第3話オットセイは跳ねて笑った、人間が滑稽に僕らの真似をしている、と
窓から見える地平線まで延びる雪景色と、その景色を飾りつける雪で真っ白くなった木々、それらは、不安感で黒く埋まりそうだった僕の心に、少しの癒しを与えてくれた。5日程鉄道に揺られてモスクワに着くと、とてつもなく広い宮殿のような空間と、今が1900年代だという事を物語る服装をした人々が交差していた。
大きすぎる広さに少し迷いつつも、僕は無事モスクワの街の空気を吸うことが出来た。
僕は彼が手紙と共に書いてくれた彼の孫娘だという、エレーナという女性の家を尋ねた、彼女の家は、周りの家と比べると少し大きかった。
少し重厚感のあるかなりはっきりとした木目の扉を3回ノックすると、少し背の高い
金髪の美しい女性が出てきた、確かに、彼女の顔に少し彼の顔の面影が残っていた。
彼女は少し戸惑っていたが、手紙を渡し彼の名、ヴァジムの名を出すと、少しだけ納得したような表情をした。
手紙に目を通すと、彼女はニコッと笑って
「とりあえず入って。紅茶でも淹れるわ。」
何が書いてあるかは見ていないが、その仕草から彼女が彼にかなりの信頼を置いていることがわかる。
モスクワの住宅街の景色がドアで見えなった後、靴を脱ぎ、リビングに入ると共に僕を包んだ匂いに、一瞬何故かいつも見ていた自分の家の景色が思い浮かんできた。
彼女...エレーナはダージリンとそれに合わせて舐める皮が少し入ったオレンジのジャム、所謂ロシアンティーを出してくれた。エレーナの淹れたダージリンは、日本、ヨーロッパと比べると少し濃く淹れられていたが、甘いジャムと合わせるには僕にとって至高の濃さだった。
僕はここまでの経緯と、計画を伝えた、
既に彼が書いてくれた手紙で大まかな計画は練られていたが、それでも土地勘が無い僕が計画を進めるにはモスクワに住んでいるエレーナの手を借りる他ないだろう。
話を聞きながらエレーナと丁度相談し終える頃、そこで僕の意識は途切れていた。
次に目が覚めたのは翌日の知らないベッドの上だった。
重い上半身をやっとの思いで起こすと、左斜め前方、明るめの色の木目ドアが開き、暖かく、柔らかい笑みを浮かべたエレーナが入ってきた、何故か母さんの姿が一瞬脳裏をよぎったが、そんなことはすぐに記憶から消えた
「おはよう、調子はどう?昨日はだいぶ疲れていたようだけれども。」
僕は鉛の錘が入っているように重い頭を控えめに縦に振りベッドのから降りた、エレーナの後を追い、リビングに入ると、香ばしいバターの香りが僕を包んだ、スィルニキだ。
日本でよくロシア人の母さんが朝食によく作ってくれた僕の好物、それを乗せている皿と同じ皿が食器棚に並んでいる、それらは不思議な事に母さんが使っている皿と酷く酷似していた。
コズミックブルーを基調に、ロシアの国花であるひまわりが3本、それを取り囲むように緑の線が柔らかな曲線を描き等間隔で交差している。
記憶がただしければ母さんはその皿を自分の故郷であるモスクワから持ってきたと言ってた、しかし、ロシア内では中々有名で流通量の多いメーカーだったので、ただの偶然、気のせいという事にしておいた。
エレーナが作ったスィルニキは、母さんが作るスィルニキよりも一回り小さく、上に大きめのレーズンがちょこんと1つ申し訳なさげに乗っていた。
味は母さんのスィルニキによく似ていた、テーブルを挟んで目の前にはエレーナが両手で頬杖をついて万年の笑みでこちらを見ている。
フォークでスィルニキを軽く固定し、ナイフで三分の一程度を切り取り、そのまま口に運ぶ、
ふんわりとした食感とレーズンの風味が口の中に広がった。
テーブルの端に1つ、2つ、水滴が落ちていく、
母さんのスィルニキの味を思い出す度落ちる涙の量が増える、
イロハの声が頭に響く度、僕の心は不安で埋められていく、
そんな僕を見てエレーナは何かを話すわけでもなく、気づくと僕の頭を撫でていた。
唯、静寂な空間で僕の呻くような声と、唯、彼女が僕を撫でている感覚。
やっとの思いで泣き止み、スィルニキを食べ終えた。
今思うと16歳にもなって、小っ恥ずかしいが、エレーナは笑って慰めてくれていた。
朝食を摂り終え、改めて部屋を見回す、モスクワで一人暮らしの彼女の部屋は壁の下部分が見えなくなる程度には本が几帳面に積み上げられていた。
かなり年代物に見える端が捲れ上がった歴史文学、SF、ミステリー等の本から彼女の趣味が伺えた。
「私はね、恋を患っている。赤軍の捕虜として拘束されている人。
彼はロシア語が話せた故に通訳者として肉体労働は免除されている。
もう帰還の目処が建って、無理言って内戦で死した官吏の娘である私の家庭教師をして貰っているの。」
エレーナは席から立ち、かのシャーロックホームズのように少し前屈みになってゆっくり歩き始めた。
「彼の授業を受けているうちに私の胸の中にある小さくて、だけど私を暖かく包み込んでくれるような物に気づいた。そしてそれからの日々の中でその気持ちにが段々と大きくなっていく、私のおじいちゃんも彼との結婚に賛成して、私と一緒に結婚を申し込んでくれた。」
残念...いや、後悔、又はそののどちらもを含んでいそうな悲しい顔をし、少し間を空けエレーナは再び話し始める
「だけど彼には家が、国が、婚約者が在る。彼もそれを捨てるわけにはいかない...勿論私も、その事を忘れていた訳ではない。彼の大切な物を捨てさせる権利は私には無い。」
再び僕の前に座る瞬間のエレーナの顔は体の中に魑魅魍魎とした出来物を抱えているような顔だった。しかし、零点幾何秒にも満たない内に彼女の顔は明らかに強く、気高く、覚悟を決めていた。
「明後日、それがあの人がこの地を去る時。私は彼を見送ると共に、貴方を列車に隠して日本に返す。ごめんなさい...途轍もなく大きなリスクを貴方に背負わせることになるのは分かっている、だけど、馬鹿な私にはそれぐらいしか貴方を故郷に帰す方法は思いつかなかったの...」
「優しいんですね...こんな他所の国、しかも敵国の子供を故郷に帰そうだなんて。」
「私は人種、国籍なんて考慮の材料候補にすらしないの。それに、大人が子供を守らなくてどうするのよ。」
彼女はその美しい顔に一番似合う微笑みを僕に向けた。
「勿論、僕は大きいリスクを背負うなんて重々承知です。」
僕もエレーナに微笑み返し、握手を求めた。
彼女は変わらぬ笑顔で僕の握手に応じた。
日本に戻る道すじが見えた、だが、僕の頭の端には謎の違和感と正体不明の不安が残っていた、しかし、僕は
それがタイプスリップした現状が原因では無いと、その時は気づけなかった。
ーマシュー、待っててね
自分探しの旅 なる民 @masyu-mikhailovna-kagura
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