side C
公開処刑
いつの間にか、あの不快な警報音は鳴り止んでいた。事態はいよいよ最悪の結末に向けて
町外との通信が著しく制限された逢桜町では、情報の伝達スピードに大きな遅延が生じている。だが、先ほどの事故で橋の近くにいた観光客から連鎖的に動揺と混乱が広がり、河川敷でも多くの人が異変に気づいたようだ。
「『わたしは、完全自律型AI――識別用個体名〈エンプレス〉と申します』」
会場アナウンスに使われている河川敷のスピーカーが沈黙を破ったかと思うと、
それは紛れもなく、私の目の前に立つ女性リポーターの声だった。彼女の名乗りを耳にした身体はこわばり、心臓の鼓動が跳ね上がる。
「しっかし、〈
「そんな二つ名にふさわしい女子選手は誰だ、という話題ではないぞ」
「分かってますって! こういう時は
(口とは正反対のことを考えていた顔だな)
それだけに、この青年の反応には正直言って驚かされた。てっきり「なんか面白そうだな。動画撮っとこ」と野次馬ムーブをかますか、真っ先に逃げ出すものとばかり思っていたが――
間違いない。やはり彼には素質がある。
「あら? どうしたの、ディレクターさん」
「あ、ああ……」
我々がそんなやり取りをしている間に、リポーターはかつての仕事仲間に詰め寄っていた。心なしか、言動がやや幼さを帯びたように感じる。
強い心理的ショックで幼児退行を起こしたか? いや、彼女の意識は〈エンプレス〉なるAIの支配下に入ったはず。現実逃避などできるはずがない。
だとすれば、犯人の説得は間違いなく難航を極める。それが何か、押したらどうなるか理解していながら核ミサイルの発射スイッチで遊ぶ子どもを相手にするようなものだ。
「気をつけろ、みんな。こいつはもう
「ハルミ? ああ、この子の個体名。可愛い名前ね、気に入ったわ」
尻餅をついたまま、ひとりの男性が橋の欄干に向けて
その一言を聞いて晴海さんも動く。小さく整った顔の横にほっそりとした右手を掲げ、指を鳴らす構えで待機。もう一方の手は演技が佳境に入った役者のように、桜色のジャケットの上から胸元に添えた。
『――どうして』
「え?」
『どうして、ですか。私、違うって言ってるのに』
理論上、乗っ取った人間の意識は「人質」として、寄生者が任意のタイミングで表に引きずり出せる。多重人格の表出と同じメカニズムだ。
しかし、その声はおかしなことに晴海さん自身の肉体ではなく、河川敷のスピーカーから発せられていた。
『傷つけたくなかった。痛い思いなんてしてほしくなかった! 私は……私はただ、自分の言葉でみんなを笑顔にしたかっただけなのに!』
「ち、違うんだ晴海ちゃん! 言葉の綾だよ、化け物だなんて!」
『どうして私なの? 私が何をしたっていうの? どうして、私が……!』
――ぱちん。
「うぷっ――げ、おぼぇぇぇぇぇ!」
「女の子を泣かせるなんて、いけない人。あなたには
『いやあああああああ!』
乾いた音がした瞬間、ディレクターの男性が手で口を押さえ苦しみ始めた。体内からの圧力で抵抗
逆流する胃酸と未消化の内容物が混ざったすえた臭いに鼻を突かれ、我々は思わず顔をしかめた。
『やめて、返して! 私の身体を返してよ!』
「意味が分からないわ、ハルミ。彼はあなたを化け物と呼んだ。彼はあなたをバカにしたのよ。怒ってしかるべきだわ」
『でも……だからって、ここまでしてほしいなんて望まない!』
続いてパタパタ、次第にぼたぼたと勢いを増して、彼の口から真っ赤な液体が噴き出し始める。懸命に鳴くアマガエルのように
ああ、やはり金髪の彼はうつむいているな。大丈夫、それが正常な反応だ。致し方ないもの、不可抗力、見なかったことにしてあげ――
「俺、意外とグロもイケるんだ……。新たな可能性を
「……」
「あれ? どうしたんです上司さん、俺の顔なんか見つめちゃって」
……ちなみに、人間は視覚情報以外の原因で気分を損ねることもある。〈
一般的に、人は自分の意識と身体感覚に差異が生じると、強い恐怖や嫌悪感を覚える。猛烈な吐き気は「生理的に無理」な状況を表すサインというわけさ。
「ああ、あれ? 気持ち悪くないのか、って
「しかし、目の前で起きているからには現実の出来事と認めざるを得まい」
〈Psychic〉から入ってくる情報を脳が処理しきれないと、一寸先は闇だ。快楽中枢をやられて廃人となるか、人格に異常をきたし廃人となるか。驚異の精神崩壊率百パーセント、当然治癒の見込みもない。
これは〈Psychic〉がもたらす劇症性・急性の重篤な副反応として世界的に問題視されているのだが、恐ろしいことにこの日本では「サイキック酔い」などとあたかも軽い症状であるかのように受け止められている。
「そう、それこそがあいつの狙いです。どんな奇跡も、悪夢でさえも、目撃者がいれば事実になる」
それゆえに、日本政府は〈Psychic〉の開発プロジェクトが始まった段階から研究者たちに中止を求め、国際機関に対しても再三にわたり危険性を訴えてきた。
我々は叫んだ。声を
その結果はご覧のとおり。これは、起こるべくして起こった人災なのだ。
「これは、
「思い込みは強力な洗脳の下地にもなり得る。覚めない夢の先にあるのは……事実誤認による現実の
伝説によれば、災厄を吐き出した箱の底には「希望」が残されていたという。そのわずかな光に値するかもしれない彼は、またしても予想外の輝きを見せてくれた。
刻々と変わる環境を生き抜く力、野生動物の勘にも似た究極の順応性。それこそが、サッカー選手としては小柄な彼を天才たらしめた要因の最たるものだ。
「MRは、因果が逆転した世界です。外から得た情報をもとに脳が錯覚を起こすと、誤った反応が身体に伝わり
「ああ、キミという人間は、本当に――」
「無理に競り合ったから足首を
きっと、科学者たちも早くから目をつけていたに違いない。いち早く〈Psychic〉とMRに慣れ、高い適性を示すであろう彼は、最高の×××になる――と。
「すごいなりょーちん、ナンバーワンだ」
「その掛け声は次の試合でゴール決めた時まで取っといてください。この状況じゃ出られるかだいぶ怪しいですけど」
「キミには驚かされてばかりだよ。どこでその洞察力を身につけた?」
「身体と
「素でそう思っているならとんでもない天才だぞ」
「それはどうも。よく言われます」
そうこうしているうちに、歩道に倒れ込んだ被害者はさらに悲惨なことになっていた。服と路上に漏れ出した体液が染みを広げ、張り詰めたジーパンが音を立てて尻から裂けたかと思うと、強烈な臭気を放つ血と汚物にまみれた
そう、ディレクターの男性が生み出しているのは――彼自身の、
「あの人……まだ、生きているのか」
「ええ。虫の息ですが」
「そこの二人、子ども扱いしないで私も混ぜろ。さっきから、黙っていればいけしゃあしゃあと好き放題言ってくれる」
長い黒髪の少女が立ち上がり、私の部下とともにこちらを見ている。女帝は目を輝かせると、これ見よがしにディレクターをピンヒールで足蹴にした。
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