第40話 平民の論理

「邯鄲の夢」に来てから3週間が経過した。最初のうちは煌びやかなショーにただ目を奪われるだけだったが、この頃になると、仕事にも余裕が出て、だんだん周りのことが見えるようになってきた。


リリアーナは、誰もいない午前中のうちに身体を清めたり、衣類の洗濯をしたりする。平民の場合毎日風呂に入らない者が多いのだが、長年の習慣が身についてそれだけは妥協できなかった。そう言えば、ビクトールも身辺は清潔にしていたのを思い出す。貴族の学校に入るに当たってレディ・ナタリーに指導されたのだろう。


公爵令嬢として皆にかしずかれていた頃は、平民の入浴事情なんて知る由もなかった。なぜもっと身綺麗にしないのだろうと漠然と思っていた。今振り返ると何も知らなかった自分が恥ずかしい。平民にとっては、入浴するのに必要な大量の湯を沸かすだけで一苦労なのだ。こんなことすら、同じ立場にならないと分からなかった。


それから簡単な食事を済ませ、誰も来ないうちからキャバレーの掃除を始める。これは彼女が自ら申し出たことだ。寝る場所と夕食に加え給料まで貰っているのだから、目に見える形で恩返しをしたい。実際のところ、掃除の腕は上手とは言えず、時おりバケツをひっくり返して却って手間が増えることもあったが、少しでも皆の役に立ちたくて働いた。完璧ではなくても何とか助けになりたかったのだ。


「こんにちは、ビック。こないだはありがとう。最近掃除が行き届いていると思ったら、あなたがしてくれていたのね」


リリアーナはモップを動かす手を止め、顔を上げた。この店を紹介してくれたジュディスがこの日はいつもより早い時間にやって来た。リリアーナは、誰もいないと思って二の腕までまくっていた袖を慌てて戻した。女性らしい体の線を見られるのはまずい。


「こちらこそ紹介してくれてありがとう。本当に助かったよ」


「私は何もしてないわよ。ここで一緒に働けて嬉しい」


そう言ったものの、ジュディスの表情は曇ったままだ。リリアーナは何かおかしいと気付いた。


「どうしたの、ジュディス?」


「あのね、これからお客さんとデートなの。この近くで待ち合わせしてるから、その前にここに寄ってみようと思って——」


「邯鄲の夢」はショーの合間に客を接待する仕組みになっている。そこで気に入られた娘は店外で会うこともあるとリリアーナも聞いていた。会って何をするのかと言うと、食事したりデートしたりするらしい。


「そうなんだ……」


リリアーナはそれ以上答えることができなかった。本人が乗り気でないということは、会いたくない相手なのだろう。それでも仕事の一環として断るわけにはいかない。何とかしてやりたかったが、今の彼女にはどうすることもできなかった。


「あの……僕にできることがあれば……」


それでも放っておくことができなくて、余計なこととは思いつつリリアーナは口を開いた。


「いいのよ、心配させてごめんなさいね。本当のところはビックの顔が見たかったの」


「え? どうして?」


「男の人に優しくされるの、実はあの時が初めてで。みんながビックみたいな人ならいいなあって思ったの。あなたは私より年下だけどね」


悪戯っぽく笑いながら言うジュディスをリリアーナは黙って見つめた。めいいっぱいおしゃれしているが、安っぽさが隠せない服を着て、あどけなさが残る顔を隠すように化粧を濃くしているのが分かる。そんなジュディスを見て、リリアーナは胸の奥がキュッと締め付けられる思いがした。


「私ね、田舎からこの町にやって来たの。本当は王都に行きたかったんだけど、交通費が足りなくて。田舎で小さな弟や妹の面倒ばかり見てるのが嫌んなって飛び出しちゃった。結局ここしか雇ってくれなかったけど、幸い運動神経がよかったから、踊りはすぐに覚えられたわ。ショーは好き。きれいな衣装を着られて楽しいし。でも、いいお客さんばかりじゃないの。こないだも見たでしょ。すぐ暴力を振るう人。踊り子だからってなめられてるのよね」


