太陽の音を忘れない――Aug.

 こんなにも、世界は暑かったっけ。太陽に焼かれた頭はぼんやりとした。


「なんで帽子を持ってこないのよ」


 後ろからの叱責と同時に頭に何かが被せられた。清涼な石鹸の香りが鼻をくすぐって、頬に触れる感触でタオルと気付いた。見えるマークは、大学の校章だ。

 すず先輩らしい抜かりないチョイスと甘いじょっぱい世話に私の心が和む。


「こんなに暑いとは思ってなくて」

「猛暑日が続いてるんだから、油断したら倒れるに決まってるでしょ」


 本日のオープンキャンパスも漏れなく猛暑を記録しようとしている。共通学部棟から共同獣医学部の移動だけでも、ふらつく暑さだ。

 来校者は正面玄関から回ることを考えれば、近道を知っている私達がはやく着くのは必然で、何だか申し訳ない。クーラーが効いてない廊下の影が意識を繋ぎ止めてくれた。タオルをすず先輩に返した私は蒸し暑さに潰された息をゆっくりと吐きだした。

 眉をひそめたすず先輩は今日も麗しい。


「体調悪そうだけど、いけるの」

「うー、なんとか?」


 いける、とはこの後の学部説明だ。校舎の中を案内する役を教授から仰せつかまつっている。それで、今日の研究当番を変わってもらったのだから文句を言える立場ではない。


研究当番隷属をまぬがれてまですることじゃないと思うけど」


 どきりとした。

 先を行く背中に、あの、と声をかけたはいいが、続きがなかなか出てこない。

 無駄なことを嫌うのに、すず先輩は必ず待ってくれる。ああ、泣きそうだ。きっと、昨日ちゃんと寝れなかったから。


「世で言う、で、デートというものをする、ことになったというかなんというか、」

「まどろっこしい」


 一蹴されて、心がしゅんとなる。


「今晩、デートなんです」

「嫌なの」

「そんなことは滅相もありません! 夢みたいですッ!」


 弾けるように返した私は、何の文句があるのと書かれた顔に見返された。

 直視できなくて、視線を斜め下に落としながら、言い訳するように説明する。


「いや、あの、その、小野山おのやまさんのこと、話したことありますよね」

「ゲームのキャラに似てるスーパーのレジ打ちでしょ。微笑み王子?とかふざけたあだ名の」

「それをつけたのは巷のおば様達であって、小野山さんは全然ふざけた人ではありません! むしろ優秀ですから! レジはもちろん、商品の陳列に魚の調理、惣菜のお好み焼きまでスマートにこなせるスーパー器用な人なんです!!」


 私の熱弁に、アンタがそんなに話すの初めて聞いたわ、と呆れた顔をされた。

 でもね、でもさ、推しに対しては絶対ゆずれないとこというか、いやいやいや、今はそれ所ではなくて!


「その小野山さんとデートすることになったんです! しかも遠出で竹関まで!」

「そう。気を付けて」

「簡単に片付けないでぇッ」


 思わず、すず先輩にすがり付く。すぐさま、ぺちりと叩かれた。


「私があーだこーだ言ってもどうにもならないでしょう。それに缶詰サミットとか一緒に回った仲なのに、なんでそんなにビビるのよ」

「休憩時間に一時間もみたない時間を回るのと、車内で拘束されるのでは全然違いますぅ!」

「そんなに苦痛なの」


 逆に驚かれた。

 そうですよね、そうですよね。すず先輩は来城らいじょう先輩という幼馴染みがいらっしゃいますから、距離感なんて、一緒に過ごす長さなんて、ないものですもんねぇ!


