#19:悪しきものは
『トイレの太郎くん』事件の被告、猪島牡丹に下された判決は
大半の事件がそうであるように、この事件もまた、いざ裁判の結果が出るという段階になって世間の興味は失われていたからだ。アリスや緑青はもちろん、鈴ちゃんも彼がどういう罰を受けたのかは知らない。そこを知ろうとは思わなかった。アリスたちの人生に、猪島牡丹のその後などという情報は不要だ。
読者諸賢としても、具体的に彼が少年法でどう裁かれたかなどという細々した話は興味がないだろう。ゆえに結論だけ述べるなら、10年後の現在において、彼は普通に生活をしていた。
「おい猪島。もう定時だぞ」
「はい。これだけ仕上げたら切り上げますから」
彼は愛知県内にある小さな自動車整備工場で働いていた。ひっそりと……ではなく、普通に、ただひとりの猪島牡丹として。
とどのつまり、どれほどセンセーショナルな事件の犯人だとしても、一生その名前を記憶に留めて人々が生きているわけではない。猪島牡丹の名を10年も経って覚えているのは遺族などの関係者を除けば、よほどの猟奇犯罪マニアか、人を罰する正義に酔いしれている者だけだ。
子どもの首を
「おーい、猪島くん、ちょっといいかな」
「工場長、なんですか?」
「君にお客さんだよ」
職場――というより彼の現在の人間関係において、猪島牡丹という犯罪者の経歴を知っているのはたったふたりだけだ。ひとりは職場のトップである工場長。そしてもうひとりは、彼に今の職場を斡旋した人物。
「やっほー。元気してた?」
「木野代表、お久しぶりです」
犯罪関係者の生活を支援するというNPO法人、その代表を務めている女性である木野氏だけだ。かっちりしたパンツスーツ姿だが、どうにもヤクザめいた雰囲気のある中年女性。しかし気さくなその人柄は、猪島にとってありがたいものだった。
「便りがないのがいい便り。あたしは本来、もう就職までした君には会わない方がお互い順調って感じなんだけど……。そうもいかなくてね」
「なにかあったんですか?」
「これだよこれ」
木野氏が鞄から取り出したのは、一冊の本だった。
タイトルは『少年Bの告白』
「ああ、それですか」
猪島はため息をついた。
「酷いもんでしょう? その本の記者、ぼくの氏名を記事に書いたライターですよ」
「なるほど。じゃあこの本にやっぱり君は関係してないと」
「ええ。ぼくが事件当時について告白したという体裁の本ですが、実際には記者の妄想100%濃縮還元でして」
「だと思った。君がこんなことをするはずはない。とはいえ、こっちも仕事柄確認しないわけにもいかなくて」
木野氏が頭をかく。
「世の中には人の足を引っ張ることが生きがいみたいなやつがたくさんいる。自分が後ろ暗いことをしているという自覚があるのならともかく、足を引っ張っておいて正義を果たしていると根っから信じている馬鹿も多い。面倒な話だね」
「仕方ないですよ。ぼくはそれだけのことをしたんですから」
「それは違うね。全然違う」
猪島の言葉を否定する。
「どんな人間にも不当に扱われる謂れはない。犯罪に対する処罰ですら、厳密には人権侵害だ。他者との権利との調整、当人の更生のためという意義があって初めて最低限の罰のみが許容される。どこの馬の骨とも分からない三文文士が好き勝手するのを、甘んじて受け入れる必要なんてないよ」
「そうは言っても……。抗議をするというわけにもいきませんから。反応をすればそれこそ記者の思う壺でしょう」
「そこがまた難しいんだよなあ」
本を鞄に仕舞い直し、木野氏はため息をついた。
「人間は過ちを犯してもやり直せる。そんな当たり前で無難なことさえ、気に食わない連中がたくさんいる。だからあたしらの仕事も続く。暇にならない」
「どうなんでしょうね。本当に、ぼくはやり直せるんでしょうか」
「さてね。実のところ、やり直せるってことはないかもしれない」
「え?」
彼女はそんなどっちらけなことを言う。
