#26:落丁者

「また君の担当した書籍でクレームが来たぞ」

 狭苦しい会議室での叱責を受けるとき、メガネはいつも心を固く閉ざしていた。

 彼の給料に、上司のハラスメントを甘受する分は上乗せされていない。だから聞き流す。社会人として、当然の処世術だった。


「無論、限界があるのは分かっている」

 メガネを叱責する上司は、しわのないスーツを折り目正しく着込んだ、生真面目そうな男だった。年はメガネと数年くらいしか違わないが、零細出版社でWeb小説の書籍化業務は最近立ち上げた仕事なので、もともとそっち方面に明るい彼が編集長に抜擢されたのだと聞いたことがある。


(アマチュアのWeb小説に明るいくらいで出世するなど、ずいぶん楽な仕事だな。第一、この会社はムック本出版が中心だ。そりゃあ、同じ出版と言っても畑違いの領域だから、大抵のやつよりこいつの方が詳しいということはあるだろうが)

「……どうした?」

「なんでも」

 上の空になっていたのを咎められ、メガネはまた苛ついた。


「この部署は小さい。校正を入れるだけの余裕もない。おまけの我々はライトノベルに関してはほとんど素人だ。できることは限られている。しかし、他の人たちと比べても君の担当した書籍でのクレームは多い」

「いちいち数えているんですか」

「つまり印象や先入観ではなく、お前の担当した書籍に問題が生じているのは数値的にも明白だということだ。正直ここまで明白だと給与査定に影響が出かねない。俺の方から人事になしをつけるのにも限度がある」


 なんというか、偏執的である。先入観ではないと言ったが、わざわざ明確な根拠になるまでカウントしているのがもう、自分を嫌ってやっているのではないかとメガネ自身は思う。


の報告はどうしても多いが、お前の担当した書籍では他人よりそれが顕著だ。誤字はいわば、工業製品における設計ミスだ。そんなものを金銭を支払って購入した客に掴ませないよう注意を払え」

「編集長は知っているでしょう? あの手のWeb小説のサイトじゃ誤字脱字の報告はそれ自体がコンテンツです。それを目的にサイトを周遊するようなのも多い。気にし出したらキリがないですよ」

「そういう傾向があるのは知っている。だが、それが事実だとしても我々が誤字を放置していい理由にはならない。金をとらないWeb小説ならともかく、我々はそれを商業ベースに載せているんだからな」


 現実に対し、それを無視した正論で返す。だからメガネはこの上司が嫌いなのだ。


「編集者として作品に深く切り込めとは言わん。既に一度書き上げられたものを根本から見直すのは労力が大きいし、作者自身がそれを望まないケースも多いだろう。だからこそ、その分の労力は誤字脱字の修正くらいには回せ」

 編集長の小言は続く。

「本文はまだ分かるが、表紙のタイトルが間違っているのはどうなんだ。しかも俺が作者に聞いた話では、お前に何度か指摘を入れたがそのまま製本されたという話じゃないか」

「あんな社会経験もないガキの言い分を鵜呑みにしないでくださいよ」

「作者は30代の会社員だぞ。その情報も、渡したはずだが」

「当人の自己申告でしょう? どうとでも言いつくろえますよ」


 メガネはため息を吐く。

「連中は『書籍化した』という実績が欲しいだけですよ。ゲームのトロフィーみたいなもんです。そうでなきゃ、こんな無名の零細出版社からの書籍化打診なんて受け入れないでしょう。こっちは連中の承認欲求を満たせばいい。そして、馬鹿が金を出して買う。体裁さえ整っているのならどうでもいいでしょう」

「お前の担当書籍のクレームには落丁もあったぞ。それは、体裁が整っていると言えるのか?」


 ああ言えばこう言う。まるでSNSで匿名アカウントに絡まれているような気分をメガネは味わっている。


「なあ、お前はどうしてそうも、自分が扱っている商品を馬鹿にしているんだ?」

 編集長が問う。

「我々はこれを売って金を得て、それで生活している。これがなければ我々の生活は成り立たない。お前の言い分は、運送会社の人間がガソリンで動くトラックを乗り回して生計を立てているのに、中東を『油田を掘るしか能のない知恵遅れ』と見下すようなものだ」

