第5話

 時間は午後六時十一分。

 先輩がクローズドシアターを間近で見たいと言った。街灯もないので見えにくいかもしれないと説明したが、一度犬に挨拶をしておきたいと冗談交じりに返された。こうなれば呼んだ手前、案内するしかない。

 歩く度に砂のこすれるような音と一定のタイミングで聞こえてくる波の音が非常に合っていた。不思議なものである。どこかでずれてもいいはずだ。

 魚の跳ねる音が聞こえる。

 鳥の声が林の方から聞こえてくる。

 しかし、少ない。

 命の音が聞こえないと、耳が休まるものである。

「あぁ、そこにいるお二人さん。ちょっといいかな」

 私と先輩は振り返った。

 そこには顔を白いタイツで覆い、黒い上下のスーツに白いシャツ、黒いネクタイを締めた何者かが、ランタンを持って立っていた。骨格からして男だと思われる。

 いや。

 男と仮定する。

 仕草は非常に丁寧かつ、礼儀正しい。

 しかし、手も白い手袋をしており素肌が一切見えない。

 別に肌の色で信用するかどうかを決めたことはないので特に問題はないが、中々気になる。

「なんでしょうか」

「マザーペックって知ってるかい」

 関係者か。それとも、都市伝説の類として興味本位で近づいてきただけか。気になるところではあるが、ここで判断することはできない。

 ならば、質問に答えるべきではないだろう。

「何か御用があってここにいらしたのですか。私たちは夜の散歩ですが」

「あぁ、そうかいそうかい。実は、このあたりに研究施設があって、その中にマザーペックっていう研究員がいるんだよ。ちょっと用事があってね」

「なるほど」

「でも、中々かっこいいよねえ。マザーペックなんて名前、他じゃあ聞いたこともないな」

「あぁ、そうですかね」

「知ってるかい。四年前にあそこの研究施設から飛び出してきた研究員がいたんだよ。助けてくれって喚きながら近くの町までやって来たそうだ」

「何か怖い感じがしますね」

「そうなんだよ。そのすぐ後にね、仲間の研究員がやってきんだ。最初は逃げて来た研究員の方はパニックだったんだ。だけど、会話をし始めて一時間か二時間くらいかな、ハグをしたり、手を握り合ったり、キスし合ったり、服の上から股間のあたりを揉み合ったりしてね。最終的には近くの喫茶店でお茶を飲んで研究施設に戻ったらしいんだよ」

 暗くなる前に研究施設を見に行きたいというのに、話が長くなりそうである。あと少しという所で面倒な人間に捕まるのは、何か法則でもあるのだろうか。私の人生はこのイベントの発生確率が非常に高い。

「で、帰ろうとした時。町の人の中には敵意むき出しの住民もいるからさ。連れ戻しにきた研究員のことを問い詰めて、最後には殴りかかる一歩手前までいったそうなんだよ」

「穏やかじゃないですね」

「そうなんだよ。そうしたらその後から来た研究員はその住民の首を片手で掴んで持ち上げたそうなんだ。もちろん、暴れるんだけど全く意に介さないみたいで手をはなさない。周りの人たちも焦ったそうなんだけど、どうにも止められない。そのうちもう片方の手で住民の歯をへし折り始めたそうなんだ。住民の口から砕けた歯と血があふれ出たところで、手を緩めて地面に乱暴に落としたんだと。そして」

 私は先輩の方へと視線を向ける。先輩は聞き入っていた。

「その研究員は、こう言ったそうだ。私がマザーペックである。とね」

 先輩が手を軽く挙げてから降ろし、腕を組む。

「マザーペックです。ではなく、マザーペックである。と言ったのか」

「あぁ。どうだったかな。ううん。こっちもそう聞いたってだけだからなあ。申し訳ないけれども」

「そうか、有難う」

「でも、そんなところが気になるのかい」

「まあ、そうだな」

 男が小さく笑う。

「あんた、マザーペックと話したことがあるんだろう」

 男は先輩を指さし、先輩は顔を硬直させていた。

 私は横目で先輩を見ながら、男の推察が中々鋭いことを理解していた。

「何故、そう思う」

「いや。話したとしても電話なんじゃないかな」

「だから、何故そう思う」

「発言内容について質問をしたなら、候補は無限にあったんだけどな。でも、語尾について質問をするためにはマザーペックの話し方を知っていなければならない。語尾がです、なのか、語尾がである、なのか。そもそもそういう喋り方をするような性格なのかどうか」

