第44話 私たちのヒーロー
リリアーナはビクトールの中にすっぽり包まれたまま、心臓が早鐘のように打つ音を聞いていた。何から何まで許容できるものではない。なぜ一片の恩義もないルークのために無関係で誰よりも大事なビクトールを危険に晒さなくてはならないのか。
「そんなの嫌。余りに理不尽だわ」
リリアーナは虚ろな声でそれだけ答えるのがやっとだった。情報量が多くてとても受け止め切れない。
「理不尽でもこれしかないんだ。俺だって王太子の命なんかどうでもいい。でも彼を救えるのはリリアーナしかいない。それは国王たちも把握済みだ。アレクサンドラの呪いを解かなければ、向こうもリリアーナを本当の意味で解放しないだろう」
「どうしてお母様はそんなことをしたの? 私を窮地に追い込むようなことをなぜしたの?」
リリアーナの声は震え出した。母親には愛されていると思っていたのに。なぜこんなことになったのだろう。やはり自分が無能のせいだからだろうか。優秀な母親は不出来な娘を陰では疎んじていたのだろうか。
「……俺は親の愛を知らないけど、娘を心配していたからだと思うよ。元々王太子が裏切らなければ何も変わらないはずだった。呪いが発動したのは王太子の責任だ。リリアーナに悲しい思いをさせたら王太子に報いが下るように画策していたのだと思う」
今のビクトールではそこまでしか言えなかった。そしてトトやジュジュにするように、震えるリリアーナの頭を優しく慈しむように撫でてやった。
「俺なら心配しなくていい。元々すれ違いすら起こらない運命だったんだ。リリアーナと出会ってから毎日新しい発見の連続だった。おまけに万が一のことがあっても最期まで一緒なら退屈しないで済む。ゴミみたいな俺の人生にしちゃ上出来だ」
「ゴミなんかじゃない!」
突然リリアーナが顔を上げて叫んだ。
「誰がそんなこと言ったの? あなたみたいな素敵な人他にいないじゃないの。これからも人生をかけて魔法薬を究めて行くんでしょ!」
泣きながら叫ぶリリアーナの真剣な表情を見て、ビクトールはふっと微笑んだ。
「ありがとう、やっぱり会えてよかったよ。リリアーナのことは絶対に守るから大丈夫。心配しないで欲しい」
「私が心配してるのはあなたのことよ! さっきから最後の別れみたいでなんだか怖い。私のせいであなたが犠牲になったりしないわよね? 約束して」
「大丈夫。約束するよ」
しかし、その口調には、まるで無茶を言う幼子をあやすような響きがあるような気がしてリリアーナは全く信用できなかった。なおも、言い返そうとするとそこへカイルがやって来た。
「言いたいことは言ったか、ビクトール」
「ああ、大体終わった。もういいよ」
リリアーナの方はまだ言い足りないと返答しようとしたが、すかさずカイルが言葉を被せて来た。
「リリアーナ、一つ言っておかなくてはいけないことがある。明日、上のお兄さんがここに来る。そこで君を引き渡すことになった」
何ですって。リリアーナは頭が真っ白になった。最早実家は敵と言っても差し支えないのに。
「すまない。でも孤児院の一件があってから俺たちは信用を失ってしまった。リリアーナを守り切ることができなかった以上、こちらで身柄を預かることはできない」
「ジョシュは嫌……あの人たちは信用できない」
「でも君の母親の呪いを解くには彼らにも協力してもらわないとならない。オズワルド公爵もさっきビクトールが話していたことは知っていたはずだ」
リリアーナは、地面の一点を凝視したまま動かなかった。確かに父は母のやったことを知らないはずがない。母の行動を黙認したという意味では父も共犯なのだ。
「アレクサンドラのやったことの落とし前はオズワルド公爵にも付けてもらう。そのためにも一旦実家に帰らなくてはいけない。長いこと閉じ込められてもう顔も見たくはないだろうが必要なことなんだ」
「……分かったわ」
仕方なくリリアーナが了承するのを見てカイルとビクトールはほっとしたようなため息を漏らした。
「じゃあ俺たちは一旦退かせてもらう。でもオズワルド邸にすぐ行くから。それまで待っててほしい」
何を言われてもリリアーナは頷くしかなかった。自分の知らないところで既にレールは引かれているのだ。そこから抗おうとしても彼女の力ではどうしようもない。結局力がない者は、何一つ自分で決められない。リリアーナは、この時ほど無力感を感じたことはなかった。
二人に別れを告げ、とぼとぼと建物に戻るリリアーナの後ろを見送りながらビクトールがぼそっと呟くように言った。
「ここまで付き合ってくれてありがとな、カイル。本当に世話になった」
「珍しいな。お前が礼を言うなんて」
こんな時でも軽口を叩くカイルをビクトールは一瞬睨んだが、すぐに元の表情に戻った。
「将来どんなに恩返ししても返しきれないほどの借りを作ってしまった。それに恩返しできるかどうかも分からないのに」
「やはり、リリアーナには全てを話さなかったのか?」
「ああ。言ったら絶対首を縦に振ってくれないだろう。今だって納得はしてないだろうが」
