side:澪 その2

 部屋の戸を閉め、荷物を手に階段を下りると、一番下の段で一頭の大型犬が「お座り」の姿勢でニコニコしながら尻尾を振っていた。

 あたしが中学生になった年に我が家へやってきた、バーニーズ・マウンテン・ドッグのベルナルド。通称ルナール、男の子だ。


「おはよう、ルナール」

「ワンッ!」


 元気よく吠える声に反応して、自動的に〈Psychicサイキック〉の犬語・猫語翻訳アプリが立ち上がる。ルナールの頭上に表示された吹き出しによれば、今のは【おはよう、ミオ!】という挨拶あいさつだったみたい。

 わんぱくな弟はいつも、朝の散歩を終えるとすぐにリビングで二度寝する。そして、あたしが遅刻寸前になってドタバタとあわてる足音を聞きつけ、いそいそと起きてきてここで待つのが日課だ。なぜなら――


【ねえねえ、ごはん? それとも遊ぶ?】

「ごはんにしよっか」

「ワン!【待ってました!】」


 動物病院に連行される場合を除き、姉に会って損をすることはないのだから。


「あら。澪が時間どおりに起きてくるなんて、今日は雪が降りそうね」

「うっさいクソババア。もう出るの?」

「うちのクラスに転校生の子が来るから、朝イチで準備しなきゃなんなくてね。アンタの入学式に出たかったのは山々だけど」

「結構ですよーだ。鈴歌すずかも一緒だし」


 入れ違いに家を出ようとしているお母さんは、逢川を挟んで東側の川東かわひがし地区と呼ばれるエリアにある逢桜南小学校の先生。やや赤みのかった黒髪をポニーテールにまとめ、ベージュのパンツスーツにパンプスを履いて、出勤準備万端だ。


「鈴歌ちゃんねー。本当は町を出るはずだったんでしょ? 日本中からありとあらゆる分野の天才児を集めた国の英才教育機関、俗に言うギフテッド学園とやらに呼ばれてさ」

「それが、逢桜町民だからって理由で入学取り消しだもんなあ。町外の学校に進む予定の子が全員同じ目に遭ったかと思うと、やりきれないよ」


 そして、キッチンから小さなバッグを持って顔を出したのが、白シャツに黄色いエプロンが似合う兼業主夫系逢桜町職員、川岸一徹いってつ。お父さんだ。


「それはそうと、流華るかさん。お弁当」

「ん。ありがと、一徹」

「あと……その胸飾り? すごく似合ってるよ」

「胸飾りって何だよおまえ、朝からいやらしいな!」

「ええ!?」


 この二人、たまにこうしてヤンキーと因縁をつけられるいじめられっ子の構図になるけど、決して仲は悪くない。相手の許容範囲を超える言動は厳禁、もしも超えたらはっきり抗議。そんな川岸家のルールにのっとった、愛あるイジりこそが家庭円満の秘訣だ。

 もちろんそれは、一人娘のあたしにも適用される。親を口汚くけなしても無事でいられるのは、十人十色な反抗期の子どもと色眼鏡で見てくる町民相手に経験を積んだこの二人が相手だからに他ならない。


「誤解だよ誤解、女の人のアクセサリーなんて名前分かんないって!」

「だったら覚えときな。コサージュっていうんだよ」

「はい。すいません……」

「ま、妻のささいな変化に気づくだけでも及第点さね。お役人なんて堅物揃いで融通が利かない連中ばっかだと思ってたけど、アンタはまあまあ見る目が――」


 お父さんの胸元を歩くヒヨコのイラストを指先で小突き、お母さんが快活に笑う。でも、和やかな空気はそこまでだった。

 女教師は急に顔を曇らせ、玄関の土間からきょとんとする夫を見上げる。少しくたびれた首元のネクタイが、今日も黒無地だったから。


鈴木すずきくん、だっけ。教育委員会の」

「うん。南小にも時々顔出してたあの人。十時に正面玄関前でお見送りするんだ」

「これで何人目? 上司、後輩、共通の知人。アンタの同僚、何人死んだ?」

「ごめん、流華さん。守秘義務があるから家族でも言えない」

「そんなこと分かってる!」


 〝じきたん〟の電子版広報では、毎日〈特定災害〉による町民の死傷者数が公表されている。ただ、年代や職業、被害に遭った場所などの詳細な内訳は、個人の特定を避けるためとしてかたくなに明かされていない。

 そうして不安ばかりが募る中、街では不穏な噂が聞かれるようになった。あの日以来、役場をはじめ警察署、消防署、県の合同庁舎などには常に半旗が掲げられ、毎日のようにそのどこかから霊柩れいきゅう車の警笛が聞こえると。