「比喩で話をするのは、煙に撒こうとする合図ですよ」


 メガネは鷹揚に答える。

「生計がどうのというのは関係ないです。愚かしいものは愚かしい。それは事実でしょう。事実を指摘して何が悪いんですか?」

「その愚かしいものによって君は食いつないでいるのだという事実を、まさに俺は話している。君が関係ないと一蹴したものこそが重要だという話を、だ」


 編集長は引かない。

「正直なところ、俺も大抵のWeb発のラノベがしょうもないものだとは思っている。あれは典型的な縮小再生産だ。面白いWeb小説の読者が浅い知識と理解力で今度は書き手となって薄い小説を作る。その小説を見て次は……の繰り返し。その中で作品に深みを与えていた要素は次々と削ぎ落される。それ自体は他の作品でも起きうることだが、通常は作者によって新たな要素が削がれたものの代わりに継ぎ足される。だがWeb小説でそれは滅多に起こらない。Web小説の書き手は継ぎ足せるだけの知識をまだ得ていないからだ」


 メガネもそれは知っている。詳しいから……ではなく、それこそ編集長が以前言っていたことを覚えていたからだ。


 例えば、現実で屈折した人生を送った人間が異世界に転生する。現実での失敗と、それによって確立された鬱屈とした自我を持ったまま。当然、そのままでは同じことの繰り返し。しかし、異世界に別人として転生したことをきっかけに、変わろうとする。死の次に訪れたありうべからざる第二の生。ここで変わらなければ、本当に何もかもがおしまいになってしまう。自分が言い訳の余地もなくクズだということを証明してしまう。だから人は、異世界の地で自分を変えるため奮起する。それが物語になる。


 その物語を読んで感動した人が、その感動のまま自分なりの物語を紡ごうとする。そこで縮小再生産が起きる。物語のカタルシスを得た要素だけが抽出される。そのカタルシスの前にある溜めの部分は、読者にとってはストレスだからだ。それがカタルシスのための必要不可欠なものだと理解しても、やはりストレスではあるからだ。読者にすらストレスなのだから、作者にとってもストレス。だから気づかぬうちに、そこは削ぎ落される。


 金を得るために小説を書くならそのストレスには向き合うだろう。素晴らしい作品をかこうとしているのなら。名作を書くことで己を打ち立てたいと思うのなら。ストレスに向き合って創作をするだろう。だがWebの人間はそうではない。。ただの娯楽に、ストレスと向き合う切実さは必ずしも求められない。そして、作者にとっても読者にとっても快感を覚える要素だけが残っていく。


 それ自体はいい。趣味なのだから。娯楽のためにするのだから。気軽なスポーツとして野球を楽しむ人に甲子園を目指せと言っても仕方ないのと同じこと。目的が違う。求めるものが違う。


「だが。作者の趣味と功名心を利用して金を得ている。いわば我々は搾取者だ。しかも、矢面に立つのは作者だ。ただの趣味者だったのに、あれよあれよという間に金を得て作品を売るプロとしての責任を押し付けられた作者だ。我々は搾取するものの中でも最悪の部類に位置する」


 書籍化するということは、商業ベースに載せるということは、趣味では済まないということだ。これもまた、編集長が度々言っていたこと。聞き流すメガネですら覚えてしまう話だ。


「書籍化し、書店に並べば他の作品と比べられる。当然、創作者として経験が浅く、編集のバックアップもほとんどない彼らの作品は稚拙で未熟だ。大手出版社の作品と比べれば天と地ほどの差がある。馬鹿にされるだろう。こんなものを書籍化して作家先生を気取るなんてと見下されるだろう。我々は作者をそういう場所に追いやることで金を得ているんだ。やっていることは女衒と大差ない」

