第2話
「君、あの鼠をよく食べたね」
「食べなければならないと思いました」
「まあ、食べるという選択肢があったのは事実だけれども」
私は白く清潔な部屋でベッドに横たわっていた。目の前には木製の黒い安楽椅子に座った白衣の研究員が一人。その後ろにはスクリーンがあり、ローマの休日が高速で流れている。オードリーヘプバーンが操り人形のように動く様は非常に面白かった。
ちなみに、ヘップバーンではなくヘプバーンの方が正確な発音に近いらしい。しかし、この場合の正確とはいったい何なのか。
というのは置いておいて。
「ここは研究施設の中ですか」
「そうだね。赤い布で覆われた変な研究施設さ」
「あなたはその研究員」
「いかにも」
「質問があります」
「もうしている」
「私をどこから入れたのですか。赤い布で覆われていて入口が分からなくて」
「少し離れたところに入口があってね。地下道がある」
「なるほど」
厳重な感じがする。何故、私をこの中に入れてくれたのか。
「ここは何をしているのですか」
「研究をしている」
「そうではなくて、どんな研究をしているんですか」
「さあ」
「ここの研究員なのですよね」
「そう、その通り。でも、研究はもうしていない」
「では、何をしているのですか」
「毎日、時間を潰している。ご飯を食べて、趣味に勤しんで、寝て。それだけ」
「研究施設の中にいる研究員なのですよね。それでお給料を貰えるのですか」
「そう。貰えてしまうんだな。これが」
研究員は笑った。胸元のバッジが光を反射して赤く輝く。
私はそれを見て、この研究員を赤色さんと呼ぶことにした。
「赤色さんは、何故、お給料を貰えていると思いますか」
「赤色って。あぁ、バッジの色か。中々、面白いことを考えるね。まあ、この研究施設で本名で活動している人なんてそもそもいないし。いいよ、赤色という名前を承認しよう」
質問には答えないと。
まぁ、いいか。
後ろで流れていたローマの休日が突然一時停止し、みるみるカラーになっていく。そして巻き戻しが行われていく。後ろ歩きをしているグレゴリーペックは、前に向かって歩いている時と違って非常に滑稽だった。
グレゴリーという名前の響きはカッコいいと思う。しかし、個人的な意見であるので反論の余地しかない。
というのは置いておいて。
「この研究施設には、マザーペックという存在がいる。彼なのか彼女なのか分からないけれど、今のところは彼女という説が濃厚だ。彼女は研究員でこの研究施設の中でかなりの古株。そして、研究を始めてからのキャリアが最も短い。しかし、功績は数えきれないほどある。神童と言ってもいいかもしれない」
「子どもなのですか」
「憶測さ。この研究施設のどこかにいることは分かっている。でも、誰も見たことがないんだ。この研究施設は、表向きには少数精鋭のチームを組んで研究を行い、その結果を世界に向けて発表し続けている、ということになっている。ただ、正直に言ってしまえば、この世間的な評価は彼女が一人で築き上げたものなんだよ。私たちのような後からやってきた研究員はおまけに過ぎないのさ」
「彼女の功績にあずかっていると」
「そう。皆、ここに来るまでは優秀な研究員だ。でも、ここにいる限りはマザーペックの圧倒的な研究成果の前に手も足も出なくなる。そのうち、彼女の寄生虫としてここに住み続ける方が楽なんじゃないかと思うようになる。研究はしなくなり、気が付くと私のようになる。ちなみに、私はマザーペックがこの研究施設で働くようになって、その次にここにやってきた研究員なんだ。あの頃は、この研究施設もたった二人だったのに、今や十四人もいる」
「マザーペックはどう思っているんでしょうか」
「どう、というのは」
「だって、自分の成果を他人も享受しているということですよね。それってマザーペックからしたら、なんというか不公平感というか」
「あぁ。気持ちは分かるよ。普通はそうだろうね。でもね、マザーペックは天才なんだ。そして、この研究施設にいると何となく分かってくるんだよ。あぁ、天才ってそういう考えをしないんだな、とね。蚊っているだろう。あれは、血を吸ったところを結果的に痒くさせたり腫らせたり、何か病気を持ってきたりするわけだ。凄く不愉快な気持ちにさせてくる。でも、もしも痒くもなく、腫らせるわけでもなく、何の病気も持ってこなかったらどうだろう。確かに蚊が血を吸っているというビジュアルは不快かもしれないが、たぶんその蚊を叩いて殺そうと思う人は少し減るんじゃないかな。彼女にとっての私たちはまさに、それなんだよ。気付かないように吸ってくれるのであれば気に留めるほどではない存在。いや、仮に損害があったとしても、血を吸わせてあげてもいい存在。不快になったら払うかもしれないが殺すほどではない存在。」
「マザーペック以外の他の研究員たちはどう思っているのですか」
「人としてのプライドが消えるんだ。普通ならここまでマザーペックに依存して、色々なものを掠め取るように生活していると罪悪感が生まれる。でもね、彼女は本当に気に留めていないんだ。いや、もちろん彼女から話を聞いたわけではないから、正確ではない。正確ではないんだけれども。でも、なんとなくわかるんだ。彼女が本当にこちらに興味を持っていないことが」
「同じ研究を行う者の勘ですか」
「私が他の研究施設でエースと呼ばれる部類に入っていた頃、自分より無能な研究員を見下していたんだ。今の私はね、マザーペックにそれよりも高いところから見下されているという確信があるよ。他人を馬鹿にしている時に、他人を馬鹿にするのは良くないと咎められるのではなく、そのレベルなら馬鹿にしているうちに入らないよと励まされるような突き放され方というのかな。そんな感じだよ」
「すみません。確認なのですが話したわけではないのですよね」
