第4話
この日差町では、名産の麦を使った麦茶が有名である。また、道端では麦茶師と呼ばれる人々がラーメン屋の屋台のようなもので麦茶を売っている姿を見ることができる。一説にはかの有名な樋田氏、また桑名須賀八郎が政策の一環として行ったものが始まりとされている。
麦茶師は大体が七十代の女性であり、麦茶にはそれぞれ独特の味付けをしていることが多い。砂糖を多く入れた甘水麦茶。シナモンを多く入れたシナモン麦茶。塩を多く入れた海麦茶。カルダモンを多く入れたカルダモン麦茶。苺をすりつぶして入れた苺麦茶などがある。
日差町の役場では、御朱印帳ならぬ麦印帳を売っており、麦茶を購入して麦茶師に渡すとそこに印を押してくれる。麦茶師が今現在何人活躍しているのかは役場も把握していないため、一冊で足りるのかどうかも分からない。そのような緩さも一つの魅力と言える。
麦の味 日差 夏よ真夏よ
とは昭和の名俳人、久田肺情もよく言ったものである。
私は六軒道を北に進んだ先にある屋台で、国道八号が二つの山の間を通って白い線を作り出している絶景を眺めながら麦茶を飲んでいた。
麦と書かれた藍色の暖簾。木造の無骨な屋台。人間を拒絶するかのような硬い椅子の上には肉腫のように綿が無理やり詰め込まれた座布団。
そのすべてに歴史がある。
たまらない。心地いい。
「今日は特に暑いねえ。観光かい」
「えぇ。ちょっと夏休みの間だけ来ているんです」
私はジョッキに注がれた冷たい麦茶を飲みながら、店主である麦茶師の皴の多い顔を見つめる。もう、どこが目でどこが口でどこが鼻の穴なのか分からない。しかし、微笑んでいることが分かるから不思議である。
この麦茶師の麦茶は塩が少しとミントが入っているような気がする。後味が強くて鋭いのだ。喉に直接当てると涼を感じられる。
隣に座っている男は麦茶を少しずつ飲みながら、無精ひげを指で触っている。
「しかし、研究施設から逃げて来たとは情けない」
男は私を冷ややかな目で見つめてくる。
「しょうがないでしょう。状況が状況だったのです。明らかに異常でした」
私は、つい右手の親指を見てしまう。
「あそこに入れば、異常な状況に巻き込まれることは明白だったはず。準備を怠ったことを言い訳するな」
「分かりますが、私も大変だったのです」
「だろうな。だから俺をここに呼んだのだろう」
「えぇ、頼みますよ先輩」
「たまたま近くにいたから来てやったというのに。お前に何か頼まれる時は大抵ろくなことが起きない」
先輩は研究者である。
知能レベルは私の方が圧倒的に上だ。だが、人生経験とキャリア、人間関係などを総合すれば先輩の方が圧倒的に上となる。
「関係のない話をしてもいいか」
「できる限り避けてください」
「両親との仲はどうなんだ」
「どこの家族も、先輩の育った家庭のように円満ということはありません」
「分かった、もう聞かない」
「それを何度も聞きました」
先輩が麦茶を飲み干して麦茶師におかわりを要求する。
麦茶師は表情を変えず、麦茶をジョッキに注ぎ入れて直ぐに先輩に渡した。
「研究施設に近づいた時に、何かに出会っただろう」
「はい、犬に」
「あれはマザーペックの飼い犬だ」
「マザーペックは犬が好きなんですか」
「何故、そうなる」
「え、飼っているんですよね」
「研究分野によってはありとあらゆる動物を好奇心で飼うことはあるが、それはあくまで好奇心であり、好きという感情からは程遠いものだ」
「でも好奇心が結果として好きという感情と繋がることはあると思います」
「繋がることはあるが、イコールではない。俺は子どもの頃に野良猫を生きたまま解剖したことがあったが、あれは好奇心であって猫を好きだからしたのではない。もちろん、解剖という行為に恋焦がれていたとも言えるが、言葉遊びの域を出ない」
先輩は、余り目を動かさず体も静止した状態である。マネキンが屋台に座っているかのようであった。
「そう言えば、先輩の研究ってなんでしたっけ」
「話を続ける」
無視された。
「犬に襲われたか」
「襲われました」
「どう、襲われた」
「吠えられました」
「噛みつかれたり跳びかかられたりしたか」
「そういうことはなかったですね」
「なるほど」
「何がなるほどなんですか」
「どうやら、マザーペックはお前に興味を持っているようだ」
「私に、ですか」
「俺の知る限り、犬がそのような態度であった場合は、そう解釈をして間違いはないだろう」
「犬がマザーペックの好みを熟知して、選り好みをしているということですか」
「違う」
先輩は自分の首を指さし、その後に私の首も指さした。それから一気に麦茶を体の中へと流しこんでいく。
良い飲みっぷりである。
「犬に首輪があっただろう」
「あったように思います。ただ、毛深い犬もいたので埋もれていたかもしれません」
「まあ、いい。とにかくその首輪には小型のカメラがついていてマザーペックはそこから様子を伺っている。誰が来たのか、どんな表情をしているのか、アクシデントにはどのような対応をするのか。すべて観察している。そして首輪には小さなモーターもついている。そこを細かく振動させて、犬たちに指示を出すのだ。かみつけ、跳びかかれ、尻尾を振れ、離れろ、近づけ、座れ、ふせをしろ、とかな」
「犬を操っているということは、よく分かりました。ただ、あそこで鼠を食べさせられたんです」
「ほう、犬に薦められるがままに鼠を食べたと。随分とマザーペックに遊ばれたな」
「パワハラじゃないですか」
「マザーペックはいたずら好きであり、純粋であり、我が儘であり、まるで子どもだ」
「中に入っても大変だったんです。ある研究員が爪を引き剥がしにきたり」
「お前の指に爪はあるが」
「親指を見てください。針みたいなのを差し込まれて、今もちょっと痛くて」
「災難だったな。やり返したのか」
「気が付いたら体が勝手に動いていて、相手の眼球に針を刺しこんでました。なんというか、相手の戦意を削ぐべきだと反射的に思ったのかもしれません」
「やり返していないなら、ここで縁を切るつもりだった」
「警察に通報されるでしょうか」
「ない。絶対にありえない。あの場所はマザーペックの遊び場だ。あそこにモラルを重視するような人間がいれば、たちまち面倒なことになる。仮にあの中で殺人が起きたとしても、誰も警察には通報しないだろう。そういう場所だ」
「物理的にも、社会的にも密室ということですか」
「あの中の常識は数が限られているということだ。皆、自分にも他人にも興味がない。だからモラルが希薄でも問題がない。あの研究施設のことをなんと言うか知っているか」
「いえ」
「クローズドシアター。あの赤い幕も手伝ってそう言われている」
「クローズドシアター。ですか」
「観客たちは幕が開くと劇場に入ってきて、そこで行われるすべてのエンターテイメントを享受できる。だが、幕が閉じたら観客たちはすぐさま退出しなければならない。なぜなら、彼らはその時点から客ではないからだ。あの研究施設からはマザーペックの手によってありとあらゆる研究結果が飛び出してくる。しかし、その裏で何が行われているかを知ることはできない。誰も覗けない。覗いてはいけない」
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