「やり直せるんじゃなくてさ、やり直すしかないんじゃない? 大半の人間は過ちを犯しても、死刑になるわけじゃないし無期懲役で一生刑務所ってこともない。どこかで社会に戻って、そこで生きないといけない。だからやり直す以外の道がないんだよ。きっとね」
猪島は木野氏の来歴を知らない。たまに仕事を手伝っているという彼女の娘曰く「偽善者最強決定戦があったらわたしの兄か母が日本代表です」とのことだが……。
「ところでさっきの捏造本を見て思い出したんだけど」
去り際に木野氏が何気なしに問う。
「結局君って、なんで事件を起こしたんだっけ?」
「それは……分からないんです」
分からない。当の本人である猪島ですら、例の事件に関してはそう結論付けるほかない。
なぜ殺人事件を起こしたのか。なぜ太郎くんを狙ったのか。なぜ便器に首を詰めたのか。なぜ首から下の死体は発見されないのか。
誰にもわからない。名探偵と呼ばれた宇津木博士ですら、猪島が事件の犯人だと推理はしたがそれ以上の具体的なところは詳らかにしなかった。
まるで他の誰かが自分の体をコントロールしたかのようだった。自分が自分じゃないみたいだった。あるいは、当時の記憶がすっぽり抜け落ちている……。
などと、そんな胡乱な状態に猪島は陥ったわけではない。
事件の詳細を彼は覚えている。自分が殺人をしたことも、死体を装飾したことも、首から下を隠したことも、全部覚えている。全部、自分のしたことだと認識できている。
にも関わらず、彼は自分がいざそのことを喋ろうとすると、何もかもが嘘であるかのような気分に襲われた。だから黙った。幸い、黙秘しても自分が犯人であることは確定していた。自分の責任で言語化することが難しいなら、余計な発言で混乱させる方が危うい。猪島はそう判断した。
「ふうん」
彼の答えを聞いた木野氏は、あまり興味がなさそうだった。
「自分のことは自分が一番よく分かっているなんて、人間特有の思い込みだもんねえ。別に今更、事件の詳細が明らかになったところで何かが変わるわけじゃないし」
本当にそうだろうか。猪島には判断がつかない。しかし、実際、10年も前の事件を蒸し返して喜ぶのはゴシップ記事で歓心を買う連中だけだ。そっとしておく方が賢明という意見には賛同できる。
それが、猪島牡丹の生涯だった。
後の経緯は、さして語るほどのことではない。
猪島牡丹は死んだ。そして異世界のご令嬢として転生し、そこでしばらくを過ごした。その後、ラブリィに発見されデスゲームに引き込まれた。
因果応報。働きには報いを、罪には罰を。
「言っただろう。不条理こそがデスゲームにおいて至高だ。だから私は君に思うことを許さない」
時は戻って、デスゲーム会場となるホテルの一室。
ラブリィが猪島に語る。
「人間の罪と罰など私は知らない。でも私は思ってほしくないなあ、猪島くん。このデスゲームが君にとっての罰だなんてさ。だって、たかが人間ひとり洒落たインテリアにしただけだろう? その罰としてデスゲームへの参加ってのは割に合わない。私謹製デスゲームへの参加チケットとしちゃ、ちょっと安いな」
「人間ひとりが――」
「それに」
アリスの言葉は遮られる。
「デスゲームへの参加が罰というのなら、プレイヤー全員が罰を負っているということになる。自分の魂を慰めるために、他人にまで罪を背負わせるなよ」
「分かっているよ、そんなことは」
猪島は答える。
「へえ?」
「ぼくがデスゲームに参加したのはたまたまだ。そこにぼくの過去は関係ない。君が丹精込めて作ったデスゲームを罰などと貶めないし、他人に罪を背負わせたりもしない」
「…………」
緑青は神妙な面持ちで、猪島を見ていた。
「さあ、ゲームを再開しよう」
「いいだろう。君という人間のあがきを、私に見せてくれ」
ゲーム再開。
ここからは、互いの衣服だけでなく、魂を守る鎧すら剝ぎ取り合う戦いになる。この場の全員が、それを自覚していた。
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