side:C その1

 いつの間にか、あの不快な警報音は鳴り止んでいた。事態はいよいよ最悪の結末に向けてかじを切ったらしい。

 町外との通信を断たれた現在の逢桜町では、町内においても情報の伝達スピードに大きな遅延が生じている。だが、先ほどの交通事故で尾上橋の付近にいた人々から連鎖的に動揺と混乱が広がり、河川敷の桜まつり会場でも異変に気づき始めた客が出ているようだ。


「『わたしは、完全自律型AI――識別用個体名〈エンプレス〉と申します』」


 会場アナウンスに使われている河川敷のスピーカーが沈黙を破ったかと思うと、耳ざわりなハウリング音を伴って玉音放送を流し始めた。誰もがびくりと体を震わせ、一斉に頭上へ視線を投じる。

 それは紛れもなく花見会場の盛況ぶりを情感たっぷりに伝え、あるいは緊迫したおも持ちながら正確かつ冷静に状況を述べていた女性リポーターの声だった。私もここまで特に違和感を覚えなかったから、報道のプロとしての実力は十分あったといえるだろう。

 だが、まったく同じ声が黒幕を名乗った瞬間、心臓がどきりと跳ね上がった。聴く者の不安をあおり、本能的な恐怖を呼び覚ます声音。

 あまりに落差が大きすぎて、怪談番組のナレーションならスタンディングオベーションものの名演技なのになあ――などと場違いな感想が頭に浮かんでしまう。


「しっかし、〈女帝エンプレス〉とはまた大きく出ましたね。ちなみに……」

「そんな二つ名にふさわしい最強の女子選手は誰だ、という話題ではないぞ」

「分かってますって! こういう時はおふざけ無し、ノーコメントです」

(口とは正反対のことを考えていた顔だな)


 だから、この状況下で彼が見せた行動には正直驚かされた。

 ピッチの外ではただの大学生だから、目の前で事件なぞ起きようものなら「なんか面白そうだな。動画撮っときましょうよ」などと一般人の野次馬も同然の反応を見せるか、戦意喪失するものとばかり思っていたが――まさか真剣な瞳で敵を見据え、平静を保ち、軽口まで叩いてみせる余裕があるとは。

 間違いない。彼にはがある。最前線フォワードの仕事をこなしてきた天才ストライカー、という評判も納得の大した判断力と強心臓ぶりだ。


「どうしたの、総責任者ディレクターさん? 仕事をないがしろにされては困るのだけど」

「あ、ああ……」


 一方、リポーターはかつての同僚に詰め寄っていた。心なしか、言動がやや幼さを帯びたように感じる。

 通常なら強い心理的ショックで幼児退行を起こした可能性を疑うが、彼女の意識は大部分が〈エンプレス〉なるAIの支配下に入ったはず。現実逃避などできるはずがない。

 だとすれば、ここで一つの可能性が浮上する。彼女の口を介してコンタクトを取っている敵の実年齢(もしくは年齢設定)が我々よりも年下だという線だ。

 そうなると、犯人との交渉は間違いなく難航を極める。私にも娘がいるから分かるが、子どもは得てして大人の言うとおりにならないし、突発的に理解も予測も不可能な行動を取ることがある。それが可愛いところでもあるのだがね。


 ただ――子どもの純真無垢なあどけなさは、時として純度の高い狂気の母となる。


「大事な犯行声明、宣戦布告のスピーチよ。しっかり映してくださいな」

「気をつけろ、みんな。こいつはもう晴海はるみちゃんじゃない」

「ハルミ? ああ、この子の個体名。可愛い名前ね、気に入ったわ」


 ゆっくりと歩み寄る〈女帝〉、尻餅をついたまま橋の欄干に背を向けて後ずさりする男性。【青葉放送】と書かれた緑色の腕章をつけた彼は顔を引きつらせ「来るな……来るな、化け物っ!」と声を張り上げる。

 たった一言。恐怖のあまり口を突いた一言で、ディレクターは侵略者の逆鱗に触れてしまった。

 晴海さん、と呼ばれた女性の姿をしたモノがゆっくりと手を挙げる。小さく整った顔の横にほっそりとした右手を掲げ、指を鳴らす構えで待機。もう一方の手は演技が佳境に入った役者のように、桜色のジャケットの上から胸元に添えた。

 その行動が何を意味するのか。間髪入れずに答え合わせが行われた。


『――どうして』

「え?」

『どうして、ですか。私、違うって言ってるのに』


 乗っ取った人間の意識を「人質」として保存しておき、ここぞというタイミングで表に引きずり出す。晴海さんは解放された、と誰もが思ったに違いない。

 しかし、その声は彼女の身体ではなく、河川敷のスピーカーから発せられている。自分が一時いっときでも仲間に見捨てられたと知った彼女は、発言権だけ返されたところで素直に解放された喜びを語るだろうか。


『傷つけたくなかった。痛い思いなんてしてほしくなかった! 私は……私はただ、みんなを笑顔にしたかっただけなのに!』

「晴海ちゃん……違う、違うんだ。言葉の綾だよ、化け物だなんて!」


 怒り、やるせなさ、そして絶望。ドス黒い感情は濃縮還元され、かつての同胞に矛先を向ける。

 上げて堕とす、それこそが敵の狙いだ。一筋の希望にすがりついた人間が、這い上がろうとした瞬間に奈落の底へ突き落とされる。その瞬間を最低最悪の悲劇として演出するために、〈エンプレス〉は気まぐれの慈悲を与えたのだ。


『どうして私なの? 私が何をしたの? 信じてほしかったのに、どうして!』


 ――ぱちん。


「うぷっ――げ、おぼぇぇぇぇぇ!」

「女の子を泣かせるなんて、いけない人。あなたには公開処刑おしおきが必要ね」

『いやあああああああ!』


 乾いた音がした瞬間、ディレクターが手で口を押さえ苦しみ始めた。内からの圧力で抵抗虚しく手が弾かれ、キラキラ加工必至のシーンが幕を開ける。

 逆流する胃酸と未消化の内容物が混ざったすえた臭いに鼻を突かれ、我々は思わず顔をしかめた。


『やめて、返して! 私の身体を返してよ!』

「何を言っているの? 彼はあなたを化け物と呼んだ。これは、侮辱の意が込められた許しがたい呼び名よ。ハルミには抗議する権利があるわ」

『信じてほしかった。私の味方でいてほしかった。それでも……私は憎まない。もしも立場が逆だったら、きっと同じことを言ったから』

「意味が分からないわ、ハルミ。あなたはわたしへ何を望むの?」

『少なくとも、あなたの聞きたい答えじゃない。私の望みはただ一つ――他人ひとの身体で好き放題するなって言ってるでしょ、この……人殺し!』


 続いてパタパタ、次第にぼたぼたと勢いを増して、彼の口から真っ赤な液体が噴き出し始める。懸命に鳴くアマガエルのように喉を膨らませ、鉄の臭いを伴って、重ねた両手をじわじわ押し返しながらピンク色の物体が姿を見せた。

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