「単純に気になっただけだ」

「こっちも、あんたのそういう発言が気になっただけだよ」

「話を戻そう。そのマザーペックを名乗った研究員はその後どうしたんだ」

「何もなかったよ。ただ研究施設に戻っておしまいさ」

「そうか」

「聞かないんだね」

「何をだ」

「監視カメラとか誰かの携帯電話とか、マザーペックが映っている映像データはあるかと聞かないのかい。語尾は気にするのに、マザーペックの外見は気にしないのか。あんた、ますます怪しいね」

「ルッキズムも甚だしい」

「言い訳が苦しいんじゃないかな。あんたマザーペックと会話したこともあるし、見たこともあるんだろう。いやあ、おかしいと思ったんだよ。こんな時間に、こんな何もない海辺を歩いているなんて」

「夜の散歩だ。なあ、そうだろう」

 先輩が私の方を見る。

 夜の散歩自体は嘘ではない。仮に嘘だったとしても白状する道理がない。

「はい、ただの散歩です」

「あんたは高校生かな」

「はい。高校二年生です」

「夏休みか。楽しいかい」

「えぇ、堪能しています」

「マザーペックに憧れでもあるのかい」

「えぇと」

「意味が分からないかな。君もマザーペックを知っているんだろう」

「いやあ」

「大丈夫だよ。もう全部ばれちゃってるから」

「まあ、なんとも」

「優しく言ってるうちに頷かねぇとぶっ殺すぞ」

 男がランタンを自分の顔に近づける。しかし、表情は当然ながら見えず、白い楕円が闇の中に浮かんでいる。私と男の間の距離は一切変わっていないはずなのに、男の腰のあたりから顔にかけてこちら側に伸びてきているような感覚に襲われる。

 その時、先輩が一歩前に出て私と男の間に片腕を入れる。

「言葉が汚い」

「あぁ、すみません、すみません」

「要件を言え」

「マザーペックを殺しちゃって」

 殺人の告白。

 額面通り信じるわけもないが。

「警察に行くといい」

「自首はまだいいかなあ、なんて」

「それを俺たちに言って何が目的だ」

「誰かに知らせないと気が済まないみたいな感じで。すみません、ごめんなさい」

「謝るなら最初からするな」

「マザーペックは悪魔だよ」

「悪魔的な才能を持った研究員だ」

「いやあ、悪魔だ。殺されて当然だよ。あんなものは」

「恨みがあったと」

「私には妻がいた。とても優秀な研究者でね。マザーペックと話をしたいと一人であそこの研究施設に向かったんだ」

「止めなかったのか」

「止めたさ。でも、聞いてはくれなかった。同じ研究をする者同士分かり合えると思っていたみたいだ」

「それで、どうなった」

「数か月したら妻はマザーペックの助手になっていた。自分から志願したと言っていた。意味が分からなかったよ。妻は、マザーペックと会話をしたことで多くの悩みが吹き飛び、新しい世界が見えたと興奮していたよ」

 マザーペックの助手になれるくらいだから、本当に優秀だったのだろう。おそらく、場所さえ選べば、生涯、天才のふりをするくらいはできたかもしれない。

「ある日、研究施設から妻が亡くなったと知らせが来て、妻の皮膚の一部と結婚指輪が送られてきた。それだけだよ」

 男は言い終えると、海に向かって走り出した。

 ランタンを持ったままだったので、光はみるみる小さくなり波によって点滅しているようにも見えた。

 一分もしないうちに男の姿は見えなくなり、二分もすると波の音だけ、三分後には光を放ったままのランタンが砂浜に打ち上げられていた。

「研究施設を見て帰りましょうか」

 また犬に近寄られると面倒なので、遠巻きに見て帰った。

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