月を飛ぶ蝶のように――Sep.
内科実習を終えて帰路につくことにする。朝から入って入院中の子のケアや経過観察、手術の立ち会い、栄養剤を注射したり抜糸をしたりいい経験になった。
動物相手でも性格はさまざまだ。注射しても全く動じない子も入れば、刺す前から噛みついてこようとする子もいる。落ち着いて声がけをしても初対面みたいなものなので噛みつかれたり、引っ掛かれることはしばしばあった。
今日はダックスフンドと飼い主がキャンキャンとすごかった。看護師のフォローがなければ絶対噛まれてた。引きちぎられないにしても、ウィルス感染なんてたまったもんではない。
明日は、耳がつんざかれることがないようにと願ってしまう。
駅へ向かう道すがらメールの返信をしていると通知が飛んできた。名前を見て心が踊る。今しているメール返信を手早く終わらせて通知欄をタップした。
『誕生日おめでとう』だけの簡素な言葉と羊のような雲が浮かぶ青空を
電話をかけるのに迷いはなかった。数コールで出たゆう兄が話しだす前に第一声を放つ。
「楽しそうじゃない」
「すず、お疲れ様」
棘たっぷりで言ってやったのに、真綿のような声が返された。能天気な幼馴染みには嫌みが全く通じない。
とがった感情がしぼんで、小さくお疲れ様と返した。
うん、と微笑んだ相手はまるで寝物語を語るような声で訊ねる。
「今日はどんな子に会ったの?」
電話ごしのせいか、いつもより優しく聞こえた。
言おうか言わまいか考えて、誕生日だからと甘えることにする。
「三毛猫と、マンチカン、セキセイ、コザクラ、九官鳥、ラブラドールと、チワワ、トイプードル、ダックスフンド、それからキャンキャンうるさい飼い主」
へぇ、うん、と相槌を打っていたゆう兄が、ああと同情する声をあげた。
その声だけで話してよかったと思えるから人間の心なんて単純なのかもしれない。自然と息継ぎができて体の底からため息がつけた。おつかれ、と耳をくすぐる彼にわだかまる心を聞いてほしい。
「今日来てた、ダックスフンド。椎間板ヘルニアで痛み止めの注射をしようとしたら、暴れたの。飼い主も飼い主で心配なのはわかるんだけど、その子と向き合おうとしてるのに変なことしないでしょうね、の一点張りで触らしてくれなかったわけ。何度説明しても、必要だからって言っても全然聞く耳持たないし。無駄に時間かかった」
こっちも責任もってやってるつーの、という言葉は夜に溶ける。
「すず、頑張ってんねぇ」
「……どうなのよ、そっちは」
「んー、お産で寝不足?」
「今時期なんだ」
「ここは毎月になるように組んでるみたいだけど、たまたま重なったから」
思い出したように欠伸を噛み締めるゆう兄につられて、私も欠伸が出た。
寝不足じゃんと笑う声に、そっちこそと返してやる。
夏の名残のようなしめった空気を感じながら、視界の端に月を見つけた。
「月がきれい。ゆう兄、見える?」
「見てた見てた。明日、十五夜だよ」
「そうなの?」
ゆう兄が知っていること事態に驚いてしまった。返ってきた言葉に納得もする。
「先生に明日の綱引き出ろって言われた」
地元近くに帰って研修をこなしているゆう兄は周りに馴染むのが早い。大きな体なのに全く威圧感がないこともあるし、話し方や行動に緊張感がないとも言える。だからというか、よくイベントごとに駆り出された。ボーイスカウトや、祭りのボランティアもこなしてるから経験豊富だ。
地元の月見では綱引きをするのに、こっちではやらないと聞いたときは言葉を失った。虚無感を思い出して、ゆう兄に同情する。
「頑張って」
「うわーい、全然うれしくなーい」
ゆう兄の棒読みに震えが込み上げてきた。我慢せずに笑っていると、そうだ、と呟いた言葉が直に耳に届く。
「誕生日おめでとう」
返事はすぐには言えなかった。耳に吹き込まれた優しい響きに戸惑ってしまう。今までのお祝いは顔と顔を合わせたものだったから、当然、くっつきそうな距離で言われたことはなかった。耳に注ぎこむように言われたのは初めてだ。
特別さみしいと思ったことはないが、遠く離れていることをつきつけられる。近い声に高鳴る心臓は早足になった。
すず、と心配そうな声が聞こえて、気を引き締める。
「ありがと」
「どういたしまして」
くすぐったくて、でも、夜の道を眺めながら、どうしようもできない感情にかられる。
月はいつまで照らしてくれるのだろうか。
「こんなに離れてるの、初めてだね」
つい出てしまった声は、子供のようだった。
ゆるんだ気は仕事の疲れでも、誕生日の甘えでもない。未確定な未来への不安と寂しさからだ。
これからも一緒にいられる保証なんてない。
ゆう兄は考えを巡らせているようで、あーと電話ごしに声を上げて小首を傾げた、気がする。
「三日以上、離れたことなかったっけ」
「家族旅行とか、修学旅行ぐらいね」
楽しそうに笑う彼につられて、おどけてしまった。
ゆう兄は声の調子を保ちながら、続ける
「来週、お土産持って帰るよ」
「地元の土産って」
「なんか、新商品いっぱい出てるよ。新幹線さまさまだ」
「へぇ。甘いのとしょっぱいのね」
りょーかい、と間延びした声はいつも通りで、無性に会いたくなった。
「飛んでいけたらいいのに」
零れてしまった言葉に口を閉じてしまった。
呑気な幼馴染みは真に受けている。
「え、飛行機予約する? 今月いっぱいは研修って言ってなかった?」
「……現実つきつけないで」
「なんなら、俺が飛んでくよ」
笑って言ってるのに、本気でやりそうだ。
何言ってんの、と苦笑して付け加える。
「大切な研修でしょ」
「すず以上に大切な子なんていないし」
そう言ってかわすくせに、と口をついて出かけたけど、耳に響いた声と夜風が気持ちよかったから黙っておくことにした。
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