはおもちゃじゃないの」
【イヤだ! ミオ、どっか行っちゃうじゃん!】
「こやつ、姉のものを人質に取りおったな。鈴歌、アレ出して」
「了解した」
鈴歌はダイニングの椅子にカバンを置くと、そばにある飾り棚の下段を探った。取り出したるは秘密兵器、押し潰すと鳴く黄色いニワトリのフィギュア。通称コッコちゃんだ。
対面キッチンのカウンターにおかずの載った皿を並べていたお父さんが、この後の展開を悟って吹き出した。
「ちょっ……澪、朝からそれはダメだって!」
「おろしたてのカバンで綱引きさせられる危機に瀕しているんですよ
「お父さんは次長です!」
どうでもいい反論には耳を貸さず、あたしは鈴歌に目で合図を送った。視線を合わせた相手が小さくうなずく。本当はあたしだって避けたかったけど、ヤツを傷つけずに人質を無事取り返すにはこれしかない。
天才の手に握られたニワトリはウォーミングアップがてら数回息切れを漏らし、間抜けな声で鳴き始めた。
『ホッ、ホッ、ホォ~……ワァァァァァァ~……』
「くくっ、あはははははは!」
【あっ、それボクの! ちょうだいちょうだい!】
「単純なヤツめ。隙あり、奪取! ミッションコンプリート!」
大型犬が口を開けた瞬間に、がっちりつかんだ本体を引き寄せる。宙を舞った持ち手がやけに輝いて見えるのは、キラキラの新生活を夢見るあまり〈
フッ、ついに至ってしまったか……ウェアラブルデバイスに命じるまでもなく、あたし好みに脚色された世界が見える妄想力の極致。すなわち、自給自足のイマジナリーワールドに。
こうなると、もはやあたしは全知全能の神も同然。妄想バトルが必修科目だったら通知表で五を取る自信しかない。
と、時間にしてコンマ数秒のフラッシュ自画自賛でテンションMAX。上機嫌で天井を仰いだ瞬間に、悲劇は突然降りかかった。
――べちゃっ。
「くさっ! くっさぁ! あんた、ちゃんと歯磨いてんの!?」
「ワン!【やってまーす!】」
「小さい頃から慣らしたせいか、むしろ嬉々として磨かせてくれるよ」
「犬も人間も
「顔面よだれダイレクトアタック食らってから同じこと言ってみろや!」
ああ、これは現実だ。イマジナリーワールドなんてなかった。ちょっと生臭くネバネバする透明な液体にコーティングされたカバンの取っ手が、さっき整えたばかりの
自分のものとはいえ、汚いぞうきんでもつまむような手つきでカバンを遠ざけ顔をしかめるあたしに、鈴歌がウェットティッシュの入った箱を投げ渡してきた。その間にお父さんが洗い物を終え、頭上の食器棚からキャニスターに入ったドッグフードを取り出す。
「覚えてろ、このヤンチャ坊主! 次やったら動物病院でいい子になる注射な!」
「キャイン、キャイン!【やだー! 病院キラーイ!】」
「獣医学界にはそんな画期的な注射が?」
「あったらうちの壁と柱に立派な歯形つかないよ鈴歌ちゃん」
ルナールのごはんを
「みんな揃ったね。それでは、いただきます」
「いただきます」
「ルナール、よし!」
「ワン!【いただきま~す!】」
こうして、あたしたちは今日も穏やかな朝を迎えた。いつもと変わらず、ニュースを流す仮想ディスプレイを横目に、食卓を囲んで話をする。
家族と、愛犬と、幼なじみに囲まれた幸せな日常。物語全体としてみれば蛇足かもしれないけど、この平凡な日々を映す一幕があってこそ、薄皮一枚隔てた非日常が存在感を増すのだ。
――そう、あたしだけが知っている。
今日が「普通の高校生」でいられる、最初で最後の日だってことを。
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