「本当は、今すぐ辞めちまえって言いたい。というか今言った。きっとみんな思ってるよ、次はアンタの番だって」

「……ごめん」

「総務課の課長補佐、防災担当になって二年。今回の騒ぎを受けて、特定災害対策課へ格上げされたって聞いた。メンバーは〈五葉紋ごようもん〉を持つ人間とも」

「今回は本当に、たまたま、僕に運がなかった。それだけだよ」

「正直に答えて。アンタ、本当に――」


 室内に緊張が走る。お父さんの答えによっては、夫婦ゲンカ開戦間違いなしだ。息を呑むあたしとルナールの前で、お母さんが再び口を開いた。


「その〈特定災害〉対策の最前線から、ロクに理由も聞かされないまま庁舎外に飛ばされて、逢桜駅前でサッカーの観戦チケットと選手グッズ売りさばいてんの?」

「はぇ?」


 えーと……何ですと、母上? 名前どおりマジメ一徹で平々凡々、うだつが上がらないうちの父上が、今どこで何してるって?


「売りさばいてないから。経理と企画・宣伝担当の裏方仕事だから」

「すっかり民間に染まってんじゃねーか!」

「ご安心ください。危険とは程遠い、エキサイティングな町おこし業務に従事しております。疑うなら事務所においでよ、やましいコトなんてないもんね」


 胸を張るお父さんの目はまっすぐで、ウソをついているようには見えなかった。

 本人の主張によればこの春から役場を飛び出し、町内で発足したeスポーツの一種・MRサッカーのプロクラブ〝FC逢桜ポラリス〟の運営事務局へ異動になったという。

 口が裂けても言えないけど、もし本当なら理由はだいたい察しがつく。きっと、みんな不安になったんだ。誰が担当者になってもイヤな空気はぬぐえないけど、妻にすら頭の上がらない優男やさおとこが町の顔では……ね?


「総務課ではほかにも同列の人がいたけど、今度は僕以外の次長がいない。より大きな仕事を任せてもらえてるってことだよ。もっと喜んでよ二人とも」

「あーはいはい、おめでとうございま~す。夕飯はお祝いがてらアンタの好物にしよう」

「雑ゥ! テキトー! そして唐揚げザンギ作るの僕なんですけど!」

「よく分かってんじゃん」

「でも、人のことなまらボロカスに叩いておいて閉店間際の酒屋に駆け込み、シャンパン買ってきてくれるツンデレドS良妻ヒロインが流華さんなんだよなぁ。そういうところ大好き」

「だっ……靴ベラで引っぱたくぞコラァ!」

「いやー! 暴力反対ー!」


 だいぶデジタル化が進んだとはいえ、日本の教育現場はまだまだ過酷で、学校教員は未だ働き過ぎといわれる職業のひとつ。特に新学期はサービス残業で夜の九時十時に帰ってくることなんかザラにある。

 そうなると平日の夜、我が家のキッチンに立つのは必然的にお父さんだ。北海道は帯広の牧場が実家かつ農業高校の出だから、大量の野菜を苦もなく食べさせる調理法を体得しているおかげで、あたしは好き嫌いがほとんどない。

 お母さんも不規則な生活なのに、肌荒れもなく体型を維持できている。これは明らかに総料理長の功績だね。


「ところで、MRサッカーってのは要するにゲームなんだろ? 選手のビジュアルが良くても試合内容がクソ、実況が下手、逆に詳しく解説し過ぎて一見さんお断り……成功する未来が見えない地雷プロジェクト担当とか大草原なんだけど」

「草生やさないでよ、ちゃんとしたプランがあるんだから! その一つが現役Jリーガーの派遣。誰とは言えないけど、ポラリスには親会社を同じくするサッカーJ3の東海ステラから現役選手が二人来ることになっているんだ」

「その道のプロをバーチャルゲームの世界に送り込んでみた、ってか? なんかだね、それ。見世物のていを成した人体実験じゃん」

「まあまあ。うち一人は自分から志願したって話だし、二次元と三次元がつながるって、こう……夢がない?」

「確かに、スポーツとエンタメの融合は鉄板の起爆剤だけど……よし。帰ったらもうちょい詳しく解説頼む」

「承知しました~」


 そう言うと、お母さんは弁当の入ったミニバッグを受け取り、玄関のドアノブへ手をかけた。後ろからベルナルドが【ママ、行ってらっしゃい!】と吠える。

 ところが、取っ手をひねる前に扉が開いて、バランスを崩した拍子に脱げた母の赤い靴が後ろに立つあたしのひたいにクリーンヒット。廊下に転がり悶絶する娘に父は呆然、ビビりな弟は尻尾を巻いてリビングへ飛んでいった。


「あいったぁぁぁぁぁぁ!」

「澪! うるさい!」

「靴脱ぎ散らかしたのはお母さんでしょ!」

「あーあー、二人とも落ち着いて! そもそもなんで玄関が……」

お父さんアンタは黙ってて!」


 女二人に一喝され、お父さんはすっかり縮み上がってしまった。あたしの茶碗に白米をよそいながら「ルナール! 助けて~!」と泣き言をこぼす。

 そんなお騒がせドタバタ劇の渦中に、颯爽さっそうと現れたのが――

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