真城ましろ、声に出てる」

「ひぃいいい」


 ものすんごい低い声に悲鳴が我慢できなかった。あまりの怯えように、ばつの悪そうな顔をしたすず先輩は今日も美しい。どうして、付き合わないんだろうね、もったいない。

 盛大なため息をついたすず先輩は大講義室の扉を開けながら素っ気なく返される。


「そっくりそのままアンタに返すわ」


 また口に出ていたらしい。申し訳ない気持ちを抱きつつ、すず先輩の言葉に素直に頷けなくて、弁明をこころみる。


「律儀で真面目だから誘ってくれてるだけですよ。付き合うとか、そんな大それたことには転ばないと思います」


 まとわりつく熱気に嫌気がさしたのか、私の言っていることがおかしいのか、すず先輩は疲れた顔をした。


「アンタとゆう兄、似てる気がするわ」

「そうですか?」


 そういうところよ、とクーラーの電源がつけられた。

 上がり始めたうなり声を聞くと、いつも思うことがある。


「滅びゆく音みたいですよね」

「そういうところよ」


 すず先輩の声は、録音音声のように無機質だった。



⿻*⌖.:˚◌˳˚⌖



 待ち合わせ場所で待っていると、集合時間の二分前に小野山さんの車がやってきた。


「すまない、待たせた」

「全然、待ってませんのでお気遣いなく……!」


 お決まりの文句を言って、気付いてしまった。

 小野山さん、私服だ……! スーパーの制服やスーツ姿はどちらかと言えばかっちりとしたものでそれはそれは眼福だったが、青みがかったグレーのTシャツも似合っていた。オーバーサイズの袖口や裾からは重ね着風の白い生地が見え、骨ばった肘からの筋が眩しい。まぶしすぎる。遠目で見たことはあったけど、まじまじと私服を見たことはなかった。もう、十分幸せです。


「乗らないのか」


 不思議そうな顔をする小野山さんは今日も美しかった。学生の頃の長めの前髪も好きだったけど、社会人になって整えられた髪は清潔感がある。さらりとした髪が眼鏡の縁にかかっているだけでお腹がいっぱいだ。

 恥ずかしさを耐えて、助手席に座った。本当は後部座席でひっそりと観察している方がいいのだけど、一緒に出かけるのだからそうもいかないだろう。


「お世話になります」

「世話になったのは私なんだが」


 あまりの固まりように静かに笑われた。

 密室の距離感で、これは非常に危ない。私のは情緒と心臓が。

 左右を確認する小野山さんの浮き出した首筋とか、対向車に手を上げるとか、全てに見惚れてしまいそうで、危ない。思った以上に危ない。


「オープンキャンパスだったと聞いた」


 彼の言葉で現実に引き戻されて、夢じゃないんだと何度目かになる自覚をした。混濁する思考を追いやって、頑張って口を動かす。


「そ、そうなんです。私も微力ながら手伝って来ました」

「へぇ、お疲れ様」


 それで疲れが吹き飛びました!と顔を覆いたいのを我慢する。手の平がよくわからない汗でぐっしょりだ。

 前を見る小野山さんをちらりと見て、拳を握る。


「た大したことはしていないんですけどね! 来場者に一日の流れを説明したり、研究室や実験室、処置室を案内しただけです」

「私も行ってみたかったな」


 悲鳴が上がりそうになった。ちがうちがうちがう、小野山さんが行ってみたいのは! 見てみたいのは! 研究室や処置室! 変に期待しちゃだめだって!!

 心臓が耳のすぐそこで鳴っているみたいだ。最後まで持つかな、私の心臓。

 運転する小野山さんの気が散らないよう、オープンキャンパスの出来事を脈絡もなく話していたら、高速道路に入った。

 意外と小野山さんが興味を示してくれたから話しやすい。耳を傾けてくれるとわかるから話すのが楽しかった。彼の話を聞くことはたびたびあったけど、自分から話すことは少なかった。主に私の方の諸事情で。

 静かな振動が、寝不足の体を誘惑する。


「寝てもいいぞ」


 優しく笑ってくれたような気がして、ふわふわとした眠気に負けてしまった。



 空から降ってきた音がした。クーラーのうなり声のような、耳に余韻を残すものだ。

 閉じていた瞼を開ければ、すっかり暗くなっていた。ハンドルの上に寝そべるようにした小野山さんが目に入る。

 また、空からの音。遅れて広がる歓声が遠くで聞こえたような気がした。


「……あれ、花火、始まって……ます、ね」

「おはよう」


 うまく回らない思考で泣きたい気持ちになっていると、小野山さんがやわらかく微笑んだ。わずかにさす明かりに照らされているだけなのに、眩しい。目に焼き付けたい。


「ここからでも十分見えるが、建物が邪魔している。屋台もあるだろうし、行くか?」


 動きたくないなら、何か見繕って買ってくるとまで付け足した小野山さん。


「大丈夫です、いけます」


 慌ててシートベルトを外して、ドアを開けようとした手を止められた。小野山さんの手が、ドアハンドルを持つ私のものに重なっていて、そこから伝わるぬくもりと、すぐそばにある息づかいに目が回ってしまう。


「車の距離が近いから気を付けてほしい」


 安堵のにじんだ声を耳に吹き込まないほしい。

 ドン、と一際大きな空からの音がした。光は届かないのに、パラパラと音が落ちてくる。休みなく続く音より、私の胸の方が騒がしかった。




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