そう言うとジュディスは寂しそうに笑った。そんな彼女にどんな言葉をかけたらよいのか分からず、リリアーナは黙って聞くことしかできなかった。


「さてと、ビックとお喋りできたから気持ちもふっきれたわ。じゃあ、行って来るわね。夕方にまた会いましょう」


気持ちを切り替えたジュディスがにこやかに手を振るのを、リリアーナは何とも言えない気持ちで見送った。そして数時間後、彼女が左頬を腫らして泣きながら店に戻って来たのを見て仰天した。


「ジュディス、どうしたのその顔!? 誰にやられたの?」


「昼に会ったお客様に殴られたの……部屋に連れ込まれそうになって断ったから……」


それを聞いて、リリアーナはさーっと血の気が引いた。自分が殴られたような衝撃だ。いずれにせよ、この顔では舞台に立つことはできない。泣きじゃくるジュディスの代わりに自分がディーンのところへ報告しに行くことにした。


「そのくらいの腫れなら化粧で何とかなるだろう。可哀そうだけど、仕事を休む理由にはならないよ」


しかし、ディーンの答えは非情なものだった。見た目だけでなく、今の精神状態で舞台に立つなんて無理だ。リリアーナは躍起になって反論した。


「ジュディスを殴った男は今後出禁にする。してやれることはこれで精一杯だ。上流階級を相手にする商売で、これがどれだけ大変なことなのか、君も分かって欲しいね」


「どうかお願いします。ジュディスは傷ついているんです。彼女には休息が必要です!」


「これは貴族のお遊びとは違うんだよ、お嬢様」


いつも穏やかな物腰のディーンの冷たい声が響き、リリアーナは全身の血の気が引いた。彼は全てお見通しだ。それを承知の上で今まで泳がされていただけだったのだ。


「は……一体何を……」


「ごまかしても無駄だよ。仕事をしたことがなさそうな白い手、大きい服を着てもごまかせない体型、書類仕事は得意だけど、雑用はぎごちない。ジュディスは騙せたかもしれないけど、僕やライラの目は誤魔化せないよ」


ディーンだけでなくライラも知っていたとは。ジュディスのことを気にかけている場合じゃなかった。リリアーナは急に陥った窮地になす術もなく、ガタガタ震えるのを止めることができなかった。


「……どうするつもりですか? どこかへ突き出すんですか?」


「君も事情があるんだろう? こっちも藪蛇になりたくないし深く介入するつもりはないよ。ただ、貴族のお嬢様の知らない世界では、別の論理が働いてるって言いたかっただけ」


ディーンはそう言うと、元の温和な雰囲気に戻ってウィンクをした。見かけによらず底知れない人物だ。リリアーナは、相手を見くびっていたと認めざるを得なかった。


「分かりました……でも、ジュディスのために何かしてやりたいんです。わ……僕にもできることはないですか?」


自分が世間知らずだということは十分に分かった。それでもこのままでは引き下がれない、自分を頼ってくれたジュディスに恩返しがしたかった。


「何かする……って、君踊れないだろう? 舞踏会で男女が躍るダンスとは違うんだよ?」


「あの……剣術なら少しやったことあるんですけど、それでは駄目ですか?」


魔法が苦手なリリアーナが、少しでも他の部分を伸ばそうと頑張ったことの一つに剣術があった。ルークが危険に晒されたら彼を守って戦おうと思い、研鑽を積んだのだ。実戦でどこまで役立つかは不明だが、舞台で華麗な剣さばきを見せるくらいならできるかもしれない。


ディーンは一瞬目を丸くして驚いたが、意味するところを悟ってにやりとした。


「なるほど、いいかもしれない。ちょっとした芝居仕立てにしてみるか。でも、君舞台に立つのはいいの? 目立ちたくないんだろ?」


「まさか私が舞台に立っているなんて誰も思わないでしょうから。それに言ったでしょう。ジュディスの穴埋めをするためです」


リリアーナは、頭の片隅で自分は何を言ってるんだと思っていたが、その言葉に嘘はなかった。まさかルークのために頑張った剣術がこんな形で役立つとは思わなかったが。ディーンは悪だくみをした時のような笑顔で、リリアーナの申し出を快諾した。

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