「彼女の母親が生きてることも?」
ビクトールは無言のまま静かに頷いた。既に見えなくなったリリアーナの幻影を追うように、先ほどまで彼女がいた場所をいつまでもじっと見つめていた。
**********
リリアーナはまんじりともできず朝を迎えた。ディーンは既に事情を知っている。ビックが急にここを出て行くという話に踊り子やスタッフたちは一様に驚いたが、彼らにはどうしようもできなかった。
「ビック、ちょっといいかい」
まとめるほどの荷物もないリリアーナが部屋でぼーっとしていたところに、ディーンが顔を出した。
「ごめん、リリアーナ公爵令嬢と呼べばよかった……かな」
遠慮がちに言うディーンに、リリアーナは微かに微笑みながら答えた。
「いいえ、ここを出て行くまではビックでお願いします。1秒でも長くビックでいたいんです」
「そう、じゃあ……ビック。昨日はバタバタして何も言えなかったけど、今まで使用人みたいなことをさせてしまってすまなかった。実は訳ありの貴族令嬢ということは知っていたんだ。言い訳めいてしまうが、君が楽しそうに働くものだからつい——」
「いいえ、それでよかったんです。わ……僕も初めての経験ですごく楽しかった。裏方の仕事をしたことも、舞台に立ったことも普通の生き方では経験できなかった。みんな貴重な思い出です」
晴れやかに答えるリリアーナを見て、ディーンはますます恐縮した。
「ねえ、ディーンさん……僕はこの先自分の未来がどうなるかも分からない。でもお世話になった人には幸せになって欲しいんです。その、余計なことかもしれないけど、ディーンさんとライラさんにも……」
リリアーナはそう言うと自信がなさそうにうつむいた。
「余計なお世話なのは承知してます。ライラさんに聞いたらそんな関係じゃないからとさらっと言われました。でも、人生っていつ何が起こるか分からないから、チャレンジできるうちにしといた方がいいと思って……例えその結果がどうなっても」
かあーっと顔が熱くなるのが分かる。差し出がましいことをしている自覚があるので、目を合わせることもできない。でも、二度と会えないかもしれない相手にこれだけは言っておきたかった。
「僕ができるお礼と言えばこれくらいしかなくて……匿ってくれたこと以外にも、ジュディスが客に殴られた時に口論したでしょう。あの時あなたのことを冷たい人だと思ったことを謝らせてください。あなたができる範囲でジュディスを守ろうとしていたのが今なら分かる。僕だって一人では何もできないのに、他人には完全を求めていたんです。随分思い上がってました」
ここまで言ってから、リリアーナは深くお辞儀をした。ディーンはそれまでずっと黙って聞いていたが、ただ一言「ありがとう」と言って、いつもの柔和な笑顔で握手を求めて来た。これで十分だった。
程なくして、オズワルド公爵の長男、ジョシュが着いたとの報告があった。それを聞いたリリアーナは、すくっと立ち上がり、ディーンにもう一度礼を言って部屋を出た。
「ビック、あなた本当に行っちゃうの?」
そう呼び止めたのはライラだった。他の踊り子たちもずらっと取り囲んでいる。
「短い間だったけど今までありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
笑って別れようとしたが、涙が込み上げてうまく喋れなかった。どうも最近涙もろくなって仕方ない。
「いつでも遊びに来てね。貴族のお嬢様だと難しいかもしれないけど……」
「いえ、またいつか来ます。それまで皆さんもお元気で」
次があるかどうかも分からないが、少しでも希望のあることを言っておきたかった。なるべくいいイメージだけを持ち続けていたい。
「リリアーナ、いつまで待たせる気だ。早くこっちに来なさい」
その時、しかめ面のジョシュが現れ、抑揚のない口調でリリアーナを呼び止めた。
「ごめんなさい、もう少しだけ時間をちょうだい」
リリアーナは懇願するようにジョシュに頼んだが、兄は冷たい視線を向けた。
「まだ男の身なりをしていたのか。そんな頭になっても女なんだからとっとと着替えろ。こんな田舎町のキャバレーなんかとっとと出るぞ」
ジョシュの性格なら全然おかしくない言葉だったが、何も彼らの前で言わなくてもと、リリアーナはかっと頭に血が上った。何か言い返そうとした時、踊り子たちの中から声が上がった。
「貴族様だか何だか知らないけど、ここではビックよ。私たちの大事な仲間なの! いつでも遊びに来てね、ビック。みんな待ってるわ!」
それを聞いた踊り子たちは一斉にわっと湧いた。声の主はジュディスだった。リリアーナはジュディスににっこりと微笑みかけた。
「ビック、あなたの活躍は忘れないわ! 私たちのヒーローよ!」
ジュディスはもう一回声を上げた、それに呼応するかのように踊り子たちがさよならと手を振った。リリアーナはついに涙をこらえきれなくなり、彼女らに手を振り返したのであった。
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