第5話 おじいさんの昔話

 熱が冷めると、一気に疲労が押し寄せてきた。急激に重くなった足を引きずり、俺は体と髪両用で使えるボディソープと、歯ブラシの二点の(今の自分にとっての)生活必需品を購入した。それからほんの少しの間、通路脇にある共有ベンチに座っていたが、時間を忘れてこのまま座っていられそうだったので、心苦しい思いで施設を後にした。


「そういや、お腹すいたな」そんなことを呟いて、さらに大通りの道を真っ直ぐ進み始めた。途中、気にも留めていなかった商業施設の奥、樹木が立ち並んでいる場所を横目に通り過ぎようとしていたところ、足が止まった。こんなに幸運で良いのだろうか。


 そこには樹木に囲まれた小さな公園があったのだ。手入れが行き届いていないであろう地面には、雑草が快適そうに伸び伸びと生い茂っている。冷めたテンションが再び上がっていく。これで今朝の不運はチャラになりそうだ。なんならお釣りがもらえる。


 食事のため、雑草を足で掻き分けるように公園に入ると、ちょうど木製の屋根とベンチが備え付けられていた休憩スペースに、一人先客がいた。七、八十代くらいだろうか、背骨が緩やかな曲線を描くような姿勢で座り、真夏には少しばかり暑そうな無地のカッターシャツを着たご老人だった。


 俺はご老人から人二人分の距離を取って座り、今朝買ったパンを一本、袋から取り出して貪った。このパンは、約百円で六本入っているコスパ最強のパンだ、「チョコスティック」という品名なのにチョコの味がほとんどしないのが玉に瑕だが、コスト削減のため、致し方ないのだろう。一本目を即座に食べ終え、二本目に手を伸ばしながら今後の予定を考える。


「あんちゃん、いくつだい?」


 その声が自分に向けられたものだと理解するのに、一瞬間が開いてしまった。

「ニ十歳です」

 とっさに返したが、内心びくびくだった。心の準備が出来ていないときに、他人に話しかけられると心臓に悪い。

「そうかぁ。わしは今年で八十四でなぁ」

「へぇー、そうなんですね」


 出来うる限り愛想よく相槌を打ったつもりだったが、それ以上何も聞けず、沈黙が続いた。この時ばかりは、もっとバイトをしてコミュ力を磨いていれば、と後悔した。


「……わしはな、妻が自分より先に逝くとは思わんだった」


 その一言を境に、おじいさんは、ぽつりぽつりと自身の身の上話を聞かせてくれた。


 初めは、長年付き添ってくれた奥さんの喪失。それが、どれほど辛いものなのか、俺には到底想像もつかない。ただ、そこは赤の他人が安易に踏み入っていいところではないと思った。その後、奥さんを亡くしてから、よく散歩のついでに、弁当を買ってこの公園で食べているということ。もう長男は五十を超えていて、孫も大学を卒業して働いているとおじいさんは話した。


 話しながらおじいさんは、どこかここではない遠くを見つめていた。そして、とても柔らかな表情をしていたことは、今でもはっきりと記憶している。


「あんちゃんは何、やっとるんだい?」

「自分は学生です。ちょっと夏休みなので……」正直に事情を言うにはバツが悪く、嘘をついてしまった。

「この辺っちゅうと、徳山大かい?」

「いえ、福岡の方です」


 当然、土地勘もないので、下手に嘘を重ねても仕方がない。とも思ったが、自身の身の上話を聞かせてくれたおじいさんに、嘘をつくことへの申し訳なさが勝っていた。


「福岡からかぁ。そりゃたいそうなこっちゃなぁ」


 特段気にする様子もなく、それからもおじいさんの話は続いた。次は、おじいさんの正社員時代の話だった。


 昔の徳山の男は、ほとんどの人が工場で働くのが常だったらしい。そして一つの工場に六百人程が働いていたと。しかもそれらの人はみなアルバイトで始まるというのだ。規模も雇用形態も驚きである。三か月に一度試験が行われ、そこから六~七人が選ばれて、正社員に昇格するという。ただ、アルバイトは下働きだが、正社員になると一気に待遇が改善され、言わば現場監督という立場になり、座っているだけでお金が入ってきたんだそう。


「昔はボーナスがよくてなぁ、夏になるとボーナスがドカーンと入ってきよったんじゃ」

 おじいさんは俺を驚かそうと言わんばかりに、これ見よがしに勢いよく両手を大きく挙げて言った。


「いくらだったと思う?」

 少年のようないたずらな笑みを浮かべて問いかけられる。俺はアルバイト経験こそあれど、社会人にはなってすらいない。ボーナス制度のことは当然知っているが、相場など見当もつかない。とりあえず、当てずっぽうで言ってみた。


「五十万くらい……ですか?」

「残念、二百じゃ」

「二百万ですか⁉ そりゃ凄いですね」

 思わず、声もはね上がってしまう。今時、手取り十七万なんて話も聞くくらいだ。二百万がどれほど凄いのかは、なんとなくだが伝わってくる。

「そうじゃろ、そうじゃろう」

 おじいさんは心底嬉しそうに、毛先がくねんと曲がっている自分の髭を撫でていた。


 話が一段落つくと、またしばらくの沈黙が続いた。今度はこちらから何か話そうと考えていた時、ピンときた。


「そういえば、先ほど仰っていた、徳山大学ってどちらにありますか?」

 結局質問になってしまったが、俺にとっては重要なことだった。この辺に大学があるのであれば、そこにはきっと出会いがある。それが何より今回の旅の目的だったからだ。


「徳山大だったら、そこを真っ直ぐ行って、右に曲がったところじゃ」

 おじいさんは、先ほど通ってきた大通りの方を指して言った。

「ちなみに、歩いて行ける距離ですか?」

 質問攻めで本当に申し訳なかったが、今の情報源はおじいさん頼りなのだ。『聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥』に本当になりかねない。

「まぁ、歩いては行ける距離じゃな、わしも近くを歩くことはある」

「助かりました。ありがとうございます」

 本当に感謝しかない。おじいさんのおかげで次の目的地も決まったし、道に迷うこともなくなった。

「こっちこそ、話を聞いてくれてありがとなぁ」

 そう言うとおじいさんは「よいっしょ」と腰を重たそうに上げて、「じゃあ、わしはそろそろ帰るかね」と言った。

「ありがとうございました」

 俺はおじいさんが過ぎ去る前に、精一杯の感謝を込めてお辞儀をした。

「ん。じゃ」


 おじいさんは背中越しに、こちらに小さく手を振ると、公園を出て行った。俺はおじいさんの姿が見えなくなるまで見届けると、無意識のうちに手で封をしていたパンの袋を開けて、残りのスティックを食べ始めた。


 食べながら俺は、こうしたおじいさんとの出会いが、旅を路頭に迷わせることなく順調に進めているのだと思って、感慨深いものを感じた。最初、同世代との出会いばかりを求めていた自分が、年齢関係なくこういった出会いにも価値があると感じさせられたのだ。こう言うと、少々図々しく感じるかもしれないが、過去二十年余りの人生で、上下左右の人間関係に振り回されてきた自分にとって、他者とのコミュニケーションは苦手な分類だった。だからこそ、コミュニケーションを避けては通れない環境に身を置いたというのも、旅の理由だったりする。最初の話し相手があのおじいさんで、つくづく幸運だった。


 残った最後の一本を平らげると、ごみをリュックに押し込み、俺も公園を後にした。次の目的地は徳山大学だ。

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