「そう、話したわけじゃないんだ。そうだよね、おかしな感じがするよね。でもね、これがまた嫌というほど伝わるんだ」
マザーペック。
当然、知っていた。
あらゆる分野の大がかりな研究を行い、その結果を定期的に世界に発表する天才。しかし、正体は不明である。
最近発表された論文は、ミセケアコという名前の猫についてだった。環境を変化させた状態で人間との触れ合いを極端に増やした個体と野生の個体の違いを調査したものだった。まず、ミセケアコはかなり広い場所でなければ飼育が不可能とされている。というのも、天井や壁等の圧迫感を与えるものを非常に苦手としていて、すぐに自分を齧る、鳴き続ける、餌を食べなくなる等の行動を示し、最悪死んでしまう。しかも、この最悪のケースがかなりの高確率で発生。また、ミセケアコは南アフリカの山岳地帯グヌアにしか生息しておらず、捕獲をする際は、政府に許可を取らなければならない。この許可、というのは早い話が金をどれだけ積むかがすべてであり、かなりの額が必要になる。今回の実験では十二頭捕獲しているそうで、莫大な費用がかかったと噂されていた。
さて、ここまでで幾つか気になることがある。
例えば、この研究施設の用途について。
マザーペックが行う実験は、常に広い敷地を必要とする。ミセケアコの調査は、さすがに現地の施設を使って行ったのだろう。これまで行われた他の実験も、ここではないどこかで行われていたと考えた方が自然である。だとするならば、ここは世界中に指示を出すための最重要部分。
マザーペックの脳ということになるだろう。
私がこのようにしてマザーペックに興味を持っているのには、理由がある。
私も研究者なのだ。
そして。
一応、神童と呼ばれている。
正直に言えば、自分よりも賢い子供や賢い大人に会ったことがない。だから、マザーペックという存在に会ってみたいと思った。
私は実力が自信に追いついているナルシストである。
ここからどのジャンルのスペシャリストになってもいいくらいの知識量も多種多様な思考のベクトルも持ち合わせている。可能性しか存在しない未来。しかも、それが私の手によってしか維持できないという事実。
ただ、このレベルの子どもなど、私が会ったことがないだけで世の中には腐るほどいるだろう。
何せ、私は賢いだけなのだ。
知っているだけだし、考えられるだけであり、行動に移しているだけである。
私がなりたいものは、より娯楽に近い。
勉強ができるから勉強ができるのではない。何かの副作用のように勉強ができているだけの存在でいたい。
そのための突出。
私は木槌も届かないほどの出過ぎた杭になりたいのだ。
今現在、世界において最もその抽象的な存在に近い者。
それがマザーペック。
「君は、どうしてこの研究施設に近づいたのかな」
「中々面白い外観をしているので」
「まあ、確かに、かなり異質だからね。そりゃそうか」
「中を見て回ることは可能なんですか」
「まあ、別にいいけど、ここは危険だよ」
「危険な薬品や動物がいるということですか」
「いや、危険な薬品や動物は鍵のかかった扉の向こう側だよ。一番危険なのは研究員たちさ、みんな自由に歩き回っている」
「モラルがないということですか」
「自分のオリジナルの宗教を持っている研究員がいてね。そいつは初めて見た人の爪をすべて剥ぎ取ろうとしてくる。実際、この研究施設に来た女性が強姦されたあげく爪をすべて剥がされたんだ。彼女はショックで心の病になってしまい、その挙句、危害を加えて来た研究員の宗教にはまってしまった。それから数年間は被検体という名目でその研究員と一緒にこの施設の中で暮らしていたよ」
「幸せにはなれましたね」
「まあ、そう言えるね」
「他にも変な研究員は沢山いるんですか」
「そりゃもう、沢山」
「マザーペックは変人の部類に入りますか」
「どうだろうなあ。変人というより、やっぱり天才かな」
ローマの休日がいつの間にか止まっていた。
グレゴリーペックが真実の口に手を入れている最中だった。
私の実家の隣家が宗教にはまっていたことを思い出す。
ただ、非常に幸せそうであったし、実際幸せであったと思う。礼儀もあって、会話も成立するし、無理矢理すすめてくるわけでもない。
神との付き合いとは何が適切なのだろう。
まぁ、神と付き合うだけが宗教ではないか。
「ところで、その爪。随分と汚いんじゃないかな」
「そうですかね。確かに最近、切っていなかったかもしれません」
「引き剥がしてしまうのが一番手っ取り早いと思うけどね」
赤色が、先が広がった待針のようなものを私の右手の親指に差し込んでいる最中だった。
むず痒さと痛みとともに、爪と肉の間に異物が入りこんでくるのが分かる。赤いインクが滲むように、血が広がる。
私は赤色を突き飛ばして倒すと、顔に蹴りを入れる。赤色の首のあたりから異音が響いて体が大きくくの字に曲がると、口から痰が飛び出して私の靴を濡らす。
腹を蹴り、待針を引き抜いて赤色の眼球に差し込む。
赤色が目を押さえて叫び、寝転がったまま暴れまわる。部屋が小さく振動し白い壁に長方形の亀裂のようなものが見えた。
扉だ。
逃げられる。
走り出すと、赤色に足首を掴まれて転んでしまった。もう片方の足で蹴ると待針がより深く赤色の眼球に刺さっていくのが見えた。
小さい叫び声が連続している。
私は立ち上がり、扉へと向かって走った。開く。出る。閉じる。息を整える。
「ちょっとっ、床を汚さないでくれるっ」
目の前に女性の研究員がいた。
私の親指を見つめている。
当然、血が垂れている。
「すみません」
「謝って済むレベルじゃないからっ」
右頬をビンタされ、壁によりかかる。
右頬が徐々に熱を帯びてきていることから、自分が生きているのだという実感を味わった。
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