 ゆえに。

「ただでさえ厳しい目に晒される作者に、加えて誤字脱字落丁の咎を背負わせるお前は何様なのだ?」


 ねちねちと、しつこく編集長は叱責する。


「今や読者の声が直接作者に届く時代だ。誹謗中傷は当然、妥当な批判でも数が集まれば作者の負担になる。趣味で、好きで小説を書いていたのに注目されたことで筆を折ってしまう人もいる。そういう人生の岐路に人を立たせて我々は金を稼いでいるんだ」

「その程度で筆を折るなら、その程度の情熱だったということでしょう」

「だとしても、安全圏で人を追い込んだあげくそれで金を得ているお前が言っていいことではないな」


「事実に言っていいも悪いもないでしょう」

 メガネが反論する。

「『人の命は大切だ』という言葉を聖人が言おうと殺人鬼が言おうと、事実としては同じです」

「だが、殺人鬼がそんなことを言えば普通は裏を疑う。命の価値を説くことで何かを狙っているのではと疑う。その一幕だけを切り取って何かを語ろうというやつは、に注目されるのを避けたいだけだ」


 批判に屈し筆を折る創作者なら、遅かれ早かれ。その程度で折るのなら創作への情熱などたかがしれている。作者に筆を折らせるだけの状況へ追い込んで利益を得るメガネがそれを言うとき、そこにある裏はただひとつ。


 


 だから積み重ねを無視する。これまで人をそういう状況に追い込んできたという自身の咎の積み重ねをなかったことにする。正しい部分にだけ注目する。全体からすればほんのわずかでも、そこだけを切り取ればまったく完全に正しいには違いない。


「見下すなとは言わない。作品を好きになれとも言わない。だがそれで金を得ている以上は、真剣に向き合え。自分が作品を見下す理由とも、世間が作品を見下す理由とも。作者がプロであるように、我々もプロなのだからな」

『ジャンケンの結果が出ました』


 唐突に、アナウンスが挟まれる。

 メガネは、口元を歪ませて笑った。

「どうでもいいんだよ。お前の戯言なんて。いっつもパワハラしやがって。俺はもう死んだんだ。そして異世界に転生して次の人生を歩む。お前みたいな意識の高いやつなんて――――」


『メガネ、敗北。衣服を1枚脱いでください』

「………………………………へえ?」


『ここで脱落者が出たのでお知らせします』


「いやあのさあ」

 少女の声が聞こえる。

「むしろなんでこの流れで君が生き残ると思うのかな?」


「いや、おい……」

「異世界転生、第二の生はどうしようもない自分をやり直すための物語だぜ? 現実で馬鹿馬鹿しいまでのクズだった自分が、それでも立ち上がるための物語だ。死してなお己の愚かさに向き合わない馬鹿に機会はない。いや、機会を活かすことなんてできやしないのさ」


 メガネの体は、いつの間にか生前のサラリーマンのものから、文学少女然としたあのデスゲーム空間のものになっていた。

 そして。


 その体が剥がれ落ちていく。

「君は因果応報を受ける」

 もう、少女の声は遠い。


「誤字脱字、落丁。その他諸々、物語に対して行ってきた不義理をこれから君は追体験する」

「どういう……」

。そうやって一周すると、また最初から。二冊目の誤字や落丁が追加され、また繰り返す」

 つまり。

「君が担当した書籍、その不良個所に応じて君の人生はぐちゃぐちゃになる。担当一冊分の不良個所が適用され君はその人生を追体験し、終われば二冊目の不良個所が追加で適用されまた繰り返す」


 何度もこれから、彼は挫折する。

 選択肢を間違える。努力は実らない。間違いを指摘される。死んで異世界に転生し、そこでデスゲームに巻き込まれてまた死ぬ。

 それを繰り返す。自分が担当し、不良個所を出した書籍の冊数だけ。


「というかここまで読者と一緒に追ってきた君視点の物語が、だったんだよね。だから君が死ぬのは最初から決定していた。無駄なあがきご苦労様」


 それでは。


「読み終わった本は書棚に戻して次に行こう。いや、君の本は価値がないから資源回収にでも出しておこうか」


『メガネ、脱落』

『残りプレイヤー、4名』


 本は閉じられた。

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