きみと息がしたくなる――Oct.
研修を終えて戻ってきたら、ちょうどいいと
「得意だろ、こういうの」
のこぎりを肩に担いで言った臼井先輩は悪い意味で妙な迫力があった。
廃材を目の当たりにした俺は片手を振る。
「いやいや、急にキャンプ場に連れてこられて、なんでキャンプファイアを作ってるんですかね、俺」
「あ゛?」
「明日空いてるかに、まぁと返したら朝早くに来たの先輩ですからね?!」
剃り忘れた無精髭をかきながら、臼井先輩は面倒くさそうな顔をしている。
その顔をしていいのは、むしろ俺の方じゃないかな。朝五時に起こされ拉致まがいなことをされた身にもなってほしい。
俺の情けない顔に免じて、説明する気になってくれたらしい。
「集中合宿の思い出作りにキャンプファイアをするんだと。塾長が思い付きで生徒に言ったから引き下がれなくなったんだよ」
「なる、ほど?」
「別にいいぞ。塾長の代わりにお前が授業しても」
のらりくらりと大学に八年居座った臼井先輩だが、今は塾の講師として働く身だ。
彼の提案は冗談ではなく本気そのもので、頬が引きつる。
「滅相もない」
勉強はもっぱら教わる方だ。教えるなんて不可能に近い。
言わんこっちゃないとでも言うように、はっと笑った臼井先輩は作業に取りかかった。持ってきた廃材を適当に切って、組み立てていく。
迷いのない手際のよさに目を丸くしてしまった。
「作ったことあるんですか」
「ねぇーよ」
「じゃあ、作り方、勉強してきました?」
「あんなん、見りゃわかるだろ」
見るだけでできないでしょう、普通。そんなツッコミを規格外の人に入れられるわけもなく、大人しく作業に取りかかる。ノコギリは使い慣れていたが、どのぐらいの長さで切ればいいのかわからない。隣を見て、何となくの感覚で切る。何度も迷うものだから、時間がかかった。
こんなもんだろ、と積み上げた木材に妥協点をもらったのは、昼ごはん前だ。
朝ごはんも食べられなかった腹がいびきのような音を上げる。
死んだ魚の目を向けてきた臼井先輩はおもむろにガス缶と食パンを出した。あと、宇宙探索機みたいなカクカクとした金属。
「何ですか、それ」
「昼飯」
「そのカクカクしたヤツです」
「シングルバーナー」
簡単に済ませた臼井先輩は見てろとでも言うように横にしたガス缶にカクカクしたものを取り付けてノズルを回した。あっと思う暇もなく青い火がつく。
簡易のコンロだったらしい。
傘の骨が広がったようなそれに、網がのせられ食パンが置かれる。直火だと香ばしい匂いが上がるのも速い。焼けた食パンを皿に置き、次に乗せられたのは蓋を開けただけのツナ缶とそこに山とつまれたシュレッドチーズだ。見るみる内に山は崩れ、泡が立ち、空腹には刺激が強すぎた。
食パンにあつあつのツナチーズがのせられ、目の前に差し出される。
「ほら、手間賃だ。コーヒーもつけてやる」
安上がりな、とは野暮なことは言うわけがなかった。むしろ、はちゃめちゃ贅沢な気がする。とことんまでこだわる先輩が作ってくれたものが、まずいわけがない。
ありがたく頂戴して、思いっきりかぶりついた。
熱い、うまい。うまい……! より濃密になったツナの汁が食パンに染みて柔らかくなった食感も、チーズの濃厚さも、カリッと歯にあたる食パンの香ばしさも、全てがうまかった。無言で出されたもう一枚もいただいてひと息つく。
「うまかったです。ありがとうございます」
ん、と返事のような、自分の分を頬張る時にたまたま出たのかわからないような反応をされた。なんだかんだで、ちゃんと聞いているのだから、それでいい。
「書く方は」
「さっぱりですね」
問いにもなっていない言葉をきちんと受け取った俺は肩をすくめた。『書く』とは小説を書くの意味だ。文芸部に身を置いているが、今は幽霊部員みたいなものだ。たまに部会には出るが、作品は全く書けていない。
五年生の時も忙しかったが、六年生の研修に比べれば楽なもんだった。研修の報告書、レポート、研究室の経過観察、またレポートに追われる日々。研究と仕事に終われ、疲弊した体に鞭打って書くほど、俺はタフではない。
「やめんのか」
「そこまでは考えてませんよ」
情けなく笑ってしまった。
呆れたのか目をすがめた臼井先輩は何も言わずにやかんを取り出した。
「水」
「自販機なんてありましたっけ」
左の方を指差され、そちらに顔を向けた。自販機らしき影を見つけて立ち上がる。
三本、と背中に声をかけられて、返事をして役割をこなした。
水を買って帰ってきたら、臼井先輩はいない。なんでだろ。
しばらく待っているとズボンに手をつっこんで、手首にビニール袋をぶら下げた件の先輩が帰ってきた。
詫びるわけがない臼井先輩は、見慣れないやかんみたいな物を取り出して、俺が買ってきた水を下の空間に入れる。引き立てのコーヒーの粉をやかんの真ん中のくぼみに入れると火にかけた。いつものドリップコーヒーではないらしい。
不思議そうに見ていた俺にようやく気付いた臼井先輩は、片方の口端だけをあげる。
「取って置きが入れてやる」
何だろう、それは。驚きと期待で彼の手から目が離せなくなった。コンロに直に置かれた器具から、コポコポと音が出始める。頃合いを見て火を止め、ビニール袋から取り出されたのはバニラアイスだ。
コーヒーにアイスをのせるのだろうか。ミルクと砂糖は邪道だと言い切った臼井先輩が。
信じられない気持ちで眺めていると、アイスクリームはアルミ製のカップに入れられた。流しかけられたのは茶色の液体。
溶け合う白と茶色に戸惑った。なんだっけ、これ。
「お前、アファガードも知らねぇのか」
「食べたことはあるような、ないような」
しかも、
食え、とスプーンを押し付けられたのでありがたくいただく。
やわらかくなったアイスクリームと茶色の部分をすくって口に入れた。すぐに溶けた甘味は何とも言いがたかった。苦味で食べやすく、なおかつ余韻を残すように引き立てられている。互いの味を邪魔せずに尊重しあって、口の中で混じりあっていく。
見た目より、食べやすい。もっとドロドロとした味かと思った。
もうひと口食べる。腹の底から息が吐けた気がした。知らず知らずの内に溜め込んでいたらしい。
もうひと口食べて、胸いっぱいに森の空気を吸い込んで、そっと吐き出した。
空気ってこんなにおいしかったっけ。
紅葉が始まった森が鮮やかに生まれ変